あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

雨、降りやまぬ羅生門

 《「きっと、そうか」

  老婆の話が完(おわ)ると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰(にきび)から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛み付くようにこう云った。

 「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」

 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍骸の上へ蹴倒した。梯子の口まで、僅(わずか)に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。》

 芥川龍之介の『羅生門』、クライマックスの場面です。

 中学生の頃でしたか、国語の教科書に掲載されていました。時が経ち、手元に新潮文庫の文庫本で持っているのですが、今、読んでもここはゾクゾクします。災害続きの京の都で、職を失って路頭に迷った下人。我が身に迫った危機に直面した彼が、道徳と理性を捨てて生きる道を選び取るまでの心の機微が描かれています。当時、学生だった私は、単純に下人の身勝手さを厭いました。若いと言うのはある種の潔癖と瑞々しい正義感で武装された存在であるのでしょう。思春期独特の面倒を抱えた状況であったとしても、それは一過性の気の病であるだけで、逼迫した本当の身の危険とは縁遠い物です。純粋という言葉が生温いのであれば、未熟という言葉にでも置き換えられるでしょうか。

 《ある日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池(はすいけ)のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮(はす)の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色(きんいろ)の蕊(ずい)からは、何とも云えない好(よ)い匂(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。》

 言わずと知れた『蜘蛛の糸』ですね。これも印象深い場面です。淡々と綴られる文章は決して難解な言い回しや語句を使用していません。歯切れの良い短文が、しかし、的確に物事を言い表しています。情景を紡ぎ出す粒ぞろいの言葉が、読者を容易に物語の世界へ導いていきます。実に心地良いです。読み手に無理強いしない、これはとても大切な事のように私は思います。

 言葉には、音楽で言うリズムのようなものが確かに存在しています。拍子と言うのでしょうか、一種の起伏です。突拍子もない言い回しにしろ、ぶつ切りの語尾にしろ、一見、見苦しく見える物であっても、読み進めて行くにつれて知らず知らずに引き込まれていく文章というのが有ります。相手に読む苦痛を強いるものではなくて、むしろ、惹き付けられて読書を止められなくなってしまう、少し、煩わしい気持ち良さを味わうような文章があります。

 余白の場所、句読点の位置、置き去りにされた名詞、選りすぐられた擬音語。もう、こうなってくるとセンスとしか言いようがないのですけれど、私は、作者のセンスに酔ってしまったように、息を詰めて文字の林へ踏み出し、知らぬ間に物語の海で溺れてしまうのです。読後は軽い午睡から覚めたごとくに溌剌として、時に肩を抱くようにしみじみとして余韻を味わう贅沢を噛み締めます。料理が好きな人には料理の、手芸が好きな人には手芸の、運動が好きな人には運動の、それぞれの醍醐味というのがありましょうが、私が感じる読書の醍醐味とはおよそそう言った疼きに似た、痺れに似た溜息交じりのものであるようなのです。肩は凝るし、目はショボショボするし、身体的には疲労はするのですが、心と心臓を繋ぐ太いパイプが柔らかい物で切なく結い縛られている不思議な感覚を味わいます。恍惚感、と呼ぶには、もう少し輝きが足りない気もしますし、いささか野趣があり過ぎる感覚です。

 整然と並んでいる物を意図的に崩す楽しさ、韻を踏んで続く物の安心感、所々に大きな見せ場があって不自然でないくらいの安直な物が場と場を繋いでいる、ありとあらゆることを表し得る「言葉」というのは、本当に自由なものであると私は常々思っております。けれども、あまりに身近にあり過ぎて、真にこれを使いこなすのが実は非常に難しいと言う事も思い知っている最中ではあります。語弊、誤謬(ごびゅう)、言い間違い、言葉足らず。人の考えが、言語で構成されている限り、私達はこの支配をうけない訳にはいかないのです。記憶が欠けていく事、物事を忘れていく事、思考を思いのままに出来ない事は、言葉を失う事と密接に関係しています。乱雑になる言葉が、人を乱雑に仕上げてしまうのも、凛とした発言が、人を鼓舞していくのも、それは「ことのは」の仕業。言葉選びはそのまま人を作り得るのだと思います。畑を耕す行為と言語野を鍛える行為は「実り」の為には欠かせない作業であるみたいです。

 人と人とが言葉で繋がっている限り、心を表せる手段が言葉である限り、それをおざなりにし続ける事が、いかに危険であるかと言う事を、もう少し真面目に考えても良いのではないかと思っています。