あかりの森's blog

子供に「育てられてる母」の雑記帳です。九州男児の主人と5歳園児の長男、へこたれない次男1歳との賑やかな毎日。主にのほほん、時々、真面目。

あきらめなよ、どうやったってヒーローって柄じゃないんだから。

「無くては困るモノ」と「有ると便利なモノ」は、常に精査しなくてはいけないと思うんですよね。巷で流行している断捨離の基礎概念の一つでもあるのでしょうけれど、もっと踏み込んで言えば、自分にとって何が大切であるのかを炙り出す作業とでも言い得るでしょうか。

 「有ると便利なモノ」を手放すと、その瞬間は寂しくなったり心もとない気持ちになります。捨ててしまった事に対する後悔や、自分の早合点への恨みが生まれて来る事もあるかも知れません。だけれども、しばらくすると傷口はちゃんと塞がって、元通りというわけではないにしても、痛みを感じる神経が鈍くなったり、ともすれば、新しい肉が盛り上がって別の仕様へと変化を遂げる事もあります。

 逆行してあえて不便な生活を営もうと言うのとは違います。スッキリしない、鬱陶しく風通りの悪い場所を整理整頓し、几帳面に剪定し、心地よい余白を産み出し身軽になる過程を楽しもうという話です。ギュッとモノが詰まった場所で、自分自身までがまるでブロックピースのように組み込まれてしまっている状態では、自由に手足も動かせず、息苦しく、気詰まりであるという事をもう、早く気付いた方が良いのだろうと思うのです。モノは「物」でもありますし、「者」でもあります。抽象的なモノ=感情、でもありますね。手放す時の感傷が、間を置かず新しい心地よさに生まれ変わるのだとしたら、古いモノにしがみつく体力を、もっと有意義に使用できる場所を、いち早く探し始めた方が幾倍も価値があるようにさえ思えます。

 かく言う私も、なかなかに未練がましい面を持ち合わせており、一枚のシャツをゴミ袋に入れるにも何のかんのと思い出を掘り返してしまいます。最後には意を決して目をつむるのですが、そこに至るまでには少なからず、自分を納得させる必要が発生します。「有ると便利なモノ」に支えられている生活が肌身に馴染むと、こういう弊害もあるわけですよね。便利なモノは、時に、子育て中の綱渡りの世界では一分一秒を稼ぎ出してくれる事もあるのですものね。それに見切りを付けると言う作業は、現役世代には真に骨の折れる事と想像します、また実感しております。

 いっそ、律儀でなく、ずるく生きた方が心が喜ぶのかも知れないなあと頭に過ぎる事があるんですよね。自分の中で戒めている事を、思い切ってやってみる、人の目を極力見ないようにして悪い方へと踏み出してみる。ガチガチに凝り固まった自分には最初の一歩は足がすくむ程恐ろしいのですが、深呼吸一つ、えいや!っと飛び越えてみると違った景色が見て来るような気もするんです。

 取捨選択して、上手に捨てる、きっちり選抜して上手に拾い上げる、こういう事はそれに携わった経験数でしか身につかない技術であると思います。鑑定士の訓練と同じく、よく観て、触って、観察して、価値を見つける、この繰り返し練習でしか、石クズの中から宝玉の原石は見つけられないのではないかと思います。捨て間違っちゃった、拾い損ねた、時々味わう苦い想いがきっとあっても良いのです。自分を馬鹿にする人が周囲にたくさんいたとして、その潮流に流されて(いやいやでも)馬鹿を演じていてはいけないのだと思うんですよね。放置された自転車のカゴに、小さなゴミが放り込まれたとしてそれを放って置いたら次の日にはジュースの空き缶が投げ込まれています。またこれを放って置いたら、その次の日にはスナック菓子の汚れた空袋が追加されています。もっと知らない振りをしていたら、10日後には自転車のカゴがゴミで覆い尽くされています。そうして、そのゴミの重さに耐えかねて、自転車は無残に道端に倒れ込んでしまうのです。自分を大事にすると言う事は、ちょっとそれと似ている気がするのです。過保護にするのでなくて、大切に見守ってやらないと、周りからも当たり前ですが大切にされるわけがありません。嫌な事は嫌、もう、自分を粗末に扱わない、そう言った事も広義では「無くては困るモノ」を丁寧に扱うという事の様な気がします。

 断捨離は、単なる身辺整理には止まらないと思います。根本的な意味で言うところの、自分の命の価値を見つめる作業ではないでしょうか。失ってはならない絆、不必要だけれど何となくあると安心した気になってしまう繋がり、決して手放してはならない思い入れのある品、見栄や矜持だけで側に置いてある厳めしい装飾品。

 無理に自分を変えようとする必要はさらさらなくて、やらなければならない事はただひたすらに自分自身の姿を正面から捉えてやる事です。本当は何がしたかったのかを入念に聴いてやる、どういう事に心が躍るのかを丁寧に見極めてやる、サインを見過ごさないように慎重に、歩幅を小さくして、吐き出す息をいい加減でなく、深い温かな濃いものにしてやる、それだけの事をチマチマと馬鹿真面目にやってやるだけでいいのだと言う事です。

 頑張るのも良い事です。でも、同じくらい頑張らなくても良いのです。「無くては困るモノ」だけに研ぎ澄まされた自分であったなら、この先進む道が分かれていたとしても、必ず迷わず、望むべき場所へ辿り着けるでしょう。誰を羨む事もなく、誰を罵る事もなく、恥ずかしがらずに、信じたモノを裏切る事なく自分の足で進んでいける力がありますから。

 多くの色を無制限に混ぜ合わせれば、鮮明さは失われて、ニュアンスもぼやけて、結局のところ、何を訴えたいか分からないモノが出来上がります。薄いにしろ、深いにしろ、淡いにしろ、重厚なのにしろ、濁らない色彩は見る人の心に突き刺さりますし、混じりけの無い主張は相手の想いと対等の立場でちゃんと独り立ちして対面できます。くすまないように、曖昧に解けてしまわないように、それでいて肩肘張らずにふんわり笑っていられたら、とても良いですよね。

 譲れないモノを抱えた人は、強いです。見据える先を知っている人は、強いです。

 「断捨離」という流行りの言葉を消費するだけでない、本物の「持たない人」は、いずれにしろ無限にある自遊空間の中で、それこそ楽しそうにそらっとぼけています。説得力のある笑顔で全部を出し切り、やっぱり次の日も、その次の日も、無限にある自遊空間の中で、そらっとぼけて笑っています。

 ピカピカの綺麗な魂をヨーヨーみたいに振り回して、「彼」はきっと全速力。

こじれるのなら、斜め上が良い。

 可愛いモノよりも、カッコ良いモノに憧れてきました。ガーリッシュよりもボーイッシュを常に目指しておりました。小さい頃は男の子の友達とばかり遊んでいたように思います。魔女っ子が変身するキラキラしたアニメよりも、宇宙警察が悪の組織と死闘を繰り広げるビカビカした戦闘シーンを食い入るように見つめておりました。

