あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

「好き」の死角

 「好きを仕事に」

 耳ざわりの良い言葉です。歌が好きだから歌で食べていく、書く事が好きだから本を出版してお金を稼ぐ。夢がありますし、何より自分が世間に認められている証にもなりますし、こちらもハッピーならあちらもハッピー。きっとそれが理想的な世界なのだと思います。

 つい最近、心理カウンセラー・心屋仁之助さんの著書を拝読しました。

 「「好きなことで食べていく」。こんな言葉に踊らされては、いかん」

 氏が著書でおっしゃっている論であります。ショックであったというよりも、腑に落ちた気持ちになりました。「好きな事をして暮らしを立てていこうとすると、挫折感を味わう原因になるので、好きな事は好きな事として一旦脇に置いておき、自分の得意分野で生計を立てることを考える方が上手くいきます」というような(大雑把な)概要でありました。

 ああ、そうか、と膝を打ちました。働きながら時々感じていた自分と(職場環境や対人関係などの)周囲との不調和な感じ(自分が感じるものと相手が感じるものと、あるいはそのどちらでもないけれど確実に存在する違和感)は、ほほう、そういう事からも発生しているのかも知れなかったな、と気付かされたんです。そこから見えてくる摩擦。例えば「好きな仕事であるはずなのに、やたらストレスが溜まる」とか「「好き」から始めた事なのに、今ではまるで義務のようになってしまっている」とか。もう最終段階では「自分は本当にこの仕事が好きだったんだろうか」「私自身、何をしたかったのか解からなくなってしまった」とまで思い詰めてしまうんです。

 氏がひも解くのは「好き」だけを動機にしていては、最後は疲れ切ってしまうという悪循環であったろうと考えます。「好き」だけで乗り切れるのなら当然それに勝るものはないと思います。ただ、好き「なのに」結果が思うようなものではない、好き「なのに」現状が向上していかない、となってくると人はついつい自分自身が選んだ道をも憎みたくなってくるものだと思われます。そこで行きつくのは自分が最初に好きだった事が「不正解」な事のように錯覚してしまう。歌が好きで始めたのに、歌そのものが嫌いになる、書く事が好きだったのに自身の文筆力に疑問を持ってしまう、視点がずれて自分自身の中でぐるぐると「悪者探し」が始まってしまうんですよね。

 そして、氏は続けます。

 「まずはシンプルに「得意なこと」で食べていけばいいのだ」

 得意な事と好きな事は人の中ではとても近い存在で酷似している事柄かも知れません。歌が好きな人は歌が得意だと「思って」います。書く事が好きな人は書く事が得意だと「思って」います。ここで注意したいのは、好きな事は必ずしも「得意な事」とイコールではないということです。「得意」ということの語義には「(それが)上手である」という事も含まれます。つまり単に「好き」ではカバーしきれない要素が含まれますし、もっと言ってしまえば、ある事が「好き」だから「上手とは限らない」という事でもあります。

 ここでうっすらと輪郭が見えてくる訳なんですけれど、得意なことで食べていくと失敗しにくいというのは、突き詰めて考えれば「人に求められるケースが多い」とでも言い換える事が出来そうなのです。

 歌が「好き」ではなくて、歌が「得意」です。書くのが「好き」ではなくて、書くのが「得意」です。こう変換してみると、もっとはっきり浮かび上がってくるものがありますよね。不特定の誰かに「私はこれが好きです」とは発言しやすいと思います。けれども、「私はこれが得意です」と言い換えた途端に、ちょっとモジモジしてしまうような気になりはしないでしょうか。平たく言ってしまうと「私は(それにおいては、人よりも)自信があります」と宣言しているようなものですから、いきなりハードルが高くなるわけで自己の発言に重みやら責任やらが発生してくる場合がある、という事です。

 得意な事、と表現したところで、何も具体的な資格や実績を示す必要はなくて、氏がおっしゃるには人より優れていれば何だって良いそうです。人より細かい作業が得意ならそれでもいいし、言われたことを忠実にこなせるマメさがあればそれでもいいし、計算が緻密に出来るなら立派に特技として成り立ちます。そういう自分の「オススメポイント」を武器にして仕事をこなすと、上手く回っていくよ、という、まあ、そのような要約(意訳?)を私なりにしてみた結果、なるほどな、と腑に落ちた訳なのでした。

 詳しくは氏の著書『人生に素敵が舞い込む魔法の言葉』の中にあるのですが「好き」に翻弄される人(自分も含めて)は、やはり多いですよね。好きな事は人に認められれば仕事ですが、人に認められなければ単なる趣味。現実はそういう事なんだろうと思うのです。

 「好き」を信じて、いや妄信してやみくもに主張を振り回していた時期が若かりし頃には、私もありましたね。若いから出来た事でもありました。ただ、今ここに至っては、私ごときも人の親になりましたので(曲がりなりにも)、我が家の若い人には先輩風を吹かして「好きな事を仕事にしなさい」なんて、無責任なハッパを掛ける事だけは止めにしておこうと思い至りました。好きな事は、いずれ、機会が与えられれば自ずと出来るようになります。その舞台に立つ日が来るように「得意な事を伸ばしなさい」と言ってやれたらいいな、と思うのです。

 そう、それこそがきっと、若気の至りをやらかしてきた「少し残念な先輩」としてせめてもの、彼等へのはなむけになるんじゃあないでしょうかね。