あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

道端の石が眺める風景

 例えるなら、大型の肉食獣なんですよね。それも今にも木陰から飛び出し獲物に飛び掛かろうと身構えている姿の。

 あるいは、上昇気流に翼を任せ、何キロも先のウサギを捉えた瞬間の猛禽類のようなモノ。

 お気に入りの大きな遊具で、繰り返し繰り返し、登っては潜り、潜っては滑り降り、滑り降りては登り口まで走り。一息でも休もうものなら、途端に呼吸が止まってしまうかのような躍動感と焦燥感。

 それが「男の子」という、鮮やかでしなやかな生き物。常にうっすらと表面に汗をかき、触ればこちらがビックリしてしまうくらいの高い体温を持つ。暗闇だったらきっと、身体中から吹き出る真っ白い蒸気が見えるに違いありません。

 「お母さん、見ててね!」

 入り組んだ梯子を登り、太いロープで編まれたトンネルを潜り抜け、埃っぽい下り階段へ駈け込んで、歓声と共に滑り台を下る。何と無駄の無い動きなんだろうと、驚嘆してしまいます。何遍でも同じルートを選び、時々、彼なりのアレンジを加えて振り返ってみたり、途中のインターバルで大声を出してみたり、もたもたしている先行者へ車間距離を詰めにいってみたりしながら、そう、一瞬たりともたるまない。

 「ねえねえ、お母さんっ」

 私が待ちくたびれて欠伸をすれば、目ざとく見つけた彼が遠くの方から怒った声を張り上げます。手を振って「観てるよ!」と叫び返せば、また安心したように「獣」は、烈しい躍動を始めます。複雑な起伏を描く伸びやかな筋肉が、動く度にビュンビュンと唸りを発しそうです。

 美しい生き物だ、と見惚れてしまいます。

 我が子だけではありません。太い骨組みが、確かな存在感を持って稼働している「男の子」という生物全て。かつて「女の子」だった私には、到底、及びもつかない目まぐるしい色彩の嵐の中で、自由自在に爆発しながら、飛び散りながら、恐ろしい重力に引き寄せられながら、「男の子」は風切り羽根を広げています。

 強さだけではない、いじらしさだけではない、儚さだけではない、清潔さだけではない、「その時」だけしか許されない大胆さと自由とを旗印に掲げて、蒼くて白くて紅くてキラキラして、でも少し危なっかしくて歪んだ景色の中を、彼は当たり前の奔放さで駆け抜けていくんですよね。規則の外です。常識の外です。現実の外です。世界の外です。檻になんて閉じ込められませんし、飼い殺しにするには、余りに彼の情熱は、もったいなさすぎます。

 彼にとって「カッコイイ」は正義なんですよね。正義だからカッコイイんじゃあありません。カッコイイから守るし、カッコイイから従うし、カッコイイから真似したいんです。彼の心を覗いて観る事の出来る眼鏡があるのなら、きっと彼の言動力は「カッコイイ」が物凄い勢いで細胞分裂でもしているんじゃないかしら。

 走り出す彼は「カッコイイもの」に成りきって走るんです。だから、ちゃんとその「カッコイイ」を大好きな誰かに、観ていてもらいたいんですね。見逃すには惜しい「正統派のカッコイイ」だから、多少まずかろうが、ちょっとくらい前のめりだろうが、そんな些細な問題は度外視して、最初から最後まで見届けてもらいたいんだと思います。自分が「カッコイイもの」に成りきっているのは、自分自身の為でもあるけれども、自分以外の大好きな人の為でもあるんでしょうからね。

 彼が信じる「カッコイイ」姿が、膨大な熱量として見ているこちらに伝わってきます。ああ、かっこいいなあ、と、私までが嬉しくなってしまうのは、たぶん、彼自身がちゃんと「カッコイイ」何かに成りきってしまえているからでしょうね。恥ずかしいとか、相手にどう見られるかとか、そんなどうでもいいような意地汚い事を微塵も想像していないからでしょうか。少しばかりの自負と、抱えきれない程の誇りと、真摯な想いとで、彼の手足は解き放たれた豹のように動くのでしょう。

 「ね、ね、今の見てたっ!?」

 私が間違いなく自分を観ていると言う事を疑いもしない、真っすぐな眼差しで彼は、丸い頬を上気させて走り寄ってきます。

 「うんうん、観てたよ」

 私の苦笑はどうにもこうにも彼には関係ないようで、また彼は滅茶苦茶な軌跡を描きながら、遊び場の中心へと駆け戻って行きます。

 「もう、帰ろうよ」

 確かにそんな「どうでもよい言葉」など、聞こえようもありません。

 彼は、美しい肉食獣なのです。

 彼は、美しい猛禽類なのです。

 ちっぽけな人間の、チマチマした呼び掛けなんかにいちいち返事なんて返しようもありません。

 私はまた、つまらない道端の石に化けて、一人、いつまでも、眩しい光の中で遊ぶ「男の子」を見守るのでした。