あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

夏酔い奇譚

 手元の竿が跳ねたのに驚いて、私は思わず立ち上がった。

 支えていた竿は大きく揺れ、糸先が突き立っている水面に波紋が広がった。夏の陽にじりじりと炙られて、釣れぬ魚と根比べをしているうち、どうも居ながら寸の間の眠りに落ち込んでいたらしい。一本切りしか用意のない竿を、危うく落とさず済んだはとにもかくにも重畳である。

 「桃源郷へでも出かけていたのか」

 傍に座った侍風の男に問われた。自分がここに尻を落ち着けた折には見なかった男だ。その男も私から半間の間を空けて同じく釣り糸を垂れている。

 私は曖昧に笑って、竿先を引き上げた。餌は見事に食われている。こうして水面を透かしてみれば、もう手に取るばかり魚の影は鷹揚に群れているというのに。

 「旦那も、御退屈しのぎでございますか」

 水の面をのんびり眺める鼻筋の通った横顔に向けて、私はご機嫌伺いを口にした。生業柄、世間話は苦にならない。

 襟足の虫食いでも気になるのか、男が節の高い指で気だるげにうなじを掻き上げる。

 「退屈だから来てるんじゃあねえよ」

 薄い唇を形ばかり歪め、整った顔立ちを少しだけ私の方へと傾けた。

 気に触った事を言ったつもりはないが、侍という輩はやたらと権威を重んじる。商売人の私には及びもしない沽券というのがあるらしいから、向こう様の領地にむやみに踏み込まぬが肝要だ。

 蒼く研がれた相手の視線に怯えて、私は気付かれぬようのどに支えた唾を飲み込む。

 「こりゃまた、気の利かぬ事を」

 腰を据え直して、私は半歩ばかりを後ろへにじり控えた。

 「なんだ、別に咎め立てしたわけじゃあねえさ」

 「ああ、いえ」

 「釣れるか釣れぬか分からぬものを、気長に待つというのも手持ち無沙汰だ」

 「さようですねえ」

 「おめさんが話を向けてくれるなあ、何の障りでもねえやな」

 「恐れ入ります」

 「何を狙うね」

 くいと顎を向けられたので、真正面から初めて相手に向かい合う。今度ははっきりとした笑顔に迎えられ、私は胸をなで下ろした。細面であるが、頬の骨がしっかりとした、なかなかに見応えのある若侍である。

 「釣れれば儲けもの、雑魚の一匹でも釣り上げられりゃ夕餉のお菜が賑わうってものでして」

 「食うのか」

 「え、ああ、はい、まあ、そうですねえ、お武家様の御膳とは、こう申してはお恥ずかしいですが、比べ物にはなりませんよ」

 そうか、食うのか、と相手は繰り返し、妙な驚きを双眸に浮かべたまま、再び前へ向き直った。私もまた、彼と同種の驚きを胸に沈めた。巷の下々が当たり前に煮付けやら造りにしている川魚に、箸も付けない雲の上の方々がいるのは承知だ。しかし、こうもあからさまに、面と向かっていぶかしがられてみると、屈辱というよりももっと潔い何かを感じる。

 「旨いのか」

 木訥とした無邪気な質問に、私は笑いのこみ上げる口元を袖で隠した。

 「ええまあ、小骨は多いですが」

 当たり障りの少ない事と言えばこれだろうか。泥臭いとか、ぬめりがひどいとか、あまりおどろおどろしい事は口にせぬが吉だろう。

 そうか、旨いか、と、また相手は先ほどのように呟いて手にした竿をふらりと揺らした。

 夕餉の足しというではなくて、そうしてみるとこの若侍の釣の目的は、ますますもって憂さ晴らしか、気慰みの類であろうと想像出来る。所詮は、お上の座興であるが、肩を並べてする仕草は同じであるのだ、恐れ多い事ながら親しみが湧くようである。

 時に、ぬるい風が一陣吹いた。千切れ流れていた群雲が、強い陽射しを遮った。薄青い陰が周囲を塗り替え、先程まで油のように白く光っていた水面を風が渡っていった。

 「こりゃ、一雨来ますかね」

 庭先に広げて来た煎餅布団が気に掛かる。

 「どうだろうなあ」

 男はほんの少しばかり、その形良い眉を上げた。

 「でも、存外、主の機嫌さえそうなんだったら、天地をひっくりけえす大雨にもなろうよ」

 いったい何の事を言っているかは分からなかったが、こちらに同意を求めるように、なあ、と声を掛けられたので、私も反射的にへらりと頷いてしまった。

 あるじ、と、彼は言ったが、機嫌の良し悪しを論じるのであるから、主君か上役の何某かの事であろうと独り合点し、私は自分の針に練り餌を付けて水面に落とす。

 「なかなか気難しい御仁でいけねえやな」

 愚痴であるのか、落胆であるのか、頬の内で転がす小言に私も追従の笑いを浮かべた。

 「気苦労な事でございますねえ」

 「まあなあ、あちら様にゃあ端からこちとらの腹積もりなんぞはお見通しなんだろうなあ」

 「骨の折れるお話でやすねえ」

 「全くだ」

 飄然として見えるその若い侍は、一見、抜け作でも瓢箪でも無さげに見える。それどころか、扱いようによっては老獪な狐よりも頭が切れるに違いない。数多の客をあしらってきた癖からか、私はそういう人を値踏みする下世話な感覚に長けていると憚りながら自負している。

