あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

「できあがってきたなあ」と思います。

「僕は寂しいから優しくしてくれ」と意思表示できる次男は本当に強い。笑ってはいけないが、彼が両手を広げて泣き顔で私の助けを待っている姿は、誠に人として逞しい。何でも一人でこなせてしまう人が強いとは考えない。立ち位置をきちんと把握して、できるだけの事をした上で上手に相手の力を引き出せる人の方が、上位にあるのだろうと思っている。

勿論、まだ、次男は3歳で、思うままに日本語を使いこなしているわけではない。拙いながらも涙声で「独りになっちゃう、(悲しくて)泣いちゃう」と訴えつつ、私の助けを待つ。これが逞しいと言わずして何と言おうか。甘えるのでなく、頼る、その術を少しずつ、彼は習得している最中であるのだ。

ある時には、喧嘩仲裁のため、弱い者の「お抱え素浪人」みたいな事も保育園ではしているらしい。おもちゃを捕られて困っている友達のために、単身、相手である強者へ「代理」戦士として向かっていくという。

彼らしい。

栗匂う闇

蛍をよけながら夜の田んぼ道を歩くなどは、東京郊外に生まれた我が子には未経験の事だ。熱の無い黄緑色の明滅が、風のない夜闇の中に点と線になって行き交う。梢に止まって動かない光、川面に争う光、危なっかしく地面に降りる光、気ままに見えるがそれぞれに懸命な光であるのだ。

蛍を物珍しく恋しく思うようになったのはいつからか。栗の花が高く匂うこの頃、今にも空が崩れて降り出しそうな夕暮れから明方までを、蛍はポヤポヤ、夜の中を無尽に飛ぶ。感傷的になるのは本当に日本人の勝手で、気楽に綺麗な事をほめたたえれば良いものを、そこへ亡き人の魂やら、想い人への情念やらを詩的に結び付けたがる。それも情緒、趣きと、縁側に酒肴を並べる人達もいる。

子供がかざす団扇に煽られ、可哀相な虫は、遠くに吹き飛ばされる。無慈悲な事をするでない、と年寄りが幼い人をたしなめる。自分が起こす風で、右往左往する光が面白く、子は無邪気な夜更かしをする。

案外というか、意外というか、でもよく考えてみれば取り扱い説明書も「手作り」なんですよね。

小学校で国語の授業で「句読点の打ち方」を習った。長い文章へ読者が読み下しやすい位置に点や丸を打つと教えられたと思う。禁止事項や、より良い記入方法はあるものの、大約は分の切れ目を視覚的に示す役割がある、との事である。

句読点をどこに打つか。これはもう記述者のセンスだ。音声で伝わる会話ではないので、抑揚で文の区切りが判然とする、事は、書き言葉には少ない。句読点もなく、ひたすら文字を続けると、最初は内容が把握できていた文章も、途中で思考が迷子になる。

この、一点、一丸を入れたり、省いたり、そんな事を机に向かって一日中している仕事もある。私が関わる「校正」という部署がそうなのであるが、とにかく地味なのだ。地味で単純なのに、機械には任せられないときた。人が読むものは何故か人がまだまだ手を加えないと「読めるもの」にならない。何気なく開いた小説の文面も、電化製品の取り扱い説明書も、契約書も「人」の眼が作る。

二つの瓜

そんな事、我慢しなくても良かったのに、と、子供を抱き締めてやりたくなる時がある。けれど、子供とて我慢している最中は、他の事に気が回らないくらい必死だったろうとも思う。「大人に相談できる」という方法があって、しかもそれはごく妥当な安全な方法であると分かっていれば、彼は迷わず私に相談したことだろう。「そんな事」を我慢させてしまった私にも当然、「打ち明けて欲しかった」という情けなさは残るし、でも私に打ち明けるアイディアを思い付かなかった彼の悲しさも痛いほど分かる。

遠慮とか、気遣いとかではない、彼は、全く、大人に頼るという事を思い付きもしなかったのだ。後々に、「ああ、そうか、そういう方法もあるのか」と知るだけで、当時、彼は、世間の全部と戦っていたのだった。

ああ、こんなところも「我が子」なんだな、と泣き笑いしたくなる。小さな身体に、精一杯の「正しさ」を詰め込んで、大切な物を守って、傷付く。我が子よ。

謎から生まれた事が、謎のまま、立ち消えになった件

「さっき、(外で)誰がいたと思う?」と、学童保育所から帰宅した長男が嬉しそうに私へクイズを投げてきた。「学校の先生?」「違う」「〇〇君?」「違う」「えー、分からない」。息子が興奮しているのは明らかだった。「ねー、誰だと思う、いいから、答えてよ」「分からないよ、誰、有名人?」「超、有名人」「超有名人が、こんな(東京の)田舎にいる?」「いるよ」「誰?」と、私がのらりくらり受け応えをしているところへ、彼が胸を張って、「HIKAKIN(ヒカキン)!」と、報告してくれた。

「嘘でしょ?」「いたよ」「HIKAKINだよ?」「いたよ」「嘘でしょ」「ホントだもん」「本当にHIKAKINだった?」「うん」「嘘でしょ?」。この辺りを長々繰り返した。

私自身が目撃したわけではないので、嘘とは決めつけられない。子が見たのなら「子は見た」のだ。「他の人、いた?」「(彼)自転車乗ってた。みんな、うわーってなってた」。

そう、私が目撃したわけでは、ないから。