あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

たぐいまれ

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一人で決断して

どこかへ向かって歩いて行くのは

寂しくもあり不安でもある。

 

孤独になりたくなくて

大勢の輪の中にたたずんで

両隣の人に満遍なく笑いかけ、

タイミングを見計らって相槌を打ち、

適度な質問で話題を広げる等する。

一人ではない自分に安心し

同時に一人で何でもこなせる人へ嫉妬する。

 

本当の私はここにはいないんだ。

呪文のようにそんな事を唱えながら

それでもやっぱり「大勢の中の私」を

やめられないでいる。

ここで話題を途絶えさせたらいけない、

この表情は相手の気に障らないかしら、

張り詰めた自分が

どうしたらそれらしく自然に見えるのか。

 

だけれども、

憧れるのは

一人で軽やかにくしゃみをしたり

咳払いをしたり

帽子をかぶり直したり

窓を開けたりする「孤独な自分」なんだよね。

怖くない事に確信を持っている自分。

一人でいる事に安心している自分。

 

なれるものならなりたい。

だけれど、

成り損ねたら、どうするか。

そんなドロリとした恐怖が頭を持ち上げるから

堅苦しい輪の中から容易に抜け出せないで

いるのかも知れない。

捨てる。

顧みない。

選ぶ。

縛られない。

コンパクトになった自分を想像出来なくて

悲しくなるのかも知れない。

 

本当に必要な物は自分を裏切らない。

そう気付けたら良い。

捨てても、

顧みなくても、

選んでも、

縛らなくても、

自分を満たしてくれる物は

本当に自分が必要としているモノなんだと

思うんですよね。

 

最初は

とっても痛いです。

放り出された自分の痛みに

自分自身がびっくりしてしばらく口が利けなくなる。

冷たくて、

息苦しくて、

ああ、大それたことしなきゃよかった、とか

大胆な事をしてしまった自分を恨めしく思うでしょう。

それでも、

自分にとって

掛け替えのない物は

不思議と後から浮かび上がって来て

削られてボロボロになったあちこちを

不足なく十分に労わってくれるようになるのです。

多少なりともの「通過する痛み」は

引き受けなければならないものだと

どこかで腹をくくらなければならないのかも知れないです。

生まれる痛み。

そういうのは確かにある。

変わるという事は、

何かが瞬間的にグッと軋んだり歪んだりする衝撃が

きっと起こる事だと思うので。

 

そうして

それをちゃんと堪えられた人に

恩寵のように与えられるのが

たぐいまれな

楽天地だと思うんですよね。

同じ質量のモノを得ようとしたら

同じ質量のモノを燃料とするほかにないんだと

ここのところ何度か思い当たる節があったんです。

早くにそういう規則に気付く人もいるけれど

今更、そう気付いてもいいんですよ。

その人が、そう気付いた時が、

その人が「変わるタイミング」なんでしょうから。

息を止めて、

冷たい水に潜り、

意を決して、再び水面に浮かび上がる。

滞った呼気をワッと吐き出したら

生まれ変わった自分に出会うんです。

 

産声を上げた時の自分は

恐らくそのような

神秘的なものであったろうと、

想像するんですよね。