 大人になった今でも、軸の部分は変わっていないと思います。撫でつけられて大人しく寝そべっているよりも、けしかけられて駆けずり回っている方が気持ちに正直であるような気がします。第一子で一人娘の私(弟あり)は、女の子をフワフワと慈しんで育ててみたかったという母の理想とはおおよそかけ離れた人に仕上がってしまったに違いありません。時折、読むなら恋愛小説よりも軍記物、映画鑑賞なら壮大なアドベンチャーや宇宙叙事詩に胸が躍ります。

 それなら現在の私自身が颯爽としたパンツルックや、引き締まったスーツスタイルが似合うのかと言えば、これこそ逆の話で、Aラインの膝下スカートや、ふっくらと丸みのある提灯袖ブラウスを着る方が評判がよろしかったりするのです。まさか、宝塚歌劇団の男役俳優の方とは比べものにはならないでしょう。けれども、フェミニンなムードこそはそぐわないだろうと自分で思い込んでいるよりも、客観的な視点から得られる評価が存外多様で、それにはいささか驚かされてもいるところであります。

 カッコ良いモノは私の「中」でなくて、残念な事に常に私の「外」に存在しました。今に至ってはもう、ここから何かに成りたいと熱望しているのではなくてただ、単に、カッコ良いモノを目で追いかけているだけです。例えば、時代劇の殺陣(たて)等は、つい画面に見入ってしまいます。映画『るろうに剣心』、『無限の住人』、テレビドラマ『御家人斬九郎』、見惚れました。剣劇は虚構です、分かっているんです。鋼で誂えられた重厚な日本刀を片手で蝿叩きを振り回すみたいに、あれほどブンブン振るえる訳はないんです。いざ戦闘になったところで、刃先で撫で切るような斬り方では相手を殺す事なんて出来ないんです。敵をあんなに大勢薙ぎ倒していきますけど、最初の2,3人で尋常の刀は刃こぼれを起して使い物にならなくなるんです。分かっています、分かっていますとも。でも、目が離せなくなるんです。エンターテインメントの重箱の隅突いても、楽しくも何ともありません。

 特に時代劇には「定型」があります。斬られるべき悪モノがいて、やむを得ず殺生をする正義の味方がいます。これがそもそも解りやすくて観ていて安心感があります。現代劇のように、あっちに飛び、こっちに転がり、何でもありでエキセントリックでもいいしロマンチックでも良くて、お決まりのお涙頂戴でも、不気味な未解決でニヤリでも良い、などと言う漠然とした自由さが介在しにくいです。私には、その起承転結がはっきりとした緩急が振れ幅一定なのが丁度、胸の辺りにしっくりくるように思えるのですね。加えて、その「定型」がほんの少し崩れている物語にとても興味を引かれるのです。とびきり腕の立つ主人公が、私生活では金と女にだらしない、だとか、本気を出すと最強の剣士だけれど普段はただのおっさんである、だとか、こう、微妙にでもいいですし、明らかにでもいいのですが、表面上では「格好良くない」というのがカッコ良いと思えるのです(『御家人斬九郎』の原作者、柴田錬三郎氏が執筆された別作品『眠狂四朗無頼控』の主人公は同じ作者がお書きになった者でも格好良すぎて逆に範疇から外れます)。

 つくづく自分はひねくれ者であると思い知るのですけれど、私は美し過ぎるモノには恐れ多くて近づく気持ちが萎えてしまう傾向にあるようです。非の打ち所がないモノに親近感が湧きにくいのでしょうか。間違いなく、私は「非」だらけなので、どんなに偶然が重なったとしても、隣に座って同じ空間で(全くの他人としても)知らぬ客同士で御飯も食べられないようなキャラクターには上手に感情移入が出来ないのですね。痺れる程に憧れるなあ、というのは考えにくくて、「お友達からお願いします!」の方が私には随分と肌に合っているのではないかと思います。

 『暴れん坊将軍』の上様も、『遠山の金さん』の左衛門の尉も、当方には格好よすぎるところの方々です。『水戸黄門』のうっかり八兵衛さんとなら仲良くなれそうですが、困った時には即座に助さん格さんの背中に隠れてしまうのが心もとないところです。そもそも、彼は刀を振り回したりしませんしね。

 腕っ節は強いけれども、フラフラとして勝手気まま、折よく信念をくすぐられたり、義理人情を煽られると途端に火が付いて全てを投げ打って立ち上がる、それがたまらなく熱いんですよ、熱くさせられるんですね。

 思うんですが、私そのものが「浪花節」の女なのでしょうね。ポップミュージックよりも演歌、ゴスペルよりも浪曲、ミュージカルよりも歌舞伎、要はそういう人種であるのでしょう。

 まとめますと「行列のできるラーメン店の店先で、たまたま隣に並んだちょっと悪めの(実はその界隈では名の知れた)喧嘩が滅茶苦茶に強いガタイの良いぶっきらぼうだけど優しいオニイチャン(喧嘩は売られてから買うタイプ)」が、たまらん、という結論です。

 可愛い、よりも、カッコ良い、に魅了されて来た結果、このようにこじれた嗜好を持ってしまった事を、ここに白状いたします。

 

背中で語る。

 子供(男子)の習い事と言えばなんでしょうか。サッカー、野球、水泳。水泳は男女問わず「心肺機能を高める為」「水に対する抵抗をなくす為」「負担を掛けない有酸素運動」等の理由から人気でしょう。我が家も長男が3歳の頃に、何かしら体育をと思い巡らせた事もあったのですが、この面倒臭がりの母の悪影響で今の今まで、これと言った習い事へ通う機会にも恵まれませんでした。

 私の幼少期の習い事と言えば、書道やそろばん、公文がメジャーでした。水泳はその頃から人気で、実弟が実際に通っておりました。一方、ヒップホップダンスやらバレエやら横文字の物は発展的なお宅での事と捉えられている時代でした。塾通いをする子も少数派でしたね。小学校に入学する為に情操教育や礼儀や工作を習いに行くというのはもう別世界のお話。スクールバスというシステムさえ目新しい素朴な田舎で育った私が母になり、いざ息子にどんな習い事をさせようか、と思い巡らせてみるとこれと言った妙案が浮かびませんでした。長男が3歳の頃、まだオムツが取れていなかったので水泳は無理だろうとは思っていました。加えて彼は頭から水を被る事が出来なかったので、水中に潜るなんて言うのは論外(赤ちゃんの頃に、沐浴時、私が頭から湯を被せて以来、恐怖を感じるようになったようで)。習い事をさせる時の基本は、本人の希望がどの程度強いか、やりたい気持ちがどこに向いているか、が重要だと思っているので、まずは彼のベクトルを手探りするところから始めています。

 物心つく前から始めるのが良しとされるのは英語や体操(リトミックも含めて)なのだと言われますね。音感を鍛えるのも3歳頃が一つのラインであるらしいです。教育熱心でない私は、ともすればあまり子供にはよろしくない親であるかも知れません。彼等の未知なる才能を見逃しているとすれば、ちょっと後ろめたいところであります。

