あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

物書く女

 人間を描くという行為は、最終的には自分の内面を抉る事に移行するので、書き込めば書き込むほど、とても息苦しくなってきます。私は趣味で小説を書いています。幼い頃から絵を描く事も好きで、本を読む事も好きで、気が付けば自作の小説を細々と書き続けておりました。実は出版社の公募に投稿した事もあります。勿論、世の中はとても正常な精神で運営されておりますので、A~Eの判定基準において、文章構成力=C、ストーリーの魅力=C、文章力=Bで、第一選考できっぱりと落選でした。

 応募したジャンルは広義での青春小説でした。対象とした読者は10代後半から20代前半で、私が当時選んだのはそのうちでも恋愛小説に類するものでした。原稿用紙換算で300枚ばかりを2カ月に渡って書き溜めたように記憶しております。執筆を始めたのはちょうど20代の終わり、前職に在籍中でした。帰宅後、就寝までの限られた私生活の中で、やりくりして時間を見つけ出し眠い目をこすりながら、人生で初めて購入したノートパソコンで原稿作成をしました。もう、手元に、当時のデータはないので、かれこれ20年程経ってしまった今では、正確な文章どころかあらすじさえも朧げです。ただ、ただ、よく頑張れたよな、とその時の奮闘ぶりを我が事ながら呆れたように思い出すだけです。体力と気力だけは無駄にあった若き日。同じような事をしろと言われたら、もう現在ではきっと身体どころか精神が蝕まれてしまうのではないだろうか、と思います。

 一つの小説の中に、主要になる人物が登場し、脇を固める周辺の者が生活し、綿密に組まれた人間模様がそこにあり、何がしかの結果に向かって流れが走っている。映像でなく、音でも無く、文字そのものが視覚から入り読者の頭で像を結び、感情へ雪崩入る質量になるように調節された文章。いや、本当に文字を綴ると言う事の難しさは、実際に経験をして思い知る事でありました。大口を叩くだけの経験も分別も持ち合わせてはおりませんが、少なからず身に染みて心に刻まれた事は「人を書けないと、全く何も始まらない」と言う事でありました。人は動物としての「ヒト」の場合でもありますし、人間としての「人」である場合もありますが、とにかく、ジュースを飲む仕草一つでもその人物が行う挙動に説得力が伴わなければ、全てがちぐはぐになってしまうと言う事を思い知りました。男性がジュースを飲む、女性がジュースを飲む、それだけでも仕草に違いが出ます。そのジュースが苦手であるのか、好物であるのかでも表情が違ってきます。しぶしぶ飲んでいるか、喉が渇いた状態で飲んでいるのか、別の事を考えながら飲んでいるのか、その行動そのものが生活習慣の一環であるのか。では、そういう「飲み方」になってしまうのは何故なのか。そうせざるを得ない状況に置かれるには、彼(彼女)はどういう順序をたどったのか、までを想像して、あるいは創造して書く。しかも、彼(彼女)の表面に現れた行動はいわゆる氷山の一角であるわけで、そういった行動として切り取られる以外の事は、下地でしかない。つまりはあえて文章として起しはしないまでも絶対に存在していなくてはならない土台であるという事なんです。そして、そういった「土台作り」は登場人物の数だけ必要になるんですよね。この作り込みが小説全体の出来に深く関わって来ますし、恐らく、どのハウツー本でも重要視されている点でありましょう。

 私にとっては「人作り」は息詰まるような作業です。しかしながら、言い換えるとこれを突き詰めて完成させてしまえば、ストーリー展開なり、文章構成なりは、驚くほど単純で容易な作業に成り得るのです。嘘のようですが、これは本当であると思います。試しに、既成の有名作品の登場人物を使用してオリジナルストーリーを書いてみると良く解ります。自分自身が最初から登場人物を作成するよりも、各段にスムーズに台詞や場面が回り始めるでしょう。躍動する人物の心理を想像するのもきっと楽しいでしょうし、その後の展開を考えるのも、たぶん思ったほど苦にもならないはずです。産み出す苦痛は、文字通り「人」を産む方にこそ、大きくあるのだと思います。

 掘り下げていけばいくほど、目は自分自身の内部に向かっていきます。特に私の場合は、なのですが、想像する事しか出来ない他人の事は、まず、人と自分の違いを探る事から枝葉を広げていかなければとっかかりが掴めない場合があります。自分ならこうするが、ではこの人ならどう動くのか、どう考えるのか、と言った様な切り口です。そもそも自分自身はどうで、そこから見た時の相手はどうであるのかと始まります。判断基準、物差しは自分という人間に刻まれたメモリの幅が元になっています。ですから、そこから解き明かされる一つ一つが、とても重要になってきます。自分の内面を抉る事、というのは、つまりはそのような事を指します。

 著名な文豪のように自殺はしませんが、自殺しなくてはならない状況に追い込まれてしまう芸術家、知識人は、極限状態まで達してしまったプロファイリングが高じて墜落するのかも知れない、などと、ついついうそぶいてみたくもなります。

 「雨上がりの空は、美しかった」と一文を綴ったとして、美しく感じた自分が、そう感じずにはいられなかったのは何故か、雨上がりが意味するものは何か、暗喩の辿り着く先はどこか。

 人を見るのが嫌になるという、言うなれば人間嫌いは、感覚鋭い文豪達の宿痾(しゅくあ)なのでしょうけれど、それは罹患するべくしてなったのではなくて、我々一般人が不本意にかかる花粉症のようなものなのだろうと思います。不幸にも、というか、幸運にも、というか、私はまだまだ人へ対しての興味は尽きません。人を厭うて、人から離れるという仙人の境地には辿り着けておりません。文豪に憧れて、執筆家の末席にもよじ登れない一人の子持ち女なのですけれど、望むと望まざるとに関わらず、それでもやはり下手の横好き、文章を書く事は好きなままです。

 書き記し、書き伝える、地味で奥深いこの作業に、言い尽くせない魅力と潤いを頂いております。好きでい続けられて、嬉しいとさえ思います。

 例え、誰かの背中を押す事が出来なかったとしても、例え、誰かの憧れに成れなかったとしても、例え、時代に名を残せなかったとしても、細々と自分の言葉を書き残す事が出来ている今が堪らなく、嬉しいのです。「好き」であるという作業は、尊い事でありますね。見返りがなくても、ただ幸福であるというのは、何なのでありましょうか。

 苦にならない作業に没頭出来るのは、実に有り難いです。下手の横好きで心底、良かったです。下手だから続けられる、下手だから、凄い人々を知る事が出来てもっと嬉しくなる、もう、こればかりは狂おしい悪循環です。狂喜です。「狂った喜び」です。

 ワクワク、を発見する子供のままで、私は大人になってしまったんですね。