あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

荷ほどき

長男が生まれた記念すべき日が、ちょうど紅葉の季節と重なるのが嬉しい。東京は毎年この頃は特に穏やかな小春日和が続いて、少し風は強いが空は遠くの方まで澄みきっている。

今年、長男と次男は、夫の車に乗って箱根方面へと一泊の旅行に出かけた。勿論、子どもらにとって、両親が揃わないことは不本意だと私も十分過ぎるほど分かっていることである。まだ幼い彼等には確かに酷だとも思う。しかし、夫と私が別居に至った経緯を知っている長男は、静かに私達両親の姿を受け入れてくれている。もうかれこれ3年、今では当時を懐かしむ余裕さえできてきた。

旅行先から夫のline連絡で、紅葉の中、はしゃぐ子どもたちの写真が送られてきた。ロープウェイからの景色や、ガラスの森美術館の館内の様子など、行楽地らしいにぎやかさが伝わるような明るい画像だった。

彼等が旅立つ前、次男の方は少しぐずついた。旅行に私が行かないと分かったとたんに気持ちがしぼんでしまったようなのだ。長男はもの言いたげに黙っていたが、たぶん同じように寂しさを抱えていただろう。2人の支度を整えながら、私は彼等の旅の無事を祈っていた。今更、叶いもしないことであるが、親子そろって行楽地のホテルで誕生日ケーキのロウソクを吹き消すことができていたなら、さぞかし楽しかっただろうと、思い巡らしながら。

旅を終え、そうして夕方、彼等は私の元へ還って来た。

ホコホコと膨らんだ喜びの空気を連れて、元気に私の家へ戻って来た。

祝祭が済んだのだと実感した。

陽の光の匂いがする。

これからの彼等の日常を、また私はつつがなく作っていかねばならないのだ。

特別な日が、より、上等な思い出として子どもらの心に残るように、いっそうの健やかさで日々のあれこれをこしらえよう。

(2020.11.24)

魔法の書

「君達はどんどん大きくなるね」と感嘆すると「じゃあ、お母さんはどうなるの」と眉を上げる子どもたち。「そうだね、お母さんはこれから、小さく小さくなるんだと思うよ」と笑ってみせると、「小さくなってどうなるの」と身を乗り出してくる。底なしの探求心が面白かったので、こちらも大真面目な声を作って「小さくなって(両手で水をすくうような形を作りながら)これくらいになって、最後には見えなくなっちゃうんだよ」と生命の種明かしなどをしてみせてやった。次男はそうすると「なーんだそんなことか」という表情になり、即座に「僕がお母さんを産んであげる」と言ってのけたのだった。

神秘的で及びもつかない宇宙の謎も、きっと彼にとっては菓子箱の蓋を開けるように簡単に解き明かしてしまえることなのかもしれない。

「産み直してくれるの?」と念を押してみると、「僕が産む」と本当に満足そうな顔でただ彼はニコニコしている。赤ちゃんを誕生させる難題について「僕」が主役になることはないし、一つの命が終わることは誰にでも引き留められることではないし、先に旅に出てしまう母が、「僕」に付き添って彼の一生を見届けることは、たぶんできない。大人はもう魔法使いを辞めてしまった人が多いから、彼が嬉しそうに語る魔法の話には少し冷めた寂しい相槌しか打てなくなってしまっている。

だけれど、私を何度も生き返らせると約束してくれた息子は、確かに私の息子で、私がもうすでに魔法使いを辞めてしまったことなどは全然知らないままだが、それなのに、彼の迷いのない魔法の言葉は、深く、深く、私を励ますのである。

私は彼から「もう、死なない」魔法をかけられた。小さくなって見えなくなるけれども、いなくなってしまわない設定の人になったのだ。

本当にありがとう。

君の親でいさせてくれたことを、心から光栄に思います。

観察日記と名付けます。

 時勢のため、長男の通う小学校では秋の運動会が、体育参観に変更になった。大掛かりな学年ダンスや組体操、組別対抗リレーなどを行わないかわりに、学年ごとの総入れ替え制で、体育の授業を保護者参観の形で催す運びになったのだ。