 5歳になった今、長男の運動能力に不備な点が見当たらないので、またぞろ習い事を考える時節となりました。座学というよりもやはり運動をメインにした方が良いと思うので、それとなく周囲を見渡してみると水泳の人気は何歳になっても根強いのが分かりました。息子に水泳教室に通う意志を問うてみましたが、行きたくない、と即、却下されてしまいました。私自身が「木槌」(金槌、ではない、泳げないが、浮く、ので)であるので「面白いからやってみな」などと無責任な勧誘は出来ませんでした。本人が乗り気でないのなら無理強いしても仕方ありません。それなら、武道はどうであろう、と思ったので「剣道」を勧めてみました。心技体を研ぎ澄まし、礼に始まって礼に終わる「静」なる内の「動」を操る日本男子らしい武術は、少し神経質で几帳面なシャイボーイには似合うのではないかと思いました。「剣道って何」と訊き返してきたので、動画で剣道の全国大会の最終戦を視聴させました。高校生同士の打ち合いをしばらく眺めていた彼だったのですが、少し私が目を離した隙に、リモコンを勝手に操作して、いつの間にやら大好きな戦隊モノのヒーローショーにチェンジされてしまっていました。

 大人の思う「カッコよい」と彼等が思う「カッコよい」の相違なのでしょうね。確かにゴツゴツした防具を付け、竹刀を振りかぶった大柄な男子同士が「キエーっ!」とか「ぅるあああっ!」とか叫びながら打ち合っている様は、5歳児には恐ろしくもあったでしょうか。「その凛とした佇まいが」とか「精神の崇高さが」とか「礼儀を重んじる武道の心得が」とかは、まあ、我が家の息子には荷が重い事ではありましょう。

 子供の適正を見極めるのが親の大切な役割とは言うものの「俺、これやってみたい」と言い出してからでもいいかな、などと呑気に構えておる親なので、世間様の目指す教育熱心とはますます程遠い家庭環境とは言えましょう。私の母は「鉄は熱い内に打て、だからね」と娘のやり様にかなり不満な様子。月謝くらいの援助ならおばあちゃんがしてやるから、と鼻息荒く申し出てくれるのは有り難いのですが、さてはて、どうしたものやら。

 ともあれ、人様に預かっていただいて、家庭とは別の環境で心身を鍛える世界はいずれ味わってもらいたいものと思っております。辛抱強くもなってもらいたいですし、自分を研ぎ澄まして願望を叶える術も身に付けていってもらいたいです。近親が諭しても響かない事が、全くの他人から伝えられた途端に身に染みる、と言う事も多いです。

 特に我が家は男子2人です。この先の予定は分かりませんが、兄弟2人で生きていくのだとしたら、母心として「男子たるもの、ずっと、うんと、カッコよく」あって欲しいと思います。男子だからとか女子だからと言い立てると、頭のイイ方達に「ジェンダーが~」「男女差別の云々~」と非難されそうですが、母はともかく息子が「カッコよく」ある姿を望んでおります。芯が太くて、有言実行(無言実行でも大いに結構)、背中で語る人、信念を持つ人であって欲しいと心から願います。眉目の美醜は、おまけです。立ち姿の凛とした、振る舞いに品のある男子は、もうそれだけで「カッコよい」。

 弱い人が、無理をして強がらなくても良い環境を作ってあげられる男になってもらいたいのです。弱い人の盾になって、それでも「へっ」と笑っていられる人になってもらいたいのです。やりたいようにやればいいと思います。迷惑をかけない、くさらない、尻尾を巻いて逃げない、そんな風なちょっとお茶目なやんちゃ坊主。それを地でいける一人前の男子になれるのなら、それこそ母の望む所であります。

 保育園に行くと、5歳児長男のファンが結構います。下級児童の女の子からは猛烈なアタックもいただいております。同級児童の女子からは「●●君に意地悪されたんだよ」と息子のクレームをいただいております。まずまずのポジションで、彼も己の「男子道」を歩んでいるようです。迷いながらも、泣きべそかきながらも、日々を生きている彼が、いつの日か自分の「カッコよい」を見つけられたら嬉しいです。息子が全てを傾けて守るモノが出来れば母は本当に満足です。「カッコよいぞ、息子」と笑って彼の手を離せる日が来る事を、今から私は楽しみにしております。

「ぱれ部」活動日誌(『あかりの森’s bog』課外活動報告記):赤坂から日比谷へ

 赤坂の迎賓館からニコラス聖堂へ、そうして日比谷のミッドタウンへと足を伸ばした昨日の散歩。前日に飲み会で一日家を空けていた主人の罪滅ぼしに、という暗黙裡の家族サービスDAYでありました。最寄りの駅から中央線快速に乗り、四ツ谷で降りて徒歩でテクテク。今まで何度も車で通り過ぎて来た場所ではありますが、地面に足を付けて改めて散策するのはとても新鮮でありました。

 噂に聞く豪奢な建造物であった迎賓館。都会の真中に建つ別世界と言った趣で、私のイメージは「ごちゃっとしたプラレールジオラマに、洗い立てのマルチーズ(犬)を置いたみたい」でした。雑草一本生えていない天然芝生張りの側道、雨の水ジミさえ拭われた白い柵、外観の荘厳さも去る事ながら、入口のセキュリティーを通過して一歩踏み入れた館内は、まさに「宮殿」。18世紀ヨーロッパ調のシンプルで美麗な室内は、白漆喰と金装飾に統一され、赤絨毯の通路から上を見上げれば高い天井には手の込んだフレスコ画。当時一流と言われた名工達が腕を振るった絵画や七宝焼きが、おやまあ、こんな所に、という具合の無造作さで至る所へ配置されている具合。1t超えのシャンデリアが3基ずつぶら下がるそれぞれの著名な間には、ロープで区切られた向こう側に、晩餐やらレセプションで使用された、もう値段をみるだけでも恐ろしいようなテーブルウェアと、傷一つない磨かれた食卓、絹張りの椅子。部屋の隅、通路の曲がり角ごとに無線機を付けたスーツ姿の警備員が立ち、来客の動向に逐一目を光らせているプレッシャー。そして、その中をいつもの調子で、トテトテ走っていく我が家の「若君」達。空調も抜群であろう屋敷の中にあって、変な汗をかきながら、溜息ばかりを呆けたように吐きつつ観覧は無事終わりました。出口から外へ出た時の安堵感。酸素密度が急に上がったように思えて、ああ、娑婆に還ってきたぜ、としみじみ。

 東京に住んで6年を迎えようとしていながら、まだまだ知らない事だらけの私です。熊本から上京してもうすぐ30年という主人からは、いつまでも「おのぼりさん」じみている事を馬鹿にされているのですが、物慣れないものは仕方がありません。駅のホームに立てば、次から次へ入って来る電車に感激しますし、ちょっとしたスーパーマーケットにもあらゆる食材が溢れていて驚いています。どこに行っても人だらけ、どっちを向いても常に新しい物が登場していて、新陳代謝の激しい事は息詰まるようにさえ感じてしまいます。それが、大都会、それが、東京という街の当たり前であるのだと思うのですが、この私の動揺はいつまでたってもマシにはならないようなのです。

 一方で、生き馬の目を抜く雑踏の中で、時々、行き会う言うなれば「日陰」のような場所にも私は不思議な感動を覚えるのです。電車の高架下の薄暗い連絡通路、ビルに挟まれた公園の鬱蒼とした雑木の原。建物と建物の隙間の奥に見える従業員出入り口。新しいマンションの裏に建つ、木造モルタルの古い家屋。

