あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

48年前の赤ちゃんが、今、22年後を眺める。

 思い描く事は出来ても、空想を実現するには多くの困難が付きまといます。明日の自分が何を思っていて、誰の言葉に喜び、誰の振る舞いに傷付いているかなんて、解りません。24時間後の、しかも自分自身の事であるにも関わらず、確定でない事だらけで、断言出来ない事ばかりです。仮に自分が誰かの「波」に巻き込まれやすい立場や性格であったとしたなら、余計にそれらの不確定要素は膨張するでしょう。逆に、自分が誰かを巻き込みやすい立場、性格であったとしても自分の起したアクションによって周囲に湧き起こった波風から逆襲を受けるケースも想定出来ます。

 何も難しい話をしているのではありません。

 主人の話です。私の主人は48年前の今日、熊本県八代市で生を受けました。現在の彼は、私よりも20cm以上身長が高く、私の2倍以上の体重があり、私の5倍以上の給料を稼ぎ、私の1/10の時間で熟睡に落ちる特技を身に付けています。時に冷徹に思える程、合理的。時に怠惰に見える程、ON/OFFの切り替えがハッキリしています。ドライでシニカルで、短気。その人の誕生日を祝うのは、これで6度目になりました。

 他のご夫婦がそうばかりとは思いませんけれども、互いの将来や、子供達の心配事や、老後の生涯設計や、当面の課題について話し合う機会はそれぞれにあると思います。我が家では近い未来の青写真は、往々にして主人の頭の中にだけ描かれております。平たく言えば、私には漠然とした不安がある場合があっても、主人にとっては「想定内」の事ばかりなので彼は多少の事で動じたりはしません。頼もしいとか、安心感があるとか、私にはそういう心情よりも先に「こんな人間、いるんだ……」という驚きの方が強烈であります。付き合っている頃から、そうです。結婚してからも、そう。今の今に至るまで「生きる姿が何も変わらない」稀有な人であると。

 不条理な事に出くわした場合、彼はこれを力づくで壊しに出向いたりしません。腕を組んで、この不条理が誰かの手によって懐柔されていくのを眺めていたりもしません。それ相応の手段と鉄壁の理屈と、それから多少の熱量で順々に外堀を埋めに掛かってから、全力で本丸に攻め上るように説き伏せに掛かるのです。

 

(我が家の主人の人となり、参考までに以下)

akarinomori.hatenablog.com

akarinomori.hatenablog.com

akarinomori.hatenablog.com

 彼の仕事ぶりであったり、彼の主義主張であったり、書き切れない程の物を彼に伴走しながら見て来たつもりでしたけれど、まだこの先も約20年、私はハラハラしながら見守り続ける事になるのでしょうか(何しろ、主人は70歳で生涯を閉じると決心していますので、48歳の彼の余命は22年)。

 もう、見極めてしまった将来を、そこに向かっていかにズレを少なくするよう微調整していくかが、もしかしたら目下の彼の目標であるかも知れません。

 「思い描く事は出来ても、空想を実現するには多くの困難」とつい考えがちであるのは、私が何の裏付けもなく、そして何の努力をする事もなくのっぺりとした毎日をのうのうと送っているからかも知れません。「これで良い」と自分を肯定するのは、やはり他人でなく自分自身です。「俺はこれで行く」と指針を決め、その自分に嘘を吐かない為にいかにすれば良いかを常に思考している主人は、ただ単に強引なのではなくて、ただ単に頑固なのではなくて、もしかしたらケタ外れの正直者であるのかも知れません。他人に嘘は通せても、結局、最後までごまかしきれないのは「自分」であるのですものね。一つの嘘を見逃せば、もう一つの嘘を見逃さなくてはならなくなります。一つ、二つ、三つ、と、見て見ぬフリを繰り返していけば、その内、感覚は麻痺してきます。膨れ上がった自分への不信感は、理想と現実との摩擦を引き起こします。板挟みになっても、それを笑い飛ばせるくらい図太く強靭であれば問題はないでしょう。けれども、多数の人々はそうではないでしょうから、悩みますし苦しい境地に陥るのだと思います。

 主人が、あえて頑なであるのはそうした負の要素を、はびこらせる前に一つずつ、根気強く摘み取って行く作業が、いかに自分の美徳を守る為に重要かを実感しているからに違いないと、私は思います。強いとか、図太いとか、信念があるとか、責任感が強いとか、見る方向によってはそれは長所(あるいは短所)に映る事があるでしょう。けれどもその揺るがし難い彼の「潔癖」は、長男らしい不器用さと細やかさに裏付けられている物でもあると思われます。

 彼が、彼の思い描く姿で生涯を全う出来た時、私は徐々に冷たくなっていく彼の手を握って彼に何と声を掛けることでしょうか。夫婦生活というもの、なかなか一筋縄でいかない手強い仕組みであると、まだたったの6年目でありますが、一端を垣間見た気分でいる今の私です。恐らく、これからも、順風満帆、平穏無事、とだけでは済みそうにはありません。人が人と繋がっていれば、違う意志同士の共存であるのですから、安楽なぬくもりだけでなく、避けて通りたい摩擦も味わう事でしょう。未来予想には疎い私にも、それだけは容易に想像が出来ます。

 それでも、なお、こうして「我が家」という一幅の絵物語を織り続けているのは、どうしてなのでしょうねえ。

 人がいて、人が暮らして、人と出会って、人が生まれて、人に成って、人として去って行く、当たり前で、殊更取り上げるのも馬鹿馬鹿しいほどありきたりの風景の中で、また残された人が、人として歩き、人と出会って、人が生まれて、人を育て。この日常の有り難さ。この些細な事の有り難さ。

 70歳の、主人の臨終の席で、誰が泣いていて、誰が怒っていて、誰が嘆いていて、誰が祈っているか、私にはまだとうてい図り知れません。

 だけれども、そこにもまた、穏やかな時間が流れていて、今日と同じく健やかな家族の姿があれば、去って行く人を見送る場所としてこれ以上に清らかな物は他になかろうと、私は思うのです。