あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

名残

 頬の辺りに、芳しい香りを感じ辺りを見回せば、深い緑の高木にあるかなきかの小さい夕日色の花房が無数に散りばめられているのを見つけました。彼岸の頃、曼珠沙華の鮮やかな紅色があちこちを賑わせる中、朝風に、夕凪に、人の心をふくよかに染め上げるその花の名を、今は亡き我が父が「金木犀」であると、幼い頃、教えてくれたのでした。

 金木犀という花は、私にとってとても不思議な花であります。流れ来る芳香には立ち昇るような存在感がありながら、視点を定めて追い求めると途端に輪郭が曖昧になるような、言わば、だまし絵のような花であるといつも感じるのです。そこここに色付く滴りを奔放に点描していくというのに、誰にも素顔を見せない油断ならない人のよう。

 通勤の道すがら、楽しみの一つとして近隣のもの、神社の境内のもの、古い空き家にひっそりと佇むもの、それぞれの金木犀の香りを味わいます。それが、ある日、唐突にぷっつりと途切れてしまい、今までさして気にも留めなかったそれらの親木の足元に、役目を負えた黄色い花が黒々とした地面を明るくして散り敷いているのを見つける事があります。思わず溜息が出るのは、何故なのでしょうね。勿体ないような気持ちになるからなのでしょうか。一つの季節が過ぎて行く名残であるのでしょうか。華やぎを失った常緑樹を気の毒に思うからでしょうか。樹々の気高い香りを、勝手に喜ばしい物と思い定めて、無責任に淡い夢想を弄んでいたからでしょうか。

 思うのです、私達は良くも悪くも変化にとても弱いものであると。周囲の変化であったり、自分自身の変化であったり、その「変わる」という事象に全く揺るがないでいる事は、実はなかなか出来ないものなのですよね。変わり続ける事に嬉しくてワクワクしている時でも、クヨクヨしている時でも、ドキドキしている時でも、メソメソしている時でも、そのどの景色にも、平常心の自分と言う物を確立できないでいるのではないでしょうか。変化が大きければ大きい程、比例して身体の中心が音叉のように微細に震え続けてはいないでしょうか。

 平常心=平ら、である事は、禅の世界に没入でもしない限りはおよそ難しいのかも知れません。身を研ぎ澄ませて、周囲と自分が溶け合うような境地にあっても、恐らく、一通りの感情からは隔離出来ないのが「人」であるのでしょう。

 香りだけを残し、花は静かに錆びついたしがらみを脱ぎ捨てます。

 

 

(1000文字雑記)