あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

幸先の作り方

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 朝起きて、最初に言われる「お母さん、おねしょしちゃった」の申告。前日の夜、就寝前に立てていた綿密な翌朝の段取りなんて、積み木のように簡単に崩れるものです。「マジか」と、ひとまず崩れた積み木が、どれだけ散らばったかを冷静に見まわし「とりあえず、濡れたパンツとズボンを脱いで」と、一つ目の積み木を拾い上げ「お布団、濡れてない?」と、次のステップに進み「あー、敷布団、アウトだね」と、一呼吸後、一旦、思考回路をシャットダウンします。恥ずかしそうに申し訳ない顔をして見せる子供を布団からどかせて、着替えを用意して、彼が新しい服を身に着けている間に濡れたシーツを敷布団からはがします。

 ここまでの一連の作業は、私の場合、ほぼ無心で行っています。そう、綺麗さっぱり、心は「無」。修行僧ではないので、瞑想の神髄は計り知れませんが、恐らく座禅の境地というのはこれに似たようなものではないかと想像。

 「お母さん、ごめんね」

 多感で口下手な息子の口から、そんな流暢な謝罪は出てきません。用もないのに私のそばで膝をそろえてモジモジしながら上目遣いをしているだけです。

 「昨日の夜に牛乳いっぱい飲んだからね」

 私が視線を上げると、彼は黙ったまま頷きます。反省しているのは良く解ります。

 「寝る前、トイレに行きなさいって言ったよね」

 今朝の「敗因」の確認をすると、彼もコクンと頭を垂れます。

 「(トイレに)行きたくないって言った人はだーれ?」

 「……僕」

 「そうだね」

 組み上げ終わった「積み木」を一通り眺めたら、再び私は出勤時間迫る中、停止していた頭を再起動させます。フル稼働したポンコツCPUがウィンウィン悲鳴を上げながら、最短、最速(であろう)の今後のルートをたたき出します。

 その頃には、もう、あのちっちゃくなっていた長男の方は何事もなかったかのようにリビングでくつろぎながらスマートフォンの画面でYouTubeを観ています。喉元過ぎれば、なんでしょうね、けしからんです。でも、この際、よしとします。

 どうしてこういうことするの、なんであなたはそうなのよ、そんな追及をしたところで前に進めるものではないし、どうしてとかなんでとか因果関係を立証して彼が弁明出来るくらいならそもそもそんな失敗は起こらなかったですよね。

 どう説明していいかも解らないことで詰め寄られるのは、きっと子供も辛いんじゃあないかな。主人には「甘やかしすぎだ」と時々、たしなめられます。確かに、5歳児の屁理屈に言い負かされて嘆息する事だって無きにしも非ず(最近の長男のこましゃくれ方、どうにかならないかと)。親としては脆弱すぎる部類に入ります。それでも、起こってしまったことは「仕方がない」んです。それは自分を正当化するための呪文でも、相手を傷つけない為の言い逃れでもないんです。

 ずっと思っている事なんですけれど、「仕方がない」には、残念な事を一まとめにしてそれを踏み台に変えるみたいな力があると思っているんですよね。本で言うところのシオリ、本棚で言うところのブックエンド、フォルダーで言うところのタグ。「諦め」というのに似ているかも知れませんが、より明るい、より伸びやかな、そんな印象を受けるんです。

 「仕方がない」からは、後悔や寂しさの匂いがしない。

 むしろそういう領域に陥りそうになる自分を引っ張り上げてくれさえするんです。仕方がない「から」これからどうするか、そっちの方に目を向けさせてくれるように私には感じられるんですよね。痛かった傷を治す力もない、現状を改善する力もない、非力な掛け声みたいな言葉なんですけれど、呟いた後には、少しだけ握りこぶしを作ってみたくなる、お守りみたいな言葉じゃないかと。

 共働きで私達姉弟を育ててくれた両親も、きっと毎日のように口にした溜息交じりの言葉だったんでしょうね。それじゃあ、まあ、行きますか、と疲れた表情を作り笑いで吹き飛ばして「仕方がないね」って。

 信じられる自分の力だけを頼りにして、どっこらしょって、踏み出す言葉なんですよ。

 たぶん。