 それらも確実に東京の日常風景なのですが、何かの折に、そこを通りかかると、背中の上の方がワサワサと騒めくような感覚になるのは不可解です。懐かしむ感覚というのではないのですが、惹き付けられるというか、つい目で追ってしまいます。引き込まれるような、ちょっとだけ指先で触れてみたいような、でも、深入りしてはならないようなおかしな感覚。今、住んでいる郊外の自宅周辺には、あまり出会わない「ぽっかりと抜け落ちた」ような場所が、都会の雑踏の中には至る所に点在しているように思われます。上手に表現出来ないのですが、例えば。愛想良く対応してくれていた店員が、商談の合間に真顔に戻り、鏡越しに私がそれを目撃してしまったみたいな気まずさ。眩しい程に清掃の行き届いたレストランで、偶然聞こえて来た隣客の他人への悪口。

 知らなくても良い事を、不可抗力で知ってしまったような小さな罪悪感というのでしょうか。明るい場所には、当たり前の事ですが、同じように浮かび上がって来る暗がりがあります。濃い光の側には当然の濃い影が存在します。無意識に私はそれらを「怖いもの見たさ」で眺めるモノだと、どこかで認識しているのかも知れません。

 暗いモノが、怖いモノとイコールでないのは知れた事なのですが、どうにも私は心の根源の部分でそれらを厭うているように思います。実家にいた頃は殊更、そんな風には感じなかったのですが、東京に出て来てからそんな気持ちが強くなったというか、浮き彫りになってきたように思うのですね。

 一本のロウソクの向こうにある(だろう)闇に沈んだ何かに、じーっと目を凝らすような感じ。扉の向こうにある(かも知れない)何かを、ひっそりと想像するような感じ。

 東京という街は、常に生まれ変わっている街です。何色でもあるし、どこへでも通じているし、どのようにも様変わりするし、誰にでも成れる底抜けの自由が保障されている街です。ただ、その底抜けの、抜けてしまった底の見えない程、深い深い、真っ暗な穴を覗き込むと、途端に私の心の隅っこがワサワサと騒めくのです。きっと主人に言えば、笑われてしまうような感覚なのでしょうけれど、反射的な感覚であるので、こればかりはどうしようもない事であります。

 寒いから鳥肌が立つ、鼻がムズムズするからくしゃみが出る、子供を見れば笑いかけたくなる、そういった身に染み込んだ反射神経と同等の反応なんですよね。

 見上げるようなビル街に、王宮のような赤坂迎賓館。ひっきりなしに行き交う車列の向こうに皇居のお堀。物凄いスピードで蠢き続ける巨大な生物を、薄青い半透明な腕で引き留めて歩く巨人を、私はこれからも手をこまねいて傍観し続ける事だろうと思うのです。

 

 

幕が開いたら。(読み聞かせについて思う事)

 読み聞かせの時、私はいつも心の内の「誰か」をなぞっています。朗読劇の名手を真似るという作業、幼い日に聞いた朗読者の模倣のようなモノ。

 市原悦子さんと冨田富士夫さんのコンビで送られた『まんが日本昔話』の語り口調は、殊に私の耳に深く深く留められた素晴らしい物でした。「むかーし、むかし、あるところに~」と始まるしっとりとした耳慣れの良いトーン。二人の声がゆっくりと物語を紡ぎ始めると、子供ながらに正座に座った膝へ手をついて、ついつい前のめりに目を見開きたくなってくるように思われました。

 夕方の決まった時間に「ぼうやー、良い子だ、ねんねしな~」とオープニングが流れるテレビの前で、子供の頃の私は毎回放送される地方の昔話に胸を躍らせていたものです。楽しい話、胸が空く話、奇妙な話、少し気味の悪い話。アニメーションも雰囲気があり、決して目まぐるしくない動画で、それこそ本当に絵本を爪繰るような感覚にさせられました。お姫様も、お百姓も、犬も、鬼も、全部の登場人物を、たった二人のベテラン俳優が声を演じ分けておられました。地の文脈、つまりナレーションも含めると、お二人が演じていらっしゃった夥しい数の登場人物(人物だけではありませんが)だけで、一つの国が出来てしまうのではないかという程です。

 決して奇抜という訳ではない、緩やかなテンポの物語は一つの物語でほぼ15分。それが毎度2本仕立てになっています。つまりその30分という、子供にとっては長い時間を、彼等の心を引き付けたまま語り尽くしてしまうこの魅力とはいったいどんなものだったのでしょうか。

 寝かし付けの前に、あるいは遊び相手の最中で読み聞かせをするようになり、改めて、朗読の技術について考える事が出て来ました。2人の子供達には、それぞれ自分のお気に入りの話があります。本に書かれた台詞を丸々そらんじられる程読み込んだ話を、嬉しそうに何度も母に読ませようとしてきます。飽きさせないように読むにはどうしたらいいのだろう、もっと彼等を喜ばせるにはどんな雰囲気作りをしたら効果的だろうか、というような事を無意識に考える折も増えました。

 子供相手に何もそこまで、とは、私は思いません。私自身がそういう面では凝り性なのかも知れませんが、どうせ読まされるのなら、こちらもウキウキしながら楽しんだ方が良いのではないかと思うのです。

 高校生の頃、私は演劇部に所属していました。演じる事に抵抗はないので、実を言いますと本読みは苦ではありません。ただ、自分が良かれと思う表現方法と、相手が聴き入る語り口には若干の隔たりがあります。余りにオーバーに演じても、文章の全部がコテコテしすぎて、クライマックスや重要な台詞が際立ちません。かと言って、余りに淡々と自分自身の素を前面に押し出し過ぎては、聞き手は興醒めします。それは大人でも子供でも聴衆の反応は変わらない気がします。知らず知らずに引き込まれる語り方には、それなりのコツが含まれていると思うのです。

 家事をしながら、時々、聞くようになったのは読書感想文の課題図書に挙げられる「名作」と言われる小説の朗読です。最初は、のんびり本を開いている時間が無かった為、手軽に作品に触れられるという理由でネット動画の朗読をスピーカーで流しておりました。思いの外、有名な俳優さんやアナウンサーさん、声優さんが出演されていまして、次から次へと、心待ちにして聞き続けられました。中でも私が繰り返し聞いていたのは西田敏行さんの『走れメロス』、江守徹さんの『山月記』、上川達也さんの『羅生門』、大塚明夫さんの『杜子春』であります。何が心地良いと言って、行間に現れる絶妙な息遣いや、演じる方の表情までが想像出来るような言葉運びでしょう。家事の手を止めないように、あえてスピーカーから流している朗読であったにも関わらず、ついつい聴き入ってしまって手が止まってしまうのです。

 

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 言葉はリズム。言葉は呼吸。実感させられる事です。小手先でない、腹からの、心底からの発声が、物凄い説得力を持って響いて来るように思われるのです。

