あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

単発の想い・3連 Ⅱ

 浮かんでは消えるソーダの泡みたいに、結局は忘れるに任せてしまう想いが割と多くあると思います。

 少し前に書いた記事も、とりとめもなくそんな私の気持ちを書きなぐったモノ。

 

akarinomori.hatenablog.com

 

 記事をまとめている側から、ポロポロと崩れていって「あれ、何を書こうとしていたんだっけ」と途方に暮れる経験を幾度となくしてきました。たった今、そうたった今、PCを立ち上げて、さて、とキーボードを打ち始めた時にも事件は起きます。別の事に気を取られてアッと言う間に霧散してしまう思考。見失ってしまうくらいなのですから、大して重要でもない事項なのでしょうけれど、妙に心に引っかかる。思い出そうと頑張ってみるけれども、結局はとっかかりも見当たらないので、諦めて別の記事を書き始めるのですが、胸に何かが支えてしまったみたいに重たい気持ちになってしまいます。綿密に構想を練って進める方ではないので自業自得ですが、そんな時に限って自分の雑さが恨めしくなります。

 忘れそうな事を忘れない為に、または、覚えて置く面倒を回避する為に、別の場所へアウトプットしておく。ペタペタとシールを貼るように、賑やかになる私の雑記帳です。

 

 ●人の好意を疑わない事にしました。遠慮しないで甘えるのを恥ずかしがらないようにしようと思いました。自分が出来る範囲の事は高が知れています。私が意地を張り続ける限り自身のキャパシティー以上の事は現実にはなりません。のんびりとした自己の成長を気長に待てるのならそれも良いでしょう。でも、一時的に自分を超越した力や知恵や経験や、ともすれば金銭的な事までを実現しないといけない折が来たとして、それをごく普通の人間である私一人が全て賄うのは骨が折れます。時に、力が及ばず自己嫌悪に陥るような事態にも発展するかも知れません。中でも一番いけないのは、私のみならず子供達や家庭が迷惑を被る事。私の依怙地が家族を巻き込んでしまう事。

 優先しないといけない物事を考えた時、犠牲にして良い物は何なのかを考えるのは結構、大切な事なのだと思います。差し伸べられた手を遠慮しながら払い除けるほど凝り固まってしまうのは、本当は誰の立場に立っても不幸な事なのだと思いました。

 人が人を助けたいと動き出す気持ちに、僅かながらの下心があったとしても、助けようとしている行動そのものは嘘ではありません。歪曲した視点で勘ぐって、無暗に退けてしまうのは現代の社会を知る人の悲しい習性なのだとは思います。けれども、それだけを判断材料にして、自分から人の輪を去って行くにはこの世の中は余りにも優しく出来過ぎていると思うのです。

 勿論、人の悪意を「無きもの」として扱う事は危険です。ですが、自分を産み育てて、それから今までおめおめと生き永らえさせてくれたこの世間には、まだまだ明るい物を探す余地が残されているように、私には思えるのですよね。

 

 ●あくびは、人に移りますよね。近くに居る人が「ふわーっ」と一つ漏らすと、隣の人も「ふわーっ」と伸びをしたくなってしまう、あくび。全くの赤ちゃんの頃にはそんなあくびの連鎖は起こらないそうです。ある程度、社会性が築かれてからあくびのキャッチボールが始まるという説も有り。次から次へと伝達されるあくびの原因はまだはっきりと解明されてはいないそうですが、どうも、集団生活が重要なカギであるらしい事は解っているようです。

 次男の寝姿が、最近、本当に長男の寝姿に酷似してきました。深夜の寝床で、あっちこっちに転がりまくっている2人の子供。豆球の薄明りの下で観る敷布団の上は、主人、長男、次男、それぞれよく似た大小の塊が思い思いの姿で転がるカオス。特に長男と次男は2人共が「土下座」スタイル。うつ伏せで、顔は頬を布団に付けた状態で横向き。立膝をしたまま、お尻は天井へ突き上げられた姿。そう、まさに土下座。

 落ち着く寝姿は、かつて母親の胎内でいた頃の模倣であると産婦人科の先生はおっしゃるのですが、だとすると、長男も次男もこの定番の土下座で私の腹で眠っておったという事になりますね。

 しばらくして手がしびれてくるのか、姿勢を変える長男と、それにやや遅れて同じ姿勢を取ろうとする次男。ガッチリ骨太の長男がゴロリと仰向けになると、むっちり短足の次男も勢いを付けて仰向けになる。布団をはみ出た長男を追いかけて、コロコロと次男も畳の上へ転がり出る。強く結ばれた兄弟が同じ朝を迎えるまで、延々と繰り返される夜の恒例行事です。日に日に伸びて行くその「飛距離」に、彼等の成長と「小さな社会」を垣間見る母なのでした。

 

 ●今日は健康診断でした。マンモグラフィーもして、バリウムも飲んで、伸びない身長と減らない体重にちょっとばかりの落胆をして無事に終わりました。聴力の衰えはもう如実であります。低音、高音共に年々聴こえづらくなっていっております。耳に手を当てながら「あんだって?」と何度も人の言葉を訊き返す日が、そう遠くない未来に待っております。視力は両目共に1.5をキープ、どうりでいつまでも部屋に溜まったホコリがよく見えるわけです。こういうところは少しだけ鈍くなった方が、キリキリせずに心穏やかな毎日を送れるのではないかと思うわけです。

 鈍感であると言う事は、やり方が良い悪いを論外にすれば、一番手っ取り早い「平和への近道」なのかも知れませんね。知らない事は、無かった事には出来ませんが、知らないということで「まあ、いっか」で解決出来るものも増える気がします。消極的な決着の付け方だと言われれば、そうに違いないのです。まあ重箱の隅をつつくような批判やバッシングが横行する息苦しい世界からは、いくらか酸素の濃い場所へと避難出来るのではないか、と。

 大人らしい、ずるい逃げ方です。年経た、狡猾なタヌキが、こそこそと毛づくろいをするくらいには、私も穏やかな日を過ごしたいと思います。角張った世間は、別の視点に立てば、世の人々の公約数なわけでそれがちゃんと機能していないと、滅茶苦茶になってしまう危険もはらんでいます。細かい事も、張り詰めている事も決して否定されるべきではありません。

 ただ、そこに、ちょっとした冬ごもりの巣穴があったり、そこらで集めた宝物を隠すための秘密基地が作られていたり、そうしてそういった「不規則」を大目に見て片目を瞑ってやる度量が誰にもあった方が、本当は誰も彼もが生きやすい世間になるんではないかな、とも、思うんですよ。おばさんは。