あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

私達はスピリチュアル

 デスクの脇に飾ろうと、拳サイズの観葉植物を買いました。雑貨屋で購入したので本体と器で400円の買い物です。機能的で清潔だけれども白を基調としたやや殺風景な職場。最低限の物だけを置いた私のデスクは、それこそどこに出しても恥ずかしくないほどの「仕事机」。もう少し彩りをと思ったのですが、マスコットや写真立てでにぎやかにするよりも、いくらかスマートに収まると考えてのチョイスで観葉植物です。 

 鉢植えにしても良かったのですが、ジメジメしてしまうでしょうから、苔玉にしてみました。苔玉に植え付けられたラカンマキ。ラカンマキはイヌマキに似ており、成長スピードの遅い常緑樹だそうです。明るい日陰で、元気に育つらしいので鑑賞用にはうってつけ。風水占いの面から見ても、機械周りに緑を置くのは良い事で、電化製品の陽気を、木が緩和してくれるのだとか。台所に置く場合でも、コンロとシンクの間が良いそうですよ。リビングならテレビの横に少し大きめの植物を据えて「気」を和らげるのがベター。面白いですよね、風水。例えば寝室にはぬいぐるみ(死をイメージするもの)を置かない方が良い、とか、財布は真夏の昼間に購入しない方が良い、とか。ほんとかよ、と苦笑したくなる事もあるでしょうけれど、占いは元々が統計学、経験値に基づく理論なので、あながち胡散臭いものばかりとも言えません。しかも「~すべき」というよりも「~した方がいいよ」という、先祖からのアドバイスとして活用すると、これが案外、しっくりくる場合もあるんですよね。おばあちゃんの知恵袋、そんなものなんでしょうか。

 オーラが見えます、なんて表現するのは一種の象徴でしょうし、霊感がある、というのも世間一般の人よりも集中力が優れているのだと解釈しております。「お前、何言ってるんだよ、生意気だぞ、あっこ!」とお叱り、ごもっとも。私自身が幽霊も見えなければ、瞬間移動も出来ない俗物なので、これはあくまでも想像を元にした、とんでもなく失礼な仮定の話です。

 そういう私も世に言う「トランス状態」というのを、経験した事があるんです。いや、別にイケナイ薬でほどよく「ラリって」た訳ではありません、合法的にきちんと非日常を味わった過去があります。

 それは、次男を出産した2,3日後の真夜中です。産婦人科で入院中の私は、新生児を相手に夜昼が逆転した生活を送っておりました。生まれたての息子は当然の事ながら3時間ピッチでヒンヒン泣いておりましたので、それに付き合うこっちもかなり追い詰められた精神状態。顔は半笑いで、髪はボサボサで、辛うじて生きているだけの存在に成り果てておりました。軽い夢遊病状態とでも言うんですかね。レム睡眠のまま、新生児のお世話をしている感じとでも言いましょうか。そう言う時って、人間、不思議な物で、暗闇の中でも夜行性の動物のように物が見えるんですよ。身体中がセンサーになったみたいに、どう表現していいのか解らないんですけれど、体毛がブワっと太るような感覚って言うんですかね。脳みそだけがちんたらしていながら、感覚器官の全部は、超ハイスピードで回転しているんです。どのお母さんもそうだとは言いません。私が体感したのは、およそそんな世界でした。そうなると自分の中にもう一人の自分がいて、自分というサナギの外骨格を、真ん中で操作している生身の自分がいるみたいなんですよね。そんな不気味な私が、フラフラになりながら、泣き始めた息子のお世話の為にベッドから立ち上がった時です。消灯している病室、サンシェードを下した窓際の下を、音も無くサーっと駆け抜けた真っ黒い物体があったんです。大きさはハムスターほど。瞬きを一つする間に、別の暗闇へと消えていったそれを、私は確かにそしてつぶさに見つめておりました。そうして、その形状、その「体温」まで感じられたように思ったんです。まさしく、ホラー。

 「あ、ねずみだ」

 確信しておりました。今、考えても、どうしてそう思えたのかは分かりません。産後鬱だったのか、極度の寝不足で幻覚を観たのか。

 翌朝、その私の目撃事件は、しかし、現実味を帯びました。

 部屋のあちこちに、ゴマ粒ほどの黒い「糞」が落ちていたのです。助産師さんに報告をすると、彼女は目を丸くして私の顔を凝視しました。私本人でも思います「こいつ、頭おかしいんじゃあねえか」って。朝一から、魂の抜けたような顔をした産後疲れの女が「病室にねずみが出た」とヨタっている。どう考えたって、尋常でないですよね。

 で、結局のところの話。

 私は「超人」になってしまいました。そう、ねずみは確かに病室に侵入していたのです。私が入院していた大部屋の隣室を掃除して下さっていた清掃係の女性が発見者でした。そこに設置されてあったベッドを移動させると陰から、ヤツが飛び出して来たそうです。とっさのことに、手にしていた掃除機でその黒い物体を吸い込んだらしいのですが、ギュっと鳴いてノズルに吸い込まれていったとか。

 何たる哀れなミッキーマウス。彼の短いネズミライフはここに幕を閉じました。

 私が眼にしたのは、ホラーでも何でもなく、現実だったという話。

 人は「削られて削り切られ」て、それ以上、もう、削りようがないほどピンピンに鋭く尖り切った時、生まれながらに身に備わった「野生」が常識や理性を突き破って頭をもたげてくる、という事。精神の「断捨離」。そう言う事なのかも知れません。なんて、ね。

 スピリチュアルとか、霊能力とか、不思議を論じる時に、つい見過ごしてしまいがちになる部分ですが、本質は誰にでも身体に備わった「野生」の成せるところ、という事でしょう。ヨガでも、太極拳でも、芸術でも音楽でも、一度は意識する所でしょうね。「自分を解き放つ」「意識でない所で、何かを感じる」。それは、あえて取り入れたり、盛り込んだり、吸収したりで得られるものではなくて、削ぎ落として、選抜して、吐き出し尽くして、見えて来るものなんじゃないかなあ。

 明日、デスクに、苔玉を飾ります。

 小さな緑が、もたらしてくれる「吉兆」に、私は私を委ねるだけです。