 すぐに真似られるレベルでは決してありませんが、そういう「間」や「空気」を意識して、子供達に物語を一節語ってみました。するとどうなるか。

 解るのですね、子供と言えど。いや、感覚の鋭い子供だからこそ解る事なのかも知れませんが、話者を見上げる眼の色が明らかに違いました。冒頭から食い入るように絵本の世界へのめり込んでいるのです。悲しい場面では悲しい顔をし、馬鹿馬鹿しい場面では声を立てて笑い転げる、無邪気な仕草で聞いていても、きっちりと物語の中の傍観者に成り遂げている子供達。まだまだ、名人を真似るだけで精一杯の読み聞かせですが、効果はまずまずのようでありました。

 「場」を作り上げる技術は、そう簡単に手に入れられるものではありません。語り部の全身から滲み出て来る稀有な物でもありましょう。ですが、少なくとも、読み聞かせの最前線で強敵の子供達に向かい合う母は、相手を侮ってはならぬというのがよく解りました。子供は貪欲です。愉快な事、面白い事を、驚愕すべき嗅覚で嗅ぎ分けて来るのです。こちらが手を抜けば、簡単に見破られてしまいます。つまらないものからは、あっと言う間に身を翻して逃げていきます。それはもう、飽きれる程に、はっきりしております。

 「むかーし、むかし、あるところに……」。

 固唾を飲んで見守る子供達が、存分に物語の世界に遊べるよう、母は日夜、研究に余念がありません。お姫様になり、お百姓になり、犬になり、鬼になり、母は夢の世界を彼等の前に広げて見せるのです。青春時代を思い出して、一人の演劇少女に戻りつつ、子供達との真剣勝負です。引き込めたら勝ち、飽きられたら負け。言葉の力、声色の力、表情の力、余すところなく、総動員で挑む、本気でやるからこちらも面白い、面白いから相手も聞きたくなる、何と解り易い心理ゲームでありましょう。

 「読んで、読んで、次、これ、読んで!」

 無限ループのアンコールに苦笑しつつ、名優は今夜も引っ張りだこなのでありました。

発作的創作意欲

 人によってはBGMから絵を起したり、創作物を造作したりする時があるでしょう。

 例えば、『ガブリエルのオーボエ』という曲が、好きなのですが、これを聞きながら、私が即興で文章を書いたとしたら、というので、今日は曲を流しながらイメージするものを書いてみました。普段は静かな場所でしか集中出来ないので、滅多にしない事ですが、こういうのも切り口としては面白いのかも知れないと思いましたので。

 

↓この曲をかけながら。

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 彼女の差し伸べた手の平の上に、今、生まれようとする陽の光が眩しい水面の揺らめきを纏って輝いていた。吹き渡る風は雄々しい竜になり、山の肌を撫で、突き抜ける空の蒼へと羽ばたいていく。

 草原に満ちる春の色彩はうららかな温かさに塗り替えられ、一つ一つがつぶさにも区切られず、燐光を放ち、輪郭をにじませている。あわあわとして尊く、親しみ深く触れ難い。

 野に降り立った人ならぬ者のように、彼女は翼の形に広げた細い腕でゆるやかな半円を描く。立ち尽す私を振り返り、額に、頬に、唇に、祝福を述べる、人ならぬいと高き所に住まう者達の表情を形どって、彼女は微笑んだ。

 自由と言う、その不安で、愛おしいわだかまりある結び目の上に立ち、私達は無言で嵐の後を見つめている。荒廃した街、崩れ落ちた城壁、もう響き渡る事の無い教会の鐘塔。我々を訪れた厄災の激しさに、すでに流す涙は涸れ果ててしまった。

 いや、二度と、この眼に、光が甦る事は無いと思い込んでいた。

 風に煽られたブルネットの髪を恥ずかしそうに厭いながら、彼女は少し首を傾げて言った。

 「どこへ行きましょうか」

 どこへ。

 「ええ、どこへ向かって私達はこれから歩いて行けばいいかしら」

 どこへ。

 薄紅色の唇に美しい弧を描かせて、彼女はただ、私を真っ直ぐに見つめている。

 耳のすぐそばで湿り気を帯びた風が、唸りを立てて通り過ぎる。

 私は、どこかへ行く事を許されるのだろうか。

 小高い丘の頂から彼女は一歩を踏み出す。彼女の足元の草花が一瞬にして瑞々しい香気を放つ。

 「ねえ」

 彼女の影が、大きな翼をはためかせて、見上げる私を優しく抱き締めた。

 「私達は、大丈夫、どこへでも行けるわ」

 もう、二度と、この眼に枯れた涙が甦る事は無いと、私は。

 もう二度と。

 「私達は、自由よ」

 頬を伝う、灼熱の雫に、私はむせび、胸は潰れ、この喉はあらん限りの叫び声を上げていた。張り裂けそうになる胸板に拳を押し付け、私は、嗚咽を漏らし続けた。

 一本の糸が、光の中でプツリと音を立てて切れたのが分かった。

 堰き止めていた哀しみの溶岩が、子供のようにしゃくりあげる私の全身を焼いて吹き出した。許される事の安心感に、解き放たれる事の喜びに、言葉にならぬ言葉を吐き出して、泣き崩れた。

 天を黄金に染め上げる太陽が、煮えた鋼のように東の空で産声を上げた。

 

 ……とか。

 映画音楽や、果てはアニメの挿入曲でもそうですが、音響の効果というのは絶大である気がします。(ブログ等の執筆)作業をしながら私があえて曲をかけたりしないのは、意識が余りにもそちらに引っ張られるからです。理想の作業場所は図書館の閲覧室なのですが、作家でも何でもない私には当然、そのような素晴らしい環境は割り当てられるはずもありません。せいぜい、子供が寝静まった後に、あるいは仕事の昼休憩に、または、予定より早く帰宅して余暇が出来た時にいそいそとパソコンに向かうだけです。それでも、ちょくちょく夜中に、寝かし付けたはずの小僧共がウニャウニャ起き出してくるので、ままならない我が身であります。

 ともあれ、それも含めて、我が執筆活動であるのですから、もう、苦笑するしかありませんよね。

 

 創作欲は無性に高まります、ふいに。「心の生理」みたいなモノなのかもしれません。人それぞれ、今日はこれがしたい気分なんだよ、というのがありますよね。いわゆる、アレです。

 で、前回の「心の生理」の時には、物凄く熱中してこういうのも書きました。

 「どうしたんだい、私、話なら聞くよ?」と自分自身に言ってやりたいような心理状況なんだと思うんですよね、そういう時ってのは。

 

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せーので言うよ、やってみよう!

