あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

「ぱれ部」活動日誌(『あかりの森’s bog』課外活動報告記)

 木漏れ日から抜け出して燦々と陽の照る場所へ、すぐにまた鬱蒼とした木陰へと飛び込んで。自転車に跨った息子の背中は近くになったり遠くになったり、光と影を縫い取りながら緑に染まるパッチワークの森を進む。専用道路を一途にこぎ続け、ひだまりの奥にようやく自転車を止めたら、目の前に横たわる池のほとりでヒョウキンな足漕ぎボートを借りてみよう。よそよそしい水面を騒がしく掻き回して池を進めば、水際の向こうに見える樹々の風景に、チラチラと白い物が見える。風に舞い上げられた木の葉だと思っていたのはどうやら蝶の群のようで、煽られながら雲の色に紛れたり、森の緑へ浮かび上がったり気の向くままを繰り返している。

 アメンボウは静か。小魚の魚影も静か。照り返しが艶々と水の表面に水銀の輝きを放って流れ、これに手を浸せばたちまち引き返せない場所へと連れて行かれそうにも想像される。カイツブリの親子が、芦の密生した澱みの中で今日の身づくろいに余念がない様子だ。親の背にぞくぞくとよじ登ろうとする幼い者達が、波紋の揺れに何の抵抗も及ぼせず、ただプラスチックの浮具の如く波間で上がり下がり。足漕ぎボートは強風に流され重く粘ついた銀色の水の上を成す術もなく、その体たらくに満足しきったように、ふらりふらり流れ、流され。遊びの為の遊びとは、シナリオのない、骨組みのないこのような軟弱なものなのだろうけれども、私達は無駄と無意味とを楽しみ、整然としない事を良しとする。穴だらけの身体に満足して元素であるとか、粒子であるとかの、分解された記号に成り果てて楽天の全てを打ち漏らさずに、私達は許された堕落を心行くまで堪能する。

 太い輪郭を得た日曜日の昼下がりは、気ままに、そして律儀に私達を奔放にさせ、着地地点を放ったらかしにさせたきりだ。どんなふうにも形作られた思い思いの遊戯の庭は、日が照らす限りの自由の中にあって、底なしに愉快にきらびやかな陽光を投げかけ、または、涼やかな木陰を憩いとして与え、際限を見失った私達を思うがままに夢想の領域に置き去りにする。

 楽しさというのは、ある一部分が薄暗い喜びで出来ているので、生真面目な私達を時々不必要に躊躇させるのだけれど、本当は何ものをも恐れなくなってしまうのはそれこそ不遜にて危険な行為であると思われる。ふざけ過ぎた有頂天の最中に、唐突に思い出す薄暗い畏れは、一本の細い糸できちんと私達を現実に繋ぎ止めてくれているとさえ言い得るのかも知れないのだ。

 遠ざかる息子が自転車をこぎながら、同じく自転車を駆って彼を追いかける私を振り返る。夢の世界からふいに現実を思い起こすような動作で、母をかえりみて次に向かうべき道を尋ねる。光の差す方へ、影が広がる方へ、自在にハンドルを切りながら、それでも現実から切り離されないように細心の注意を払いつつ私と彼とは木漏れ日の果てを目指す。

 このささやかな旅がゴールを迎えれば、慈しむべき休日は終わる。

 私達を感動させた景色の一部始終が、思い起こすべきものへと成り替わる。

 ペダルを漕ぐ息子の姿は、もうすっかり少年の傲慢さと頼もしさを宿している。母を気に掛けるそぶりも、自分の楽しみよりはいくばくか優先されないもののようになった。汗ばんで紅潮した頬に、初夏の風は優しい。

 やがて帰る我が家への道。

 ひたすらに、それでも今は夢中に、少しばかりの無防備を誇って漕ぎ出すペダルに力を込めよう。

 私達の昼下がりは、乱暴で愛おしい散文。

 この日は、間違いなく「良き日」と記される。

 懐かしくも自由な「良き日」。

 君等が出来得る限りのほどかれた存在に戻った日。

 穏やかに収集し、広がりを縫い縮め、僅かばかりの落胆と疲労を道ずれにしながら帰路を選ぶまでの、伸びやかな時間を、もう少し、もう少し。

 

 

(文句のつけようが無いような、素晴らしい天候に恵まれた日曜日。昭和記念公園のサイクリングコースで子供達と、また主人と、本当に楽しい一日を過ごしました。非の打ちどころが全く無い、日和。五月晴れとは、これである、と辞書に残せるのなら書き記したいような何もかも。自転車を操る長男も、ブレーキの使い方が上手になり、多少のふらつきがあるものの、もういっぱしの操縦士。確実に成長する子供達のいろいろを眺める嬉しさ。何という良き日。いつまでもいつまでも撫で回していたいような良き日でありました。)