大福の矜恃
音響の世界では、そこにある静寂を表す為に、例えば壁に架けられてある時計の秒針が動く音を入れたりするそうです。静けさの際立つ時に、日常でも何故かキーンと耳鳴りに似た音が聞こえる気がする時があります。ひっそりとした林の中を歩いている際にも実際は頭上に響く葉擦れのざわめきがあったり、何も無い広大な野原を行く時に頬を通り過ぎる風が唸りを発していたり。あらゆる音が満ちているのに、静かだ、と感じる不思議。
食べ物だとてそんな例は多々あります。西瓜にふりかける塩、メロンに巻かれる生ハム、イチゴを包んだ大福餅。逆であるがゆえに際立つという現象。
物語を面白くするのは逆説だ、というのも時々論じられる事ですよね。登場人物の人間性に深みを与えるのも裏と表、つまりは相反する性質が共存していたり、明るい性格であるのに、暗い過去を背負っていたり。作り込めば作り込む程、プロフィールには複雑な光と影が入り込んでくる気さえします。
一方向から見る楽しみというのは単純で明快で、真っ直ぐ心に突き抜けるようでとても清々しい。それとは逆に、多方面から眺める醍醐味は、複雑には入り組んでいるものを解きほぐす面倒がありながら、そこに織り成されていく立体的な虹の結晶を手に取るような面白味です。決して、いたずらに難解にする必要はないのだけれど、どれだけの引き出しがあるかによって可能になる動きに差が出て来たり、対人関係で言うなら人の興味を引く強さが変わって来るようにも思えます。
で、話を戻すと。
ポジとネガ。
積極性と消極性とでも言い表せるんでしょうか。でっぱりの部分と、引っ込んだ部分との陰影ですよね。突出した部分しかない、陥没した部分しかない、そういうのはいささか不自然ではあります。もっと過激に表現すれば「気味が悪い」とでも言い表せるでしょうか。ポジ寄りのもの、かなり、ポジ寄りの、限りなくポジのものでも、一ミリほどのネガが存在するから、笑い話で済んでいる事ってあると思うんです。ネガだとて同じです。余りに真っ黒だと、それ自体が本当に黒であるかどうかさえ分からないものです。黒、しか、ないんですからね。比べるモノが無い。黒、が全く、際立たない。そのような事って、あり得るんですよね、仮定としては。
で、また話を戻します。
ポジとネガ。
「珠に傷」(たまにきず)という慣用句がありますよね。美しい物に僅かながらの非があって残念である、そういうニュアンスの語句です。見方を変えれば、ちょっとした難癖があるからこそ、それ以外の美しさが実に惜しくも思われる、とも言い得るかも知れません。随分ひねくれた視野ですが、意地悪な見方をすればそう言い切れなくも無い。要は、どっちにクローズアップするかなんですよね。
全然欠陥がないとするとそれこそ有機物でないような気さえします。SFの世界で言うなら特注のアンドロイドか何かみたいです。血が通うモノの特性として「珠に傷」がもしかしたらあるのかも知れません。
無尽蔵に優しい人なんて実際はいません。限りなく優しいように見える人にでも、ある折には厳しい表情をする一瞬が必ずあります。それと同じく生まれた時から常に怒り狂っている人も存在しません。怒りっぽい人だって、面白ければ笑うし、悲しければ涙もこぼすでしょう。血が通うモノである限り、人は感情に振り回されますから。
で、ぐいぐい話を戻します。
イチゴ大福です。
ん、変な所に戻りましたね?
光と影、その辺りでいいでしょうか。
話を戻します。
「光と影」です。
光と影。
どっちにスポットライトを当ててもいいのですが、片面だけを見て、これは黒、これは白、そう決めつけて分かった気になっている時が私はちょっと危ないなあと思います。善悪の問題を論じる上でも、実は独善過ぎて危険です。モノは考えようだよ、というのは見ようによっては決断する事から逃げているかに見えます。けれども、上手に扱えばその機動性は考えの可動域を広げてくれる事にもつながるんです。
私が人を見る立場でもそうですし、人から見られる立場に変わったとしてもそういう視野は大切にしていて損はしません。もしかすると、白と黒の間にある見極めきれない程の微妙なトーンのグレーだって考え方一つで見逃してしまっているかも知れません。見解に幅が出るというのは理屈以上にスピリチュアルな要素も含まれているのでしょう。何しろ、人のやることですから。人がやる以上、不正確ですし、不公平ですし、不鮮明ですし、不均一です。ただ、私自身もそんな人達の世界で住んでいる訳ですからこの「歪み」をあらかじめ了承して置かないと万事が気詰まりになってしまいます。
最初から多面性を楽しまなきゃ、と意気込む必要は全くないです。苦手な物は苦手だし、逃げたい感情を押し殺してまで付き合うのは苦痛ですから。対人、対物、どちらにせよ。
だからと言って、それが、甘いか、苦いかくらいは、よく吟味してきちんと自分の感情と言葉で表していきたいと思ってるんですよね。どうせなら、面白い世界の、それもど真ん中で暮らしていたいじゃありませんか。
ポジとネガ。
味見もしないでマズイと決めつけるには、ここはそんなに解り易い世界では無い気がするんですよね。居心地の良い場所は自分で作った方が早い。私、元々が面倒臭がりなもんだから、誰かに何かを分け与えてもらうまで、ぼーっと当てもなく待っているという作業が出来なかったんですよね。面倒臭がりだから、人任せでは結局、疲れてしまうんです。
努力なんていりません。
それなーに?って、子供みたいにワクワクしながら相手を見つめてみたらいいんです、そう、出来る限り誠実に。
無理に大人ぶる必要なんてないんです。
面白くないですか、イチゴ大福。酸っぱい苺が、たまらなく美味しく感じる瞬間が、ちゃんとあるんです。その苺は酸っぱくなくっちゃ駄目なんだ、と気付けたら、世界はワクワクで溢れるんですよね。
(今日は何を書こうか、あまり考えずにPCを立ち上げておりました。思い付くままにキーボードを打っているとまとまりなく2000字打っておりました。私の雑記帳らしく成長してきた『あかりの森’sblog』。300記事を超えたあたりから実験的な文章も増えてきたようです。何も書けないなあと思いながら、書くのも迷子のようだけれど少し楽しい。ある意味、無心で何かに没頭しているのと同じですからね。
テーマを決めて書き始める気楽さはないけれども、これはこれで私っぽくて気が抜けてていいのかも知れませんよね。)