 歌謡曲にはいくつものジャンルがありますが、ラブソングとかクリスマスソングとかムード重視の物よりも、5歳児長男にはやはり「元気ソング」がお誂え向きです。彼の情報収集場所は保育園で、運動会の競技でBGMに流れていたり、発表会のダンスミュージックであったりして耳馴染みになったのが気に入るようです。

 男性ミュージックグループWANIMAが歌う『やってみよう』が、今の長男のテーマソングです。電話会社auのCMに起用され、知名度が爆発的に高くなったグループですね。元々は「おかーを、こーえー、ゆこーよー~」から始まる『ピクニック』で、私の母世代には実にメジャーな童謡です。私自身も「どこかで聞いた事、あるよね」という世代です。CMソングとしてテレビから流れて来た折には「懐かしいなあ」と目を細めた物でしたが、勿論、平成24年生まれの長男には初耳のメロディーであったでしょうし、歌詞だとてWANIMAの物で定着しております。

 「正しいより 楽しい

  正しいより 面白い

  やりたかったこと やってみよう

  失敗も思い出」

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 長男はまだ何を言っても5歳なので、キャッチ―な旋律と、ノリの良い雰囲気だけでこれを気に入っているわけで、歌詞の解釈は解っていたとしても6割程度の理解であろうと思われます。

 曲の中盤にある「やったことないことも」の後に続く「やってみよう」の掛け声を拳を振り上げて叫びたいだけの、無邪気な動機で毎日のように嬉しそうに歌っている彼です。本当に幸せそうに口ずさみ、5歳ながらも音程は外さず、まあ、歌の意味は度外視したままで、所々、言葉がもつれたら適当にごまかしながら、「やってみよう!」と叫ぶ姿に、ついついこちらまで苦笑を誘われたりしておるこの頃。恥ずかしながら、『やってみよう』を知るまでは、WANIMAというグループ名も知らなかった母です。

 絵本の『はらぺこあおむし』に「歌」が付いている事も知らなかった母です。『エビカニクス』という体操がある事も知らなかった母です。『仮面ライダーエグゼイド』のテーマソングがやたらカッコイイと言うのも知らなかった母です。

 子供と暮らして、今更なのですが、本当に今更なのですが、つくづく思うのです。

 「ありえなかったこと 出会わなかった人 あぶなっかしい 楽しい」(『やってみよう』)

 彼等と暮らしていなかったら、知らなかった事がきっとたくさんあったと思います。出会わなかった人がきっとたくさんいたと思います。時々、後ろ向きになる日も無い事はないけれど、彼等といられたから涙が出る程、笑う事も出来たし、心が震える程、感動した事もあるし、痛い事も苦しい事も、全部が無駄じゃなかったんだと心底感じられた日もありました。

 私一人だったら「もういいや」って投げ出してしまっていた事も「私が投げ出したらあの子達が困るに違いない」という一念だけで歯を食い縛った瞬間もありました。染み渡るような悔しさも味わいました。ひりつくような苦しさも覚えました。それでも「子供がいるせいで」と歯軋りをするのではなく、「子供がいてくれたから」経験して、そして乗り越えられてきた事なのだと実感するのです。

 かつて、私の一部であった小さな小さな命が、自分で考え、自分で選び、自分で歩き、自分で走り出し、私を振り返って大きく手を上げて笑います。生きる事を真正面から楽しんでいる彼等を眺めていると、立ち止まりそうになる時も、皮肉を口にしたくなる日も、小さく纏まろうとする自分自身でさえ、笑い飛ばしてやりたい気持ちになってくるのです。懸命に生きようとする若々しい命達に、引っ張られるようにしてここまで来た事を思い出すのです。

 「やって後悔などすることないさ 理由なんていらない」(『やってみよう』)

 我武者羅、なんて事を言い出せば、青臭くて生意気で、埃っぽくて片腹痛いでしょうか。でもそれは、我武者羅にやった事が無い人が、自分のフィールドでない場所で懸命に汗をかく人を傍観する時の擦り減った感覚なんだと思います。もっと熱くてもいい、もっと泥臭くてもいい、もっと拳を振り上げたっていい、つまずいて膝を擦りむいたら、ちょっとだけ泣いてもう一度立ち上がって走ったらいい。そう思います。

 肌寒い日も、降りやまない雨の日も、友達と喧嘩して悲しい日も、思うように出来なくて喚き散らしたい日も、彼等はいつだって真剣に生きています。

 それに寄り添ってエールを送ったり、時にタオルを手渡したり、背中を押し上げたり、共に喜ぶためにはきちんと全部を見届けなければいけないんですよね。見届ける為には、こちらもいい加減に生きていては駄目なんですよね。いい大人が何言ってるんでしょうか。いい大人のくせして随分と陳腐な台詞でしょうか。

 そりゃあそうでしょう。たかだか5年です。私が人の親になってたかだか5年。人間の命をこの両手に預かって5年の若僧が、悟ったような顔して冷静な気持ちに成れる訳はないんです。危なっかしくて当たり前です。けれど、それさえもみっともないと思ってしまったら、何かが終わってしまう様な気がします。

 やってみよう。

 君達に出会わなかったら、私は、何も出来ない私でした。

 やってみよう。

 君達に教えられなかったら、私は、身の程を知らないままでした。

 やってみよう。

 君達の、ふつりふつりと燃え広がるような高い体温が、私を励まし私を勇気づけてくれます。投げ出さない理由は「君達がいる」から。もうそれだけで十分です。

 明日が良い日だと確信できる、君達のぬくもりを抱えて眠る心強さが、母には何物にも代えがたく思えるのです。

 

堕落論(耽美主義をひとかじり)

 全部を受け入れてくれる相手からは、きっと人は離れられなくなると思います。どんな容姿であっても、どんな願望を持っていても、どんな性癖であったとしても、そのどれをも無条件で肯定してくれる相手が現れたとしたら、同性であろうと異性であろうと年齢差があろうと、犯罪者であろうと、生者であろうと死者であろうと、盲目的に溺れてしまうと思います。

 しばらく立ち寄る機会もなかった本屋なのですが、仕事帰りに覗いてみる事にしました。ずっと以前に通りすがって、平積みされていた本の群れの中に気になった一冊があり、まだその本が売られていれば購入しようと思ったからでした。最初に見かけてから日が経っていましたので、新着コーナーの平積みから、書棚の方へと移されておりましたが、幸いにも件の本は買えました。それと同時に、冷やかすつもりで店内をうろついて手に入れた別の書籍も買う事にしました。

 手に入れるつもりも無かったその書籍は、女性向けアダルト漫画でいわゆる「BL本」というジャンルの物です。BL、つまり「ボーイズ・ラブ」を主軸にした作品です。表紙の美しさに惹かれて手に取ったのですが、読み進めて行くうちに描かれるかなり特殊な世界観に引き込まれていきました。異常性愛者の主人公が自分の内にある歪みを死にたい程に疎ましく思っています。生き物の死に際のもがく姿に興奮したり、人肉を食べたいと欲したり、身体的な苦痛でさえ倒錯的な快感へと変わってしまう自分自身に絶望していた彼は、人の世界になじめない事に懊悩し、ついには悪魔を呼び出し、命と引き換えに鬱積した願望を叶えようとします。しかし、彼が持つ情念の深さに感銘を受けた悪魔は、逆に彼を自分の手元に置き、自分の後継者として英才教育を始める事に決めてしまいました。戸惑いの中にも必死に現実から振り落とされないようにしがみつく主人公と、彼を翻弄し寵愛する悪魔との微妙な駆け引きが、美麗なタッチで時に淡々と、時にグロテスクに紡がれていきます。

 ゲーム会社勤務の経験もある作者の抜群のデッサン力で描かれる画面。躍動感とおどろおどろしさがミックスされて眼福です。独創的で、そして漫画であるのを失念してしまう程、不意に生々しい。

