あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

夏は来ぬ。

 窓を開けば、蒼く染まった初夏の風がどっと吹き込んで来ます。

 「目に青葉 山ホトトギス 初鰹」

 強靱な盛夏とは異なる、初々しい若武者のような季節。私の住まいする所は東京の郊外ですから、隣接する田畑には時期折々の作物を見かける事もありますし、少し向こうの竹林には朝ともなると小鳥の姿が舞い散っております。都心のビル群がイメージとして浮かぶ東京ですが、「市」と区分される地域にはまだまだ残された緑が鮮やかです。

 桜が終わり、景色は急にすがすがしく輝き始めたこの頃。冬生まれの私は、気温が高くなり、汗したたる季節が最近までどうにも苦手でした。記憶に残る範囲で言うと、その苦手意識は中学生くらいからのようにも思います。ですが、幼かった頃は、炎天下の中で、白くほこりっぽい道にしゃがみ込み、ずらずらと続いていく蟻の行進を延々眺めて過ごしておったような次第。勿論、帽子は被っていましたが、半袖からはみ出た二の腕は容赦のない陽の光にじりじりと焼け、うつむくこめかみからはひっきりなしに滴が落ちて、今思えばよくもまあ周囲に見守る大人もいないところにいながら熱射病で倒れ込まなかったものだと呆れます。

 子供は「夏の生き物だ」と言う事は、幼かった頃のそうした実体験もさることながら、やはり自分が子供を持つ身になってしみじみと実感したところです。

 「我が子等の 硬き骨抱く 水遊び」

 拙い一句を随分前に、同人誌へと投稿いたしました。

 「水遊び」は夏の季語なので、その頃に送った拙句です。まだ、次男がこの世に誕生していない頃、長男が3歳くらいだったでしょうか。手狭な賃貸住宅に住んでいる我が家に、大きなビニールプールを膨らませるスペースはありません。夏の暑い盛り、浴室で行水をさせてやろうと浴槽に水に近いぬるま湯をひたひた溜めました。浮かべるオモチャも気の利いた物などありませんでしたが、丸裸になった3歳の長男は、ただただ、それだけでも身悶えるほど楽しいらしく、膝下までの湯の中でキャッキャと喜んでおりました。何かの拍子に彼を抱き上げた時、ふと私は感じたのです。(当たり前の事ですが)赤ちゃんとは違う、そして男の子特有の逞しい体。薄い皮膚に覆われた骨組みの確かな質感。身をのけぞらせる時の、張り詰めた筋肉のしなり。

 ああ、子供は夏にこそ、美しくあるんだなあ、と。

 きっかけがあると、注目してこなかった物に関してもずっと感慨を持って接する気持ちにもなってきます。

 「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」

 百人一首持統天皇の御歌にも、実感をこめて「そうだよなあ、そんな瑞々しい季節に移り変わったのだなあ」と遠くの青々とした山並みを眺めたい気持ちにさせられる思いであります。それまでの私ですか? それはそれは不敬の極みですよ。「春が来て夏が来た、香具山に真っ白な衣を干す季節である頃であるなあ。←だから、何?」なんてね。

 「夏は夜 父を迎える 水甘き」

 厚かましくも拙句をもう一首。これも夏の頃にひねったものです。

 父を亡くしてから2度目のお盆の時のものでしたか。激情的な哀しみからはいくらか解放された頃でした。日本人には、古く、人の魂と蛍の光を結び付ける感性があったようです。有名な所では『枕草子』の「はるはあけぼの」から始まるところの「なつはよる」の箇所ですかね。「夏は夜がいいのよね、月が出てる時は超いい感じ。暗闇だって雰囲気あるじゃない。蛍がいっぱい飛んでるのも素敵だし、一匹、二匹ってかすかに光りながら飛び巡るのも私は好きよ?」という一部分です(かなりの意訳ですが、何か問題でも?)。学生の頃に教科書で見かけたのを思い出しておりました。技術的には「※本歌取り」に当たります。※すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧。しかしながら蛍の頃というのでしたら現代では梅雨入り前の蒸し暑い風の無い時分です。お盆の頃とは少しズレはしているんです、ネタばらしすると、ですね。

 様々にこう夏を思い描くに、私の中では確実に季節の有り様は移り変わって来ました。受け皿が変われば、水の形も変わっていく。そういうことなのかも知れないと思う今です。

 昨日の朝、早朝に寝床を抜け出して台所に立ち、湯を沸かしておりました。台所と一続きのリビングのカーテンを開け放ち、白々と明るんで行く空を見上げました。昇り切らない太陽は、東の方角でふくよかに輝き始め、夜露に濡れた木々の若葉がゆるゆる風にそよいでおりました。また一日が明けていく風景の中、夜明けの刻を告げるようなホトトギズの軽やかなさえずり。野太くもなく、甲高くもなく、優しい汽笛を思わせる確かな一声。ぱっと全部が温かい色調に整えられて、理由もなしにもうそれこそ無担保に、新しい一日が良い日としての保証を与えられるような、染み入るような美しい声でした。

 姿も見えぬ夏の使者に、無邪気に心躍らされて朝が動き出す。小さな小さな喜びです。

 「卯の花の 匂う垣根に ホトトギス はやも来啼きて 忍び音漏らす 夏は来ぬ」

 愛おしい季節が訪れました。懐かしさも、かぐわしさも、そしてほんの少しの煩わしさも混在した、恵み溢れる夏が、始まります。