 流れは至ってシンプルである。時間になれば児童は学年ごとに校庭に出て体育をする。それを、校庭に大きく引かれた白線の外側で保護者が見守る。入校の際には勿論、参加を希望する者の記名と、体温チェック、手指のアルコール消毒がある。一通りの儀式が完了すれば、体操服姿の児童が整列する側へと駆けつけるのである。

 準備体操、ストレッチ、粛々と授業は展開される。メインとなるのは、各クラス出席番号順に競われる模擬的なクラス対抗徒競走だ。名前順に並んでいるので、我が子は後ろから数えた方が早い。本来の運動会リレーでもそうであるが、何故か競争類はアンカー辺りが盛り上がる。血が沸く、肉が躍る。

 自分の番になり、長男が他のクラスの生徒と共に横一線、スタートラインに立つ。どういうものなのだろうか、母親というのは、息子の横顔には非常に弱い。まだ、駆けだしてもいないのに、ゴールを真っ直ぐ見定めている我が子の真摯な立ち姿を眺めるだけで、心が震えるような気持ちになってしまう。「あの、幼かった子が……」などと、急に懐かしい思い出がめぐって来るからかも知れない。

 何かに挑もうとするときの男子の雄姿は、まるで狩りに出向こうとする大型のネコ科動物のようだ、と私はたびたび思う。動き出す瞬間の筋肉の動きや、彼等が躍動するとき描く軌跡が、たぶんその美しさを想起させるからなのだろう。

 体育参観の前日、長男は私に弱音を吐いた。負けるくらいなら、学校へなんか行かない、と。負けることを恥じる、格好悪い姿をさらしたくない、それを人一倍気にする長男らしい発言だ。人の優劣は、足が速いとか勉強ができるとかそういうことだけで測られるものではない、私はそれだけを長男に告げ、当日の出欠判断は彼に任せることとした。

 その結果、翌日長男は、私の目の前に、一人の走者としてスタートラインを踏むに至った。

 通常の体育授業でかけっこの練習はしてきたはずだ。授業中では絶対に勝てなかった相手は、当たり前であるが、本番でも息子と同じスタートラインに横並びで立っている。よーい、どん、の声が掛かるまで、スタートの構えを保ったまま、息子がどのような心境であったか、母には計り知れない。ただ、ゴールを睨む彼の眼差しは、私にとってあまりにも遠く、まばゆくて、別次元のもののように感じられたのである。

 走り始めた彼は、やはり、風を連れて走る獣のようだった。正確なフォームではないが、彼なりの一生懸命な前傾姿勢が、彼の足を確かに加速させていたように思う。もう、子どもの走りではない。オムツをしたまま、先生たちに付き添われるようにして人形みたいに走り出していたかつての彼は、既に思い出の一つになってしまっていた。すでに、男の「子」では、ない。私はただただ驚嘆し、感動した。ゴールを捉えて鋭く見開かれた眼が、もう、母の知らない「男子」になっていたからだ。

 少しずつ、母という物は、おいてけぼりになっていくものなのだろう。それは決して悲観するようなことでなく、むしろ喜ばしい喪失感である。一緒に風呂に入り、湯船に浸かるたび、互いのヘソを見比べては「お腹にいたときは繋がってたんだね」と笑い合っている我々であるが、それでも、一日、一日、きちんと隔たりは広がっていくのである。まだ、彼の涙の意味を知ることができている、まだ彼の楽しみの原因を推測できる、気楽な場所に私は居座っているけれども、いつか、近いうちに、彼は自分の悲しみを独り占めするであろうし、自身の達成感や高揚感を身内でない誰かと分かち合うようにもなるだろう。

 巣立ち、子離れ、独立、いろいろな表現はあるけれども、そのどれもに親の未練などは差し挟みたくはないものだと思う。わずかばかりの痛みが伴ってもいいけれども、彼の気がかりになるのは避けたいものだ。

 赤ちゃんはみんなデベソ。お母さんのお腹から出てきたときは、その名残も色濃いからデベソになるのだ。けれども、成長するにつれて多くの子どものヘソは、奥ゆかしく腹の内側へともぐりこんでいく。もう、お母さんと一緒でなくても大丈夫だよ、そんなことでも考えているのだろうか。ちなみに、今、3歳の次男のヘソはふっくらしたお腹のラインよりも更に飛び出している。ぱっつりと元気よく膨らんだお腹に縫い付けられた肌色のボタンのよう。しかし、もうすぐ8歳を迎える長男のそれは、引き締まった腹筋に貼り付くように平らである。繋がっていた証は着実に風化していて、いよいよ「少年」の領域へと踏み入る準備は整ってきたのだと見てわかるまでになった。