 華麗な筆致に引き付けられるのは当然の事として、私が最初に唸ったのは、主人公が自分の性癖に苦悩し、悶える姿と、それを丸ごと受け入れてなおかつ主人公の少年の望むままの夢想を忠実に与え尽してしまう悪魔の包容力でした。言わずもがな、漫画ですから、語られるストーリーは虚構です。人肉を食べるだの、動物を虐待して興奮するだの、引きずり出した臓器の中に自分の生殖器を突っ込むだの、明らかに常軌を逸しております。そう、この現代社会では。

 ただ、これを、この異常性愛を、おぞましい性癖として捉えるのではなくて(仮に、あくまでも仮に)他人との相違として捉えた時、周囲にそぐわない自分を抱えて来た主人公のこれまでの孤独や、焦燥や、苦悶が、とても身に詰まされるように私には感じられました。カニバリズムが私達の認識下では別格の違和であるのだとしたら、例えば、もっと身近な、肌の色が違う、身長が違う、学力が違う、家柄が違うなどと言った事柄に置き換えてみるとどうなのでしょうか。ある者にしてみれば他愛ない内容でも、別の者にとれば人生を揺るがす程の重要事項にも成り得るかも知れません。人と違う事が劣等感になり「普通でない」自分が許せなくなります。でも、それはとてもとても悲しい事ですよね。普通とされるものから自分が逸脱していく、恐怖。平均値から零れ落ちたら、もう自分が自分として認識されもしなくなるんです。

 「いいよ、お前の総て(すべて)に応えてやる」

 死と、入り組んだ願望の狭間で、息も絶え絶えの主人公に対して、悪魔はそう言って取引に応じるんです。

 そもそもがBL作品であるので耽美な世界の物語であるのですけれど、歪曲なしに読み下せば、その一言はもう泣きたい程に頼もしい言葉でもあります。傷付いて、行き場を失った心を何の欲得もなく包み込む姿勢。自分が自分のままである事を許されたら、私が「彼」であったらその場に崩れて号泣してしまいます(本編の「彼」は、猛烈にゾクゾクしていただけですが)。

 一生涯を通じて、人はなかなか孤独とは向き合いにくいものです。孤立無援の状況で、上手に微笑みにくいものです。否定されて、拒絶されては恐らく私達は生きていく事など出来はしません。

 そのままで良い、と抱き締められてしまったら、私達はもう容易にこの安心感からは逃れられはしないでしょう。どんな口先だけの優しさよりも、どんな魅力的なセックスよりも、どんな抗いがたい快楽よりも、丸ごと受け入れられる衝撃に比べたらそんなものは些細なそよ風でしかないのかも知れません。

 「プランタン出版『MADK』(硯遼(すずり りょう)作)」

 噛み締めるのに、少し、ジャリジャリとしたものが残ります。けれども、飲み下した後にジワジワと腹の辺りが熱を持つのが解ります。

 悪魔はきっと美しいのです。

 天使や神様の方が、圧倒的に魅惑的であったのなら、誰も悪魔の前には跪いたりしないだろうと思います。心を試したり、信仰心を強要したり、救う為にやたらと条件を付けてもったいぶる人達よりも、もっとなだらかに、おおらかに、魂全部を握り込んでくれる人達の方へ、私達は間違いなく、墜落していくのです。

 用意されている物が、激痛であったとしても。骨肉を砕く、猛毒であったとしても。

 

雨、降りやまぬ羅生門

 《「きっと、そうか」

  老婆の話が完(おわ)ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰(にきび)から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛み付くようにこう云った。

 「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」

 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍骸の上へ蹴倒した。梯子の口まで、僅(わずか)に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。》

 芥川龍之介の『羅生門』、クライマックスの場面です。

 中学生の頃でしたか、国語の教科書に掲載されていました。時が経ち、手元に新潮文庫の文庫本で持っているのですが、今、読んでもここはゾクゾクします。災害続きの京の都で、職を失って路頭に迷った下人。我が身に迫った危機に直面した彼が、道徳と理性を捨てて生きる道を選び取るまでの心の機微が描かれています。当時、学生だった私は、単純に下人の身勝手さを厭いました。若いと言うのはある種の潔癖と瑞々しい正義感で武装された存在であるのでしょう。思春期独特の面倒を抱えた状況であったとしても、それは一過性の気の病であるだけで、逼迫した本当の身の危険とは縁遠い物です。純粋という言葉が生温いのであれば、未熟という言葉にでも置き換えられるでしょうか。

 《ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮(はす)の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色(きんいろ)の蕊(ずい)からは、何とも云えない好(よ)い匂(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。》

 言わずと知れた『蜘蛛の糸』ですね。これも印象深い場面です。淡々と綴られる文章は決して難解な言い回しや語句を使用していません。歯切れの良い短文が、しかし、的確に物事を言い表しています。情景を紡ぎ出す粒ぞろいの言葉が、読者を容易に物語の世界へ導いていきます。実に心地良いです。読み手に無理強いしない、これはとても大切な事のように私は思います。

 言葉には、音楽で言うリズムのようなものが確かに存在しています。拍子と言うのでしょうか、一種の起伏です。突拍子もない言い回しにしろ、ぶつ切りの語尾にしろ、一見、見苦しく見える物であっても、読み進めて行くにつれて知らず知らずに引き込まれていく文章というのが有ります。相手に読む苦痛を強いるものではなくて、むしろ、惹き付けられて読書を止められなくなってしまう、少し、煩わしい気持ち良さを味わうような文章があります。

 余白の場所、句読点の位置、置き去りにされた名詞、選りすぐられた擬音語。もう、こうなってくるとセンスとしか言いようがないのですけれど、私は、作者のセンスに酔ってしまったように、息を詰めて文字の林へ踏み出し、知らぬ間に物語の海で溺れてしまうのです。読後は軽い午睡から覚めたごとくに溌剌として、時に肩を抱くようにしみじみとして余韻を味わう贅沢を噛み締めます。料理が好きな人には料理の、手芸が好きな人には手芸の、運動が好きな人には運動の、それぞれの醍醐味というのがありましょうが、私が感じる読書の醍醐味とはおよそそう言った疼きに似た、痺れに似た溜息交じりのものであるようなのです。肩は凝るし、目はショボショボするし、身体的には疲労はするのですが、心と心臓を繋ぐ太いパイプが柔らかい物で切なく結い縛られている不思議な感覚を味わいます。恍惚感、と呼ぶには、もう少し輝きが足りない気もしますし、いささか野趣があり過ぎる感覚です。

 整然と並んでいる物を意図的に崩す楽しさ、韻を踏んで続く物の安心感、所々に大きな見せ場があって不自然でないくらいの安直な物が場と場を繋いでいる、ありとあらゆることを表し得る「言葉」というのは、本当に自由なものであると私は常々思っております。けれども、あまりに身近にあり過ぎて、真にこれを使いこなすのが実は非常に難しいと言う事も思い知っている最中ではあります。語弊、誤謬(ごびゅう)、言い間違い、言葉足らず。人の考えが、言語で構成されている限り、私達はこの支配をうけない訳にはいかないのです。記憶が欠けていく事、物事を忘れていく事、思考を思いのままに出来ない事は、言葉を失う事と密接に関係しています。乱雑になる言葉が、人を乱雑に仕上げてしまうのも、凛とした発言が、人を鼓舞していくのも、それは「ことのは」の仕業。言葉選びはそのまま人を作り得るのだと思います。畑を耕す行為と言語野を鍛える行為は「実り」の為には欠かせない作業であるみたいです。

