あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

泣かない人

 はなから私は、自分が器用には生きられない種類の人間であるのは勘付いていました。少しの失敗や自分の不甲斐無さや、勝気な癖に妙に臆病である事などが重荷になり、それでも適当にいなす事が出来ずに視線が上げられない折がたびたびあります。環境が私を追い詰める要因に満ちている訳ではありません。息苦しく思えるのは、単なる自己への暗示でありますし、気詰まりを覚えるのはひとえに頑なに人との関わりを忌避している己の弱さであると自覚しているのです。

 俯きがちになる自分を、何とか奮い立たせようと眉間の辺りに意識を凝らし、強いて口角を上げてみます。せーの、で歩き始めた時は大きな歩幅で様になっていた姿も、進むに連れて尻すぼみになり、みすぼらしい元の自分に戻っていくのです。全部の自分を否定しているのではありません。ただ、たまたま今日だけの気の利かない、折れ曲がった自分を何とか持ち直したいと思っているのです。それなのに、どうにも上手くいかない事ばかりです。ジッと前を向いていないと、充血した両目から、また、ポタリポタリ、みっともなく涙がこぼれて来そうになります。労わられるのが気まずいのではありません。同情されるのが腹立たしい訳でもありません。いつの頃からか、無防備に人前で悲しい表情を見せる事に心が痛むようになっていました。これも子供から大人への成長の一つとするのなら、私は間違いなく激情をこらえる工夫を身に付けられた、大人の様な物に成れたのでしょう。

 誰しもが、確固として自分を支える指針を持つものではありません。綱渡りの毎日を繋ぎ合わせ、これを「日常」と名付けている人もこの世界には多くいます。生き抜く為に背中を押してくれる後ろ盾みたいな物が自分には存在していなかったとしても、用意され続ける課題を迂回する事は、生きている限り、生きる事を選択していく限り、出来はしません。

 泣くという行為は、与えられたストレスへの一時的緩和措置なのだと言います。泣かない人よりも泣く事が出来る人の方が何倍も自分を修復させる力を得るのだそうです。

 成長の過程で、泣く行為を避けるようになるのは、泣く行為そのものが無心な子供を連想させるからかも知れません。泣く人を疎ましく思う心理は、そのあられもない姿をどこかで羨ましく感じている照れ隠しの現れかも知れません。

 真っ黒な瞳に、いっぱいの涙を溜めて、大人になり損ねた人が、細い道を一人きり。

 

 

(1000文字雑記)