あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

「ぱれ部」活動日誌(『あかりの森’s bog』課外活動報告記):赤坂から日比谷へ

 赤坂の迎賓館からニコラス聖堂へ、そうして日比谷のミッドタウンへと足を伸ばした昨日の散歩。前日に飲み会で一日家を空けていた主人の罪滅ぼしに、という暗黙裡の家族サービスDAYでありました。最寄りの駅から中央線快速に乗り、四ツ谷で降りて徒歩でテクテク。今まで何度も車で通り過ぎて来た場所ではありますが、地面に足を付けて改めて散策するのはとても新鮮でありました。

 噂に聞く豪奢な建造物であった迎賓館。都会の真中に建つ別世界と言った趣で、私のイメージは「ごちゃっとしたプラレールジオラマに、洗い立てのマルチーズ(犬)を置いたみたい」でした。雑草一本生えていない天然芝生張りの側道、雨の水ジミさえ拭われた白い柵、外観の荘厳さも去る事ながら、入口のセキュリティーを通過して一歩踏み入れた館内は、まさに「宮殿」。18世紀ヨーロッパ調のシンプルで美麗な室内は、白漆喰と金装飾に統一され、赤絨毯の通路から上を見上げれば高い天井には手の込んだフレスコ画。当時一流と言われた名工達が腕を振るった絵画や七宝焼きが、おやまあ、こんな所に、という具合の無造作さで至る所へ配置されている具合。1t超えのシャンデリアが3基ずつぶら下がるそれぞれの著名な間には、ロープで区切られた向こう側に、晩餐やらレセプションで使用された、もう値段をみるだけでも恐ろしいようなテーブルウェアと、傷一つない磨かれた食卓、絹張りの椅子。部屋の隅、通路の曲がり角ごとに無線機を付けたスーツ姿の警備員が立ち、来客の動向に逐一目を光らせているプレッシャー。そして、その中をいつもの調子で、トテトテ走っていく我が家の「若君」達。空調も抜群であろう屋敷の中にあって、変な汗をかきながら、溜息ばかりを呆けたように吐きつつ観覧は無事終わりました。出口から外へ出た時の安堵感。酸素密度が急に上がったように思えて、ああ、娑婆に還ってきたぜ、としみじみ。

 東京に住んで6年を迎えようとしていながら、まだまだ知らない事だらけの私です。熊本から上京してもうすぐ30年という主人からは、いつまでも「おのぼりさん」じみている事を馬鹿にされているのですが、物慣れないものは仕方がありません。駅のホームに立てば、次から次へ入って来る電車に感激しますし、ちょっとしたスーパーマーケットにもあらゆる食材が溢れていて驚いています。どこに行っても人だらけ、どっちを向いても常に新しい物が登場していて、新陳代謝の激しい事は息詰まるようにさえ感じてしまいます。それが、大都会、それが、東京という街の当たり前であるのだと思うのですが、この私の動揺はいつまでたってもマシにはならないようなのです。

 一方で、生き馬の目を抜く雑踏の中で、時々、行き会う言うなれば「日陰」のような場所にも私は不思議な感動を覚えるのです。電車の高架下の薄暗い連絡通路、ビルに挟まれた公園の鬱蒼とした雑木の原。建物と建物の隙間の奥に見える従業員出入り口。新しいマンションの裏に建つ、木造モルタルの古い家屋。

 それらも確実に東京の日常風景なのですが、何かの折に、そこを通りかかると、背中の上の方がワサワサと騒めくような感覚になるのは不可解です。懐かしむ感覚というのではないのですが、惹き付けられるというか、つい目で追ってしまいます。引き込まれるような、ちょっとだけ指先で触れてみたいような、でも、深入りしてはならないようなおかしな感覚。今、住んでいる郊外の自宅周辺には、あまり出会わない「ぽっかりと抜け落ちた」ような場所が、都会の雑踏の中には至る所に点在しているように思われます。上手に表現出来ないのですが、例えば。愛想良く対応してくれていた店員が、商談の合間に真顔に戻り、鏡越しに私がそれを目撃してしまったみたいな気まずさ。眩しい程に清掃の行き届いたレストランで、偶然聞こえて来た隣客の他人への悪口。

 知らなくても良い事を、不可抗力で知ってしまったような小さな罪悪感というのでしょうか。明るい場所には、当たり前の事ですが、同じように浮かび上がって来る暗がりがあります。濃い光の側には当然の濃い影が存在します。無意識に私はそれらを「怖いもの見たさ」で眺めるモノだと、どこかで認識しているのかも知れません。

 暗いモノが、怖いモノとイコールでないのは知れた事なのですが、どうにも私は心の根源の部分でそれらを厭うているように思います。実家にいた頃は殊更、そんな風には感じなかったのですが、東京に出て来てからそんな気持ちが強くなったというか、浮き彫りになってきたように思うのですね。

 一本のロウソクの向こうにある(だろう)闇に沈んだ何かに、じーっと目を凝らすような感じ。扉の向こうにある(かも知れない)何かを、ひっそりと想像するような感じ。

 東京という街は、常に生まれ変わっている街です。何色でもあるし、どこへでも通じているし、どのようにも様変わりするし、誰にでも成れる底抜けの自由が保障されている街です。ただ、その底抜けの、抜けてしまった底の見えない程、深い深い、真っ暗な穴を覗き込むと、途端に私の心の隅っこがワサワサと騒めくのです。きっと主人に言えば、笑われてしまうような感覚なのでしょうけれど、反射的な感覚であるので、こればかりはどうしようもない事であります。

 寒いから鳥肌が立つ、鼻がムズムズするからくしゃみが出る、子供を見れば笑いかけたくなる、そういった身に染み込んだ反射神経と同等の反応なんですよね。

 見上げるようなビル街に、王宮のような赤坂迎賓館。ひっきりなしに行き交う車列の向こうに皇居のお堀。物凄いスピードで蠢き続ける巨大な生物を、薄青い半透明な腕で引き留めて歩く巨人を、私はこれからも手をこまねいて傍観し続ける事だろうと思うのです。