 子の発育に多少の大人の助力は必要だが、手厚いお節介はきっと邪魔なのだ。厳しい世情の中にも彼等の成長を阻むモノは存在しないのである。かく言う私もかつてはそうだったのだろうと思うが、する側とされる側では見方や驚きの質は全く違う。自分が成長する側だったころは、なにしろ自分がつむじ風のように縦横無尽であったから、周囲がスローモーションだった。どろりと回転する景色の中を、流線型に形作られた魂をもって駆け巡っていたように記憶している。そして、その自分が子どもの成長を追う側になってみて初めて彼等の驚異的な吸収力と反応速度に舌を巻くのである。

 おもしろい、と思わず手を打ってしまう。非常におもしろい、と誰かにこの感動を吹聴して回りたくなってくるのである。

 ひたすらにゴールを目指し、ついにゴール手前でライバルを僅差で突き放した長男に、私は馬鹿のようになって涙して、喝采を送った。生まれてからまだ10年にも満たない彼が、自分の手足で、体で、心で、努力で勝ち取った1位である。彼をこの世に送り出しただけの母には、とても現実味がないものだった。ゴールラインを走り抜いて友達に次々頭を叩かれ祝福されている彼の姿が気高いものに映った。すでに彼の視線は不安そうに私を探すこともしない。母を慕ってそわそわと友達の列から迷い出ることもない。彼の居場所は勿論、我が家にもあるが、私の想像が及びつかない場所にもきちんとできているのだ。

 次の運動会が待ち遠しい。

 自由に翼を広げる彼が早く見たいものだ。

 感傷的になるのは親の勝手。わがままを奥底にぐっと沈めて、彼の雄姿を見守ろう。

limited

踏み切った雲のはしを、もう振り返らずに、つむじ風を掴んで、駆け上がる。

一人分にさえ足りない翼、紺色の景色を叩いて走る、追い付けない貴方と知っている、巻き戻せないぬるい幸福と知っている。

もう、「自分」には邪魔されない。もう、「自分」には邪魔させない。

貴方を知ってしまった。「貴方のいない時間」を知ってしまった。

少し遅れて笑ったあの意味は何?

言葉を探して、やっぱり止めて、しまい忘れた笑顔だけを見せた貴方。

ありのままを私に残すのは、残酷。ありのままで私を包むのは、残酷。

たどりそこねた優しい「お話」を、曖昧な「確かさ」に戻して繋ぎ止める瞬間、眉間に少し力を入れるの、泣き出しそうになるから。気付かない振りをしてくれたのかな、元通りに演じてくれたのかな、そう、だって貴方の思いやりはいつだって綺麗。

両手に掴んだつむじ風に連れ去られ、私は立ち止まれないまま。

貴方の今日を私に下さい。

貴方の今。貴方の笑顔の先。

 

 

 

 

 

(夏のポエム的な何か(笑))

不純に、頑張れ!

褒めてもらいたくて頑張る、それは、不純な動機だろうか。人に頑張らされてるのでは消化しきれない物が残るだろうが、自分が前進する推進力の一つに、大切な人からの「頑張れ」というのはアリだと思う。

良い結果に向かっていくのに、動機の良し悪しを精査してそれを論議するのは私にとってとても回りくどい。では、逆に、望ましい動機は何だろう。誰かの力になる自分を作り上げるための、迷いさえなければ「そうなろうとする妥当な理由」は、エネルギーにさえなれば十分だと思う。

子供を見れば解る。

達成感のために彼等は確かに頑張っている。1番を取るため、駆けっこに必死になるのも、クラス発表で元気よく手を挙げるのも、大きな声で歌を歌おうとするのも、子供の「頑張る」はとても自発的。だけれども、彼等の情熱の出発点は、大切な人からの「頑張れ」だ。

大切な人を喜ばせたい。その一心に、その純真さに、あえて形など無くて良い。

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