 人と人とが言葉で繋がっている限り、心を表せる手段が言葉である限り、それをおざなりにし続ける事が、いかに危険であるかと言う事を、もう少し真面目に考えても良いのではないかと思っています。

 

物書く女

 人間を描くという行為は、最終的には自分の内面を抉る事に移行するので、書き込めば書き込むほど、とても息苦しくなってきます。私は趣味で小説を書いています。幼い頃から絵を描く事も好きで、本を読む事も好きで、気が付けば自作の小説を細々と書き続けておりました。実は出版社の公募に投稿した事もあります。勿論、世の中はとても正常な精神で運営されておりますので、A~Eの判定基準において、文章構成力=C、ストーリーの魅力=C、文章力=Bで、第一選考できっぱりと落選でした。

 応募したジャンルは広義での青春小説でした。対象とした読者は10代後半から20代前半で、私が当時選んだのはそのうちでも恋愛小説に類するものでした。原稿用紙換算で300枚ばかりを2カ月に渡って書き溜めたように記憶しております。執筆を始めたのはちょうど20代の終わり、前職に在籍中でした。帰宅後、就寝までの限られた私生活の中で、やりくりして時間を見つけ出し眠い目をこすりながら、人生で初めて購入したノートパソコンで原稿作成をしました。もう、手元に、当時のデータはないので、かれこれ20年程経ってしまった今では、正確な文章どころかあらすじさえも朧げです。ただ、ただ、よく頑張れたよな、とその時の奮闘ぶりを我が事ながら呆れたように思い出すだけです。体力と気力だけは無駄にあった若き日。同じような事をしろと言われたら、もう現在ではきっと身体どころか精神が蝕まれてしまうのではないだろうか、と思います。

 一つの小説の中に、主要になる人物が登場し、脇を固める周辺の者が生活し、綿密に組まれた人間模様がそこにあり、何がしかの結果に向かって流れが走っている。映像でなく、音でも無く、文字そのものが視覚から入り読者の頭で像を結び、感情へ雪崩入る質量になるように調節された文章。いや、本当に文字を綴ると言う事の難しさは、実際に経験をして思い知る事でありました。大口を叩くだけの経験も分別も持ち合わせてはおりませんが、少なからず身に染みて心に刻まれた事は「人を書けないと、全く何も始まらない」と言う事でありました。人は動物としての「ヒト」の場合でもありますし、人間としての「人」である場合もありますが、とにかく、ジュースを飲む仕草一つでもその人物が行う挙動に説得力が伴わなければ、全てがちぐはぐになってしまうと言う事を思い知りました。男性がジュースを飲む、女性がジュースを飲む、それだけでも仕草に違いが出ます。そのジュースが苦手であるのか、好物であるのかでも表情が違ってきます。しぶしぶ飲んでいるか、喉が渇いた状態で飲んでいるのか、別の事を考えながら飲んでいるのか、その行動そのものが生活習慣の一環であるのか。では、そういう「飲み方」になってしまうのは何故なのか。そうせざるを得ない状況に置かれるには、彼(彼女)はどういう順序をたどったのか、までを想像して、あるいは創造して書く。しかも、彼(彼女)の表面に現れた行動はいわゆる氷山の一角であるわけで、そういった行動として切り取られる以外の事は、下地でしかない。つまりはあえて文章として起しはしないまでも絶対に存在していなくてはならない土台であるという事なんです。そして、そういった「土台作り」は登場人物の数だけ必要になるんですよね。この作り込みが小説全体の出来に深く関わって来ますし、恐らく、どのハウツー本でも重要視されている点でありましょう。

 私にとっては「人作り」は息詰まるような作業です。しかしながら、言い換えるとこれを突き詰めて完成させてしまえば、ストーリー展開なり、文章構成なりは、驚くほど単純で容易な作業に成り得るのです。嘘のようですが、これは本当であると思います。試しに、既成の有名作品の登場人物を使用してオリジナルストーリーを書いてみると良く解ります。自分自身が最初から登場人物を作成するよりも、各段にスムーズに台詞や場面が回り始めるでしょう。躍動する人物の心理を想像するのもきっと楽しいでしょうし、その後の展開を考えるのも、たぶん思ったほど苦にもならないはずです。産み出す苦痛は、文字通り「人」を産む方にこそ、大きくあるのだと思います。

 掘り下げていけばいくほど、目は自分自身の内部に向かっていきます。特に私の場合は、なのですが、想像する事しか出来ない他人の事は、まず、人と自分の違いを探る事から枝葉を広げていかなければとっかかりが掴めない場合があります。自分ならこうするが、ではこの人ならどう動くのか、どう考えるのか、と言った様な切り口です。そもそも自分自身はどうで、そこから見た時の相手はどうであるのかと始まります。判断基準、物差しは自分という人間に刻まれたメモリの幅が元になっています。ですから、そこから解き明かされる一つ一つが、とても重要になってきます。自分の内面を抉る事、というのは、つまりはそのような事を指します。

 著名な文豪のように自殺はしませんが、自殺しなくてはならない状況に追い込まれてしまう芸術家、知識人は、極限状態まで達してしまったプロファイリングが高じて墜落するのかも知れない、などと、ついついうそぶいてみたくもなります。

 「雨上がりの空は、美しかった」と一文を綴ったとして、美しく感じた自分が、そう感じずにはいられなかったのは何故か、雨上がりが意味するものは何か、暗喩の辿り着く先はどこか。

 人を見るのが嫌になるという、言うなれば人間嫌いは、感覚鋭い文豪達の宿痾(しゅくあ)なのでしょうけれど、それは罹患するべくしてなったのではなくて、我々一般人が不本意にかかる花粉症のようなものなのだろうと思います。不幸にも、というか、幸運にも、というか、私はまだまだ人へ対しての興味は尽きません。人を厭うて、人から離れるという仙人の境地には辿り着けておりません。文豪に憧れて、執筆家の末席にもよじ登れない一人の子持ち女なのですけれど、望むと望まざるとに関わらず、それでもやはり下手の横好き、文章を書く事は好きなままです。

 書き記し、書き伝える、地味で奥深いこの作業に、言い尽くせない魅力と潤いを頂いております。好きでい続けられて、嬉しいとさえ思います。

 例え、誰かの背中を押す事が出来なかったとしても、例え、誰かの憧れに成れなかったとしても、例え、時代に名を残せなかったとしても、細々と自分の言葉を書き残す事が出来ている今が堪らなく、嬉しいのです。「好き」であるという作業は、尊い事でありますね。見返りがなくても、ただ幸福であるというのは、何なのでありましょうか。

 苦にならない作業に没頭出来るのは、実に有り難いです。下手の横好きで心底、良かったです。下手だから続けられる、下手だから、凄い人々を知る事が出来てもっと嬉しくなる、もう、こればかりは狂おしい悪循環です。狂喜です。「狂った喜び」です。

 ワクワク、を発見する子供のままで、私は大人になってしまったんですね。