あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

ミニマム VS シンプル

 一昔前。冠婚葬祭をどのご家庭も自宅で行っていた頃、来客の為の食器やもてなしの茶器などは何でも一揃え、図柄も造りも同様のものを誂えておく必要がありました。ですから、水屋にしろ納戸にしろそういったよそ行きの器が大切に保管される場所が求められたわけです。

 昨今では古いしきたりに縛られず、核家族を中心としたある意味自由なライフスタイルを選ぶご家庭が増えています。冠婚葬祭は勿論のこと、日々の小さな行事に至るまでを近場のレストランで済ませたり、略式にしたりするケースが多くなりました。

 実家の母はちょうどこの境目に当たる世代で、若かりし頃に自宅に大勢を招いた経験もあり、そうして現在育て上げた娘、息子とは遠く離れて気楽な一人暮らしをおくっているといった具合です。その中で、彼女が時々愚痴をこぼすものの一つに「使う当ての無くなった食器の存在」があります。かつては来賓の為に揃えられていた食器ですが一人暮らしで日頃の食卓に上らせるには少々豪華過ぎるものもあります。ごくごく平凡な一般庶民、豆腐とわかめの味噌汁を、金蒔絵の施された輪島塗の椀に注ぐのもおかしいですし、里芋と油揚げの煮っ転がしを、マイセンの平皿に盛るのも滑稽です。となると、日常遣いの勝手が良い無地の安物皿が重宝します。それでも戦中生まれの母の事です、物の無い時代に生まれた年代は、私達がファッションのように口にする「断捨離」なんぞというのを好みません。年齢的にこれから不必要なものを衝動的に買い足すことはないにしても、すでに手元にあるもの、なおかつまだ使える物をただ「使わなくなったから」という理由だけで手放すのはある種の罪悪感が生まれてしまうもののようです。

 「いい加減、今あるものを減らしたいのだけれど」と、会えば反射的に呟く彼女ですけれど、ではこうしよう、と娘が提案した途端「でもまだ新品よ」「せっかくいただいた物だから」「どうして貴女はすぐに捨てようとするの、もったいない」と真っ向勝負の構えを見せます。

 確かに私達が「物を少なくして過ごす」事に魅力を感じるのとは別次元で、母らの世代は生きているのでしょう。ゴミ屋敷の例ではないですが、持ち主が「価値」を認めれば、それこそが大切な物であるのです。

 ミニマムという言葉があります。でも、私はきっとそういうのでなくて、シンプルなものを自分は望んでいるんだろうなあと最近思います。価値ある物を、有意義に。

 

 

(1000文字雑記)

私達を囲む物

 どれほどの「物」に囲まれていれば、私達は安心感を得るのでしょう。引っ越しをして、箱詰めしなければならない私物の多さに私は改めて驚いてしまいました。引っ越し業者の方に見積もりをしてもらった際、事前に箱詰めする荷物に応じて箱を手配してくれます。この時、実はその数は私の想像よりも遙かに多く、物を持たない主義を自称していた私としては「ちょっと見くびってくれるなよ」という気持ちにもさせられました。

 ところが、いざ荷造りが始まり、あれもこれもと箱詰めしていく内、業者の方が用意して下さった箱が瞬く間に無くなっていくのです。最後の物品を荷造りする頃には、これを詰めれば、あれが入らず、あれを詰めれば、これが溢れる、というようなパズルの絵合わせみたいな状態になってしまいました。結局、私が今回の引っ越しに使用した箱数は大小合わせて30でした。しかも、当たり前でありますが、大型家具、白物家電などを省いてのボリュームです。

 家移りを計画してから、捨てる物もありました。季節外れの衣服、もう使わなくなった子供の玩具、読み飽きた雑誌、リサイクルにでも回そうと思っていた電子レンジまで。

 本当に思い上がりであったのですね。自分では「削られるところは、全て思い残さず削った」ような「気になっていた」だけだったのです。

 私の場合、大きな家、つまり「入れ物」から更に小さな「入れ物」への移動であったため、その事態が特に際立ったのだと思います。

 物を持つという行為は、そもそもがその人の「心配」が原因になっているケースがあるのかも知れません。今、この服を捨ててしまったら後悔しないだろうか。大切な人からいただいたこのお皿はずーっと使ってはいなかったけれど、いつか使う日が来るかも知れない。子供が保育園で作った(何を表現しているか判別不能な)作品だから(この先、飾って鑑賞することもないだろうけれど)とりあえず、取っておこう。そういったあらゆる「もしも」を私達は根拠さえないにも関わらずとても揺るがしがたい信念でもあるかのように「物を持つ」事で補完しようとしているのですね。

