あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

幸福な「おかえり」の為に。

 「お別れは、きちんとしてください。」

 保育園の先生に言われた言葉は、ちくりと私の胸を刺しました。

 次男1歳を送り届ける私は、登園した直後の教室でいかに彼が里心がつかないか、いかにスムーズに職場へ迎えるかだけを今まで考えておりました。

 遅刻ぎりぎりの時間に保育園の門をくぐり、子供の一日過ごすべき教室で「朝のお支度」(エプロンを専用カゴに入れ、汚れ物入れやおむつ袋をセットし、着替えを用意し、連絡帳を提出する等々)を大急ぎで済ませて、さて「本体」の息子を抱えて集団保育室へと預けに上がるという毎日。送迎をする親御さんは誰しもが分刻み、秒刻みの日課であろうかと思います。家を出る直前に「うんちした」だの、子供を乗せるべき自転車の前で肝心の子供が大泣きで駄々をこねるだの、自分自身が家に置き忘れた書類に気付くだの、もうそれこそちょっとしたイレギュラーが発生しただけで、危機的状況に陥るような慌ただしい朝。

 常に臨戦状態のそんな状況にあって、子供を保育士へ受け渡す折こそが、最も緊張を強いられる瞬間の一つであると私は思っておりました。まさに泣き付かれたら最後、一刻を争う出勤時間が致命的にまで追い詰められてしまいます。ですから、いかに我が子の気を送迎者である私から逸らせ、受け入れて下さる先生へと向かわせるかに神経をとがらせる日々。抱きついたままだった息子の、私の袖を握る手の力がふと緩んだ一瞬、私は息を潜めて空気のように後ずさります。視線だけを先生へと送り、明瞭な口パクと隠密のような視線で「しからば、拙者、これにて」と、鮮やかにフェードアウト。ひっそり扉を閉め、覗き窓から室内の息子を確認。私の存在を忘れ、遊びの輪に加わっておれば、ミッション成功、しかしながら敵もさるもの、母がいかに百戦錬磨の精鋭と言えど、赤ちゃんのセンサーをかいくぐることは容易ではありません。10回中3回は「あれ、お母さんがいない!」と必死の形相。覗き窓から様子を伺う私と、運悪く視線が合えばもうそこからのギャン泣き確定です。「おのれ、にっくきやつ!」と、あらん限りの力で先生の腕を振り解きにかかり、最近めっきりボリュームを増した丸い体を釣り上げられたカジキマグロのようにブンブン振り回して全身を「戦闘モード」に切り替えます。私は再びガラス越しの口パクで「すみません、よろしくお願いします」と、息子相手に手こずる先生へ詫びを入れ、逃げるように職場へと駆け出すのでありました。

 抱きしめて、頬ずりの一つもし、機嫌を伺いながら「じゃあ、お母さん、行ってくるね、いい子で待っててちょうだいね、うふふ」ってな具合で、花びら舞い散るシーンを演じられたらそりゃあ、それこそ理想的です。実際問題、不器用・非効率を絵に描いてハンコで押したような私にはそれは試練、難行でありまして。大概は逃げるようにして息子を置き去りにし、鬼ババは「しめしめ、してやったり」と通勤の為の自転車を加速するのでありました。

 決して息子とのお別れの儀式が煩わしいとか、まして彼が可愛く思えないとかそういう話ではありません。ただ、瞬間的な現実を天秤に架けた時、どちらがより切実かというそれだけの事なのです。母を求めて泣く子を目にすれば、心は人並みに痛みます。温かい手を握って、おでことおでこをくっつけて一緒に涙を流したい気持ちにもなります。鬼の目にも涙。そう、鬼ババでもやっぱり自分の子はいとおしい。

 さりながら。さはありながら、さりながら、なのです。

 母が働かねば、誰が、君のおむつを買えると言うのだね。

 毎日のご飯が食卓に並ぶのは、どういう訳だというのだね。

 実状は、そういうことなんですよね。

 確かに情をいったん棚上げして職場へ向かう事は決して悪い事ではないのです。暮らす為に働いているのですから一時的に子等と離れるのは仕方のない事なのです。そこを自責する必要もないし、まして責められるべき事でもありません。

 大切なのは「別れ際」だと言うことなんですよね。

 親を待つ身の子等が、夕方、必ず親(保護者)に再会出来るという「喜び」や「希望」を信じられる気持ちを育てる為、この「別れ際」が非常に大事だと、そのような旨の話を先日先生から伺ったのです。私個人へ向けてというのではなく、春の懇談会で、複数の保護者に向けての保育園側からのメッセージとして提示されたものでした。

 見栄えの良い別れである事はないのです。子は無我夢中で親にしがみつきます。親は親で何とか子を引き剥がそうと試みます。葛藤があっていい、気持ちが切り詰まって疲れ果てたっていい。次にきっと、どんなことがあっても親は子供を迎えに上がり、どんなに寂しい気持ちで堪え忍んでいても絶対にその孤独は報われるのだと言うことを子供自身が知る事の方が何も増して重要だと、私はその時、教えられたのでした。

 出会いを信じる為に、別れをおざなりにしない。

 心ゆくまで別れの悲しさを味わう事。そうして出会いや再会を嘘にして誤魔化さない事。

 その為に、サヨナラはどのような形であったとしても、人と人を区切るモノとしてそこに無くてはならないのです。

 我が子を残して出勤していく私は、それに気付かされ、同時によかれと思って繰り返してきた事で随分彼を傷付けて来たのだと知りました。当たり前です、さっきまでそこにいたはずのお母さんが、振り返ったらいなくなっていた、しかも、戻って来るかどうかも分からない状態だなんて、どんなに心細い事であったでしょうか。

 にこやかな別れを望んでいたのは勝手な大人側だけなのです。そう出来ないのなら出来ないままで良かったのです。涙が乾いた頃には、再会の約束を果たす為に、きっと紛うことなくお母さんが帰ってきてくれる、それだけが確かな事であったなら、もう何も憂える事はなかったのですよね。

 母はまた、新しい事を教わりました。

 私の「当たり前」が毎日、面白いようにひっくり返って行きます。

 約束の時の為の、サヨナラ。

 私のポンコツな日常は、こうして目まぐるしくアップデートされるのでした。