あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

仄暗い場所にあるもの

 心惹かれるモノの事をつれづれに思い巡らせている時間というのは、癒しのホルモンがプクプクと放出されている瞬間であると思われます。ピカピカ光るセロトニンやら、ポカポカしたオキシトシンが太陽を浴びた木の芽が喜ぶように体中に行き渡る、そんなイメージです。

 つれづれと思い浮かべるのは折々によって様々なんですが、今日のような降ったり止んだりの薄曇りの日には、何故か日本家屋の畳の間を想像などしております。ひんやりとした静かな雰囲気が、昼でも暗いひっそりとした和室と通ずるものがあるからでしょうか。黒々とした太い梁。どこかでチコチコと時間を刻む壁掛けの振り子時計。人の気配はあちこちでするのに、見回しても人影は無い。締め切った障子には外から入る淡い陽光。鴨居の透かし彫りにあるのは雀だろうか、水鳥だろうか。離れに物を取りに行った祖父はまだ戻らない、そのまま墓参りに出かけてしまったのだろう。モーター式に切り替えた組み上げ式井戸が、時々、低い機械音を響かせている。少し尿意を催してきたけれど、母屋の外にある便所の戸を開けるのは日中であってもやっぱり怖い。

 白い光で満たされた障子の表面に、突然、ゴム毬ほどの青い影が横切る。あっと驚きのけぞって尻餅を突くと、背後からいきなり祖母の声がしてまたギョッとする。縁側で遊ぶ小鳥の影に怯えただけだとすぐに気づくのですけど、苦笑いで振り向いた時には、もう祖母の小さい背中は土間を横切って玄関先へと消えてしまっています。

 懐かしい私の田舎の百姓家は、今はすでに新しく建て替えられて近代風に様変わりしてしまっております。勿論、祖父母も鬼籍に入っております。祖父母が健在の頃、他所に住んでいた幼かった私達は、父が休みの日毎によくそこへ連れて来てもらいました。どうした訳か、まだ未就学の幼児だった私と弟だけがこの屋敷に置いておかれ、自由にそこらの野原を遊び回っていた記憶が残っております。父もおらず、付き添いの者もおらず、まさに言葉通り野放図に5歳くらいの私と3歳くらいの弟だけが、蓮華が一面に咲く休耕田や、みっしりと広葉樹が茂る神社の森や、水草がモサモサ生えた用水路の脇を、小さな足でどこまでもどこまでも歩き続けていた記憶です。時代と言えば、時代なんでしょうか、地域柄と言えばそう言えなくもない。神隠しはあっても、人さらいはいなかったのでしょうねえ。命の危険が確かにあったのだとしても、誰も自分が谷間に渡された古橋を渡っている事を想像だにしないような。

 草むらをかき分けていたら、つつじの隙間からカナヘビが飛び出てきて後ずさる。よろめいた拍子に及び腰になり、低くなった視線の先には、別の何かが見える。目を凝らすと、つつじの根本に拳ほどの白い塊が転がっている。もっとよく見ようと近づくと、その白い塊の表が、なにやらウゴウゴと波打っているのが分かる。細かい芋虫状のしっとり光る小さな虫が無数に絡み合って押し合いへし合いしている。そばに落ちていた枝でつついてみると、つつかれた場所の虫達が慌ててウゴウゴと逃げ出し、わずかに見えた隙間からは灰色の獣の毛皮が現れる。死んだネズミにたかる、ウジの群だとは5歳の子供には分からないから、私は面白くなって死んだネズミをコロコロとつついて遊ぶ。生きているものも死んでいるものも、それからその死んだもので食いつないでいくものも、一緒くたになって斑模様に練り合わされて塗り込められているような、古い、薄ぼんやりとした原風景です。

 心惹かれるモノ。

 ただ整然と美しいだけのものとは、私の場合、違うようです。

 あるいは「それ」をも含めてなお一つの映像美、機能美、趣きを備えている物に心惹かれるのでしょうか。似たような雰囲気を持つものに茶室や寺院の書院などもあります。清潔で清浄で清楚で、なのに少し「崩れている」感じ。規則的なのに、ちょっとした不規則さえも甘んじて許容してしまうような大らかさ。きっちりと着こなされた着物の裾に、何かの偶然でパッと翻ってしまった肌襦袢の赤のような「それ」。

 昼休みにおにぎりを頬張りながら、ふと、雨が上がった窓辺を見上げました。ああ、止んでしまったのか、と少し寂しい気持ちになる自分がいました。晴れ間が見える安心感と、なのにそこに居座る心残り。おかしなものです。

 おにぎりは、ぱりぱり海苔よりも、このしっとり海苔がいいんだよなあ。

 ジメジメと白飯に馴染む、どこかなまめいた海苔を味わいながら、また私は、休憩明けの白々と美しい室内でデスクワークにいそしむのでした。