 では、そのように後ろ髪を引かれながら、泣く泣く手放した物を、今もって残念に思い出しながら日々を過ごしているかと言いますと……。

 人の気持ちは不思議です。一度、捨てると思い定めた物への執着は、存外、薄情なほど心に浮かんで来ないものなのです。身ぎれいに潔く暮らす秘密。

 

 

(1000文字雑記)

朝のおつとめ

 研いだように清々しい朝の気配があります。

 遅い日の出を待ちかねて、目覚めたままに重い鎧戸を開けます。周囲はまだ浅い眠りの中。穏やかで厳粛な、洗い上がったばかりの風が小さな我が家の部屋という部屋に行き渡ります。

 新居に引っ越して半月。私の日課は30分から1時間程度の朝の掃除から始まります。我ながら「禅寺の修行のようだ」と密かに笑いつつ、一晩でしっとりと湿り気を帯びてしまった部屋という部屋を開放していくのです。幼い子供が2人もいては日頃まとまった掃除など出来ません。まして、日中働きに出ている身では、わずかばかりの帰宅後の時間もほとんどが子供の世話に追われてしまいます。

 金は貯まらぬのに、ホコリは溜まる。実家の母と、時々笑い合っていたのを思い出します。特に水回りは汚れがちです。手洗い場はもとより、炊事場、風呂、トイレ。汚れを落とす場所だからこそ、飛び散った汚れは蓄積される気がします。「掃除」がそもそも好きなのではありません。「汚れるに任せている」のが私は好きではないのです。恐らく潔癖という枠にも当てはまらないでしょう。ダラダラと自堕落に贅沢な時間を過ごすのも大好きですから。

 明けやらぬ、薄明の頃。音を立てぬように拭き掃除を始めます。ただ、黙々と、無心になって。家事というのは手慣れてしまえば、機械的な作業の繰り返しです。面白いもので、体が覚えているもの、手が覚えているものをこなす時、心は妙に静かです。一通りの、一連の運動の中に、自分を遮るものはありません。まだ眠っている子供の寝具の周り、畳の目に沿って布巾を滑らせます。それから洋間の床、それが終わればキッチン、そして脱衣所を含む浴室周り、トイレ。最後に玄関まで拭き終わって、玄関扉を開けます。今日履いていく靴だけが並んだ玄関から、私の靴、子供の靴、と表に運び出し、小ぶりの箒で玄関先を掃き清めます。箒を元の場所に収める頃に、東の端でくすぶっていた太陽が、やっと気だるげに顔を出します。砂埃が舞わぬよう、打ち水をし、ついでに趣味で育てているシダやモミジの苗に水をやります。

 早起きの次男が物音でごそごそと寝床を這い出してくるのはこの頃。寝付きの良い長男は、心地よくぬくもった寝床の中。

 玄関扉を閉め、眠い目をこすっている次男を抱き上げ台所に向かうと私達の朝が動き出します。

 鉄瓶で湯を沸かし、洗濯機を回し、ことりことりと「我が家」が動き出します。

 

 

(1000文字雑記)

シーソー

 立ち止まらない、と決意した時の女性は凛然として強いのだと言います。常に複数の作業と思考を行える女性としての特性がそうさせるのか、あるいは、逆に一つを切り離さないと次に邁進出来ない不器用さがそうさせるのかは解りません。客観的に見て、これを「強さ」と名付ける事があるのだとすれば、次々と深い谷を飛び越えて行く燕のように颯爽とした潔さが人には感動的に映るからだと思われます。

 しかしながら、渦中にいる女性本人は必ずしも軽快に旅を続けているとは限りません。思わぬ場所で泥濘に足を取られもしますし、立ちはだかる課題に怖気づく事もあります。何食わぬ顔で物事に対峙しているかに見えて、実のところ、背筋を這い登って来る震えと熾烈な格闘を繰り返している時もあるのです。

