あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

カラダなんて、本当はいつだって自由なんです。

 頭が働くから体が動くのですけど、肝心の頭が稼働しない時には、まず体を起動させます。目覚めたながらも、寝床に仰臥したまま見上げる天井。眺めたきりでどうにもすっきり起き上がれない時には、両手を天へ向かって突き出します。勢いを借りて上体を起こせたら、カーテンを引いて朝日を浴びます。体内時計の秒針が太陽光に反応し、内側と外側の時差を一気に修正してくれます。朝を迎える度、思うのです。私が人である限り、光の中で活動し、暗く成れば精神を鎮め、折り目正しく丁寧さを忘れなければ、「多少の誤差」つまりは体と精神の不具合は「病気」の内には含まなくて良いのだろう、と。

 つくづくそれを実感したのは、やっぱり子供を産んでからでした。それも出産後すぐの産褥期の頃。体内のどの臓器よりも大きく、重い「胎児」という存在を吐き出した後の産婦の体は相当のダメージを負い、あちこちガタガタです。同時に外に排出した子供分の空白を、物凄い勢いで埋めていこうと大改造が始まっている激動の時期。なおかつ誕生した新生児の世話は並行して行われている状態。生活を維持する為の家事もここに加われば、女性が女性である前に、人間が人間でいる事が大変難しい状況になるわけです。顕著に表れるのが抗いがたい眠気と倦怠感。休息を必要とする体からの正直なエマージェンシーコールであった事は確かです。体の疲労が精神に繋がる、心の疲弊が体の不調を呼ぶ。どうやら私達は自分自身が想像しているよりも、たくさんの構成物質で形作られていたようです。明るくなれば覚醒し、暗くなれば休息する、その当たり前。連日の労働は、体だけでなく心だけでもなくその両方が許可するからこそ成り立っていたという事実。

 朝が来ます。カーテンの向こうが明るくなります。起きようと思う以前にきちんと体が目覚めるのでしょうか。手を伸ばしてカーテンを開けます。晴れでも良いし、曇り空でも構わない、ああ、今日は雨模様だなと残念がるのでも良いでしょう。「朝」と礼儀正しく向き合います。窓を開ければ、その日の新鮮な空気が流れ込みます。肺の中の古い気体を捨て去って、新しい生まれたての風を招き入れます。それを数度繰り返せば、腹の中で何かが燃え始める音が聞こえます。ずっと窓辺でたたずんでいるわけにもいきませんから、自ずとベッドルームから足を踏み出すことになるでしょう。ぼやぼやとした意識のままで、リビングにたどり着けば、ついでに喉が渇いている事にも気付くでしょう。コーヒーを煎れても良いし、冷蔵庫からキンと冷えたミネラルウォーターを取り出しても良い。体が潤えば、意識が冴えます。意識が冴えれば、次の動きをしたくなります。あ、トイレに行っても良いですよね、あ、新聞を取りに行ってもいいですよね、そうそう、まだ顔を洗っていませんでした。

 単発だった行動は、やがて連続した流れになり、流れに乗った体は、その内「意識」を持ち始め、意識がつながり始めるとそれらが一まとまりの「考え」になり、考えそのものが深くなったり浅くなったりを繰り返しながら、私達の行動を支配していくようになります。

 最初からどうこうしようと企てた訳ではないのに、いつの間にか私達は受動的にしろ能動的にしろどうにかこうにか、どこかへ向かってちゃんと動き出しています。

 思うんですよね。

 心底疲れてしまった時に必要なのは、世にあふれる自己啓発本やセラピー講座などではなくて、人らしく当たり前に出来る事を、正真正銘誠意を持ってこなしていく事なんじゃあないかなと。こなしていくべき仕事は、別に名付けられるようなものじゃなくて良いのです。「溜まっていた洗濯物を端から順々に畳んでいく」でも構わないし「玄関のドアを一日かけて雑巾で磨いてみる」でも構わない。「朝御飯の目玉焼きを今世紀最高の美しさで焼き上げる」というのでもいいだろうし「両手の爪をぴっちり綺麗に切りそろえてみる」でもよかろうと思います。ただ、それらの事を「仕方なくする」んではなくて「誠意をもって」取り組む厳かな儀式として扱ってみる、これだけで錆び付いていた余計な強張りがボロボロと自分から剥がれ落ちていくような気がするんですよね。

 笑えない時は無理に笑顔を作る事、ないと思うんです。まして「楽しんで生きるぞ」とか、いったい何のスローガンなんでしょうか。呼吸をするように笑顔でいられる人は、わざわざ笑顔を「頑張って」作ったりしませんし、楽しんで生きる事が当たり前の人はあえて楽しむ事を「宣言」したりはしないと思いますから。そういう「望ましい状況」を「実現できていない」自分を浮き彫りにする事が、ますます自分を悲しい気持ちにさせているように私には思えるんですよね。

 幸せを探しに出掛ける人を止める事はしません。ただ、今ここにある温かいものを見つめ直してみるのも実は心地よい習慣の一つには成り得ないだろうか、と思うんです。空気の様な存在、空気の様に無色透明で、必要不可欠なもの。折り目正しく丁寧に自分に与えられた指先を動かしてみる、側にあるツルツルした喜びに触れてみる。何かを生み出そうとして焦るよりも、まずは何かを「感じて見る人」になればいいのではないでしょうかね。一つずつ、一つずつ几帳面に整える。

 おや、雨が上がりました。

 洗い上げられた空が、あんなに綺麗です。

 取りあえず湿っぽい洗濯物をベランダに出して、我が家を喜ばせる為の夕飯材料を買いに行きましょうかね。