あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

驚きの新事実。

 11月の我が家の決算は、実に惨憺たる有様でした。エンゲル係数がとんでもない数値に跳ね上がってしまったのです。PC上に作成したExcelシートで表計算をしているので、私の打ち間違いがなければ、大赤字です。二度見を通り越して「見なかった事にしよう」という心の声に危うく押し流されそうになりました。

 生活費の凡そ半分が食費という、まさしく怪事件です。どのご家庭にもこのような事故は起こり得るものなのでしょうか。

 シングル家庭で、小さい男の子2人、そして驚きの食費が、ドン、7万円。外食はほぼありません。良い米を食べているのがいけなかったのでしょうか、いやいや中高生ならいざ知らず、チビ達の胃袋の大きさなど高が知れています。長男がミンチ肉以外の肉を敵視しているので、いわゆる高級なお肉は買えません。となるとメインディッシュは魚料理になるのですが、これも高値の白身魚はパサパサしやすい為、息子達はお気に召さないようです。大衆魚でお買い得なのが吉、これがさてどの程度、家計を圧迫しているのでしょうか。

 さあ、どこ辺りが積もり積もってになっているのか、考えるのも面倒になっています。←「そういうとこだぞ」と、原因が判明。

問1.以下の文章を読んで()に当てはまる「良い子の条件」を抜き出しなさい。

 順応性の高い子が、もしかしたら一般に言う「良い子」に値するのかも知れません。「まさか、あんな礼儀正しい子がこの酷い事件の容疑者だなんて今でも信じられません」「大人しい子で、声を荒げたのなんて聞いた事なかったよな」、事件の容疑者の評判は「いつかやるとは思ってたけどね」という予知めいた物とはかけ離れた物が多い気がします。

「普段はとても優しい子だったんです」、親ならなおさらそう思いたいはずですし、本気で無実を信じてもいる事でしょう。まさか、と思う様な事が現実に起き続けているのが恐ろしいですが、まさか、を作り出しているのも私達を取り巻く「人間関係」だと言う事を見逃してはなりません。

 幼い子供の世界にも有るのかも知れません。例えば、片付けが上手な子、思いやりのある子、人を敬う事が出来る子がいるとして、でも、その長所を発揮出来るのは残念な事に「家庭」という限定された空間だけであるとしましょう。

 他人の前で良い子であり続けられる子と、注目されると緊張して良い子をセーブしてしまう子は、果たしてどちらが「良い子」でしょうか。簡単な問題でしょうか。

 順応性の高い子が、良い子。それが現実に起きています。大人でも。

泣き所

 冬生まれの私達家族は、多分、冬をポジティブに捉えています。それでも、毎朝、凍えるような安普請の賃貸住宅です。外気温と変わらない寒さの部屋で、長男を起床させるのは難題です。呼び掛けで起きないのは解り切っていますので、筋力に物を言わせて寝床からそのまま抱き上げます。22kgの長男は学年でも前から2番目というのですから、小柄な部類ではあることでしょう。しかし、あちこち骨ばった筋肉の塊を担ぎ上げるのは同じく小柄な私には容易い仕事ではありません。

 寒さが募れば、この地味な作業も難易度を上げる事でしょう。一晩体温でぬくもった寝床の快適な事は何物にも替えがたいものです。彼の側で猫のように丸まって眠っている弟のぬくもりも、長男の起床を阻む手強い要素です。2人の可愛い頬っぺたに寄り添って、母である私とて、いつまでもダラダラ怠けていたいのが本音です。これではイカン、と、鬼の決意で理性を奮い立たせているに過ぎません。

 情けなくも、居間にゴロンと横倒しにされた長男が、仕方なしにもぞもぞと着替えるのは登校時間ぎりぎりの切迫した頃です。母の焦りもどこ吹く風か、ゆっくりと始動する息子の姿に冬の深まりを感じるこの頃です。

たまたまのたまてばこ

 心を奪われる程の感動を、人は生涯に幾度くらい味わえるものでしょうか。プラスの情動が「感動」であるのだとすると、ややマイナスの情動は「衝撃」や「驚愕」と言い表せますでしょうか。喜怒哀楽の瞬間は、なだらかにも急激にも起こり得ますが、この先の人生に渡って影響を及ぼすほどの「振動」は平凡な日常生活ではそう多くはないと思います。

 まだ全部ではありませんが、ありとあらゆる振動を、私は「母になる」という一大事業から体験する事が出来ました。我が身から出たものもありますが、自分でない誰かの為にあれほど眠れない夜を過ごして、自分でない誰かの為に飛びあがる程の嬉しさで涙を流し、自分でない誰かの為に「自分の命を肯定出来て」、私の広げる両手がどこかへ繋がっている事をこれほど実感出来た事は今までなかったように思うのです。

 自分で働いて稼いだ金銭も、全く自分の物にはなりません。必死で作った時間でさえ、自分の自由にはならないのです。そんな苦行をいったい誰がしたいと言うのでしょうか。

 10年前の私に言ってやりたいです。10年前の私へ教えてやりたいです。

 この宝箱に一杯詰まったあれもこれも私の「何一つ思い通りにならない幸せ」を。

とこしえの松の枝

 調理中、ラジオ代わりに落語を聴いています。主に米朝一門の演目を流しているのですが、故桂枝雀さんの語り口が好きでよく選びます。『代書屋』『子ほめ』『幽霊の辻』と次々流しては、暗い台所の隅で、フフフっと薄気味悪い笑いを忍ばせている私です。包丁を握り、前かがみにまな板へ向かっている中年女が夕餉の支度をしつつニヤけているのは、見目良い光景ではありません。

 ともあれ、枝雀さんの語る演目の中で毎回欠かさず聴いているのが『青菜』です。ひょうきんな植木屋と、連れ合いの女将さん、それから友達の大工に、豪邸に住むご隠居さんと奥ゆかしい内義、登場人物が織り成す愉快な物語が、軽妙な名人の口調で眼前に繰り広げられる喜劇のように語り尽くされるのです。

 舞台の背景は丁度夏の暑い頃で、植木屋の稼ぎ時です。私の父も植木職人でした。繁忙期には、顔は日に焼けて真っ黒でした。

 また、冬もかき入れ時です。お正月を迎える為の庭木の手入れは誰しも心を砕くものなのでしょう。松脂の清々しい香りを背負って帰って来る父が、私には何故か誇らしかったです。玄関先で、地下足袋を脱ぐ後ろ姿が妙に色っぽかったのを憶えています。師走の頃の思い出の一つです。