 涙を見せる、声を上げる、訴える、溜息を吐く。あからさまになる様々な彼女達の事象はそれこそ「表面的現象」に過ぎず、そこに及び至るまでは、神経も肉体も劇的な変動を通過してきているに違いありません。コロコロと変わる女心を、猫の眼や秋の空模様に例える時、ちょっとした皮肉っぽい感情が我々の間を行き来する事でしょう。けれども、そうした野次馬的議題から漂う嘲笑や憐憫の気配で捉えきれない重々しさが、きっと彼女達の根底にはあると思います。

 東洋には、陰陽思想というのがあります。男性を「陽」と仮定した時、対極に位置する、あるいはそれに寄り添うように佇立しているのが「陰」である女性だそうです。陽の輝きは、絶対的なものではなく、陰あってこその相対的なもの、とすれば、男性優位という主義は、遠望してみるとひどく儚げな思想であるのかも知れませんね。勿論、男性から発せられる膨大なエネルギー無しに世界を回転させる事は出来ません。ですが、このエネルギーを拡大する為に不可欠であるのが、陰の要素というのは面白い話ではあります。時々、光と影の関係性を哲学的に論じているメディアに幾つも出会いますが、論調こそ違え、光あっての影、影あっての光、と終着点が同じであるのは本当に興味深い事であります。

 宗教的な思想を舌先で転がしている訳ではありません。とは、言うものの、人の生き様、世界の成り立ちは、一方向にドンドン拡大していくものではなくて、何か私達の計り知れない「ひとまとまり」へ集約されていくルールでもあるのじゃないかと、思うのです。子供が育つ、私が老いる。巡る等価交換。

 

(1000文字雑記)

路線図とポンコツ軌道

 詰め込み過ぎると身動きが鈍くなるのは、データ処理でも人の仕草でも同じなのかも知れません。ですから意を決して、自分にそぐわない溢れ出た物を選別し、削ぎ落とす作業を任意の折に繰り返す必要があるのでしょう。

 重苦しいのは人同士の関係である事もあります。気持ちのやり取りである事もあります。取り決めの順守に、ふと嫌気が差す瞬間があるのでしょうね。

 古い物、要らないと見限った物、留め置く事に躊躇する物、繕い切れないと失望した物。積み重なった、私にとっての不用品を、一つ一つと手放していく度に、風通し良くなっていく胸の奥に、それでも身勝手な涙が湧いてくるのは人の不思議と言わざるを得ません。思い出を撫で回してはいけないと我が身に言い聞かせながらも、両手でそっと押しいただきながら別れを告げていく作業。

 東京という地で2番目に選んだ住処を、私は今月、離れます。削ぎ落として行くのは目に映るものばかりでなく、私を捉えて離さなかった雑多な物事。イガイガとした厄介な物もあります。フワフワとした愛おしい物もあります。バランス良く身を削るのは、よほどコツが要る難易度の高い作業です。どれが本当に大切にしなければいけないものであったのか、何がいったい依怙地に守り続けてきたくだらないものであったのか、少ない時間で見極める為には、実のところ、逡巡などしている暇はないのでしょう。

 道に迷ってしまったら、当てずっぽうに突き進むのではなくて、引き返そうと思う勇気と、もう一度チャレンジしようとする意欲とがとても大事であると思います。その為には、膨れ上がってしまった装備の全部を、必需品と緊急性の低いモノに分けるのが先決なんですよね。エンジンは一つです。そのエンジンが丈夫で忍耐強い物であれば、そこに付属する荷車は、ぬかるんだ道から脱出する事が出来るはずです。黒い煙を上げているポンコツエンジンは私。様々な不安や期待を満載にしている荷車は2人の息子達。

悠長にメンテナンスをしている暇など実際はありはしないのですけれど、光の当たる場所まで何としても子供を届け終える為に、今、旧式エンジンのピストンを止める訳にはいきません。少し、前のめりになり過ぎているのは自分でも解っています。必要以上の負荷がかかっている事も織り込み済みです。だけれども、ここが終点ではない限り、道が続いている限り、母はモクモク走り続け、車輪は回り続けます。

 

(1000文字雑記)