 ひたひたと心もとない陽の名残を照り返す水面に視線を注ぐ侍の背中を私はじっと盗み見た。帯刀こそはしているが、着流し姿に下駄履きだ。まかり間違って逆鱗に触れたとして、草履履きに草除けの脚絆を付けている私に、そうそう取りすがれようとも思えない。行商で鍛えた足腰は、仲間内では韋駄天とおだてられる程に達者である。

 そこまで思い巡らせていた私へ、甘苦い声が掛かった。

 「ほら、来たぞ」

 男が腰を浮かせた。

 水面にのめり込みそうに見え、私は声にならない声を上げた。

 若侍の見つめる先に、布を翻したような大きな波が立ち動いた。

 緩やかな流れを遡る、得体の知れない金色の背びれが見えた、かに思えた。黄金色をした刃が、暗い闇をゆるゆると引き裂いていくような陰影。漆を撒いた板の間に、光の糸が貫き通ったような。

 「な、何でございますか、今のは」

 跪いた私も、手元の竿を掻き抱いていた。

 腰元の二本差しを鞘走らぬようにしたのか、男が竿を捨てて柄に手を掛ける。

 「いさな、でございますか」

 尋常の大きさではないそれは、私が滑稽本で見知っている鯨(いさな)ほどもあった。

 「さあ、そのようなものではあろうかなあ」

 くねりながら流れて行く背びれを、男もゆっくりと岸伝いに追った。

 「おめさん、竜ってのを知ってるか」

 言葉を拾うのがやっとの私は、肝を潰して相手を見上げた。

 「竜、で、ございますか」

 「ああ」

 「あの、お寺さんの本堂の天井画なんかにある、あの、ぐるぐるトグロを巻いた奴でやんすかい」

 トンボの眼玉をたぶらかす時によくやる仕草で私は人差指を呆けたように回して見せた。

 「そうそう、あの竜さ」

 男は何がおかしいのか、私を真似て節高い指先で螺旋を描く。

 「滝瀬に登って、門をくぐって、黒雲踏んで天に駆け上がるとかいう、そいつだ」

 まさか、と、思わず、声が出た。声を発して、しまったと思った。取り様によっては、武家である男に反論したようにも受け取られる。楯突いた咎で、嬲り切りされても我が身には異論は申し立てられない。はっとして私は男の顔を仰ぎ見た。

 しかし、彼はそんな取るに足らない私を気にも留めていないふうだった。

 ただ、息を詰めて、じっと動く水面に見入っている。

 ゆらり。

 漆色をした水の表に、鈍い金色の筋が走った。

 ゆらり。ゆらり。

 時々、屋根瓦程の板状の物がきらびやかに水中にひらめいた。よもやと思うが、あれが鱗であるのだとしたら、とんでもなくべらぼうな生き物である。

 竜、などと言う事は俄かには信じられない。町人である自分をたばかって、相手が面白がっているには違いないのだ。

 私はどうとも抑えられぬ胸の早鐘を、何とか沈めようと四苦八苦していた。

 「恐れながら、旦那」

 「なんだ」

 「か、かりに、あれがその、つまり、あれとして」

 もう、私は何も言わぬのが良いのかも知れないと考えていた。頭の隅では、先走ろうとする好奇心を、身に染みた警戒心が賢明に押しとどめている。つまらぬことを言い立てて、もしも万が一、相手の腰の物が我が身に切り掛かろうとも限らない。

 いらぬ怖いもの見たさが、身を滅ぼす。

 「つまり、あれは、えっと」

 「なんだ」

 「その」

 水面を凝視していた男の視線が、一瞬、こちらを顧みた。

 「旦那は、あれを、その、いったいどうしなさるおつもりで」

 言葉にせぬでも良かったのだ。

 雲の上の事には関わらぬが良いのだ。それは重々肝に銘じておったはずであった。

 上目遣いの私の言葉を聞き届けた後、若侍の気配が変わったのが私には解った。

 「そうよなあ」

 すぐ目の前の水が、白波を立てて逆巻いた。

 「鬼を切った猛者は、絵巻にたんと描かれてきたが、今の世になって、竜を斬ったとなれば、よほど世間の退屈しのぎの四方山話にはなろうかよ」

 刀が引き抜かれる高い音が響いた時だった。

 黒々とした流れの中に、ぬらり、と、巨大な影が躍った。

 「竜殺し、見ぬが良いぞ」

 男の背に庇われて、私は、悲鳴を上げていた。

 「斬られた神の祟りに触れて、寿命が縮まぬとも限らぬからな」

 

 

 

 

 あんまり今日が暑いので、ぼーっとしながら、断片的な「何か」を書いてみました。

 蒸し暑いですね、ほとほと、日中は、たまりませんでした。