あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

ブレイクします?

 大きくチェーンを広げるカフェが、学生やサラリーマンの「自習室」として運営されているのを最近よく見かけるようになりました。店舗の意図はそこには恐らくないのでしょうけれど、長くテーブルを占拠する学習者に、一般の来店者である私は肩身が狭い想いをする事が度々あります。しばしば幼い子供連れであると、甲高い子供達の声に余計に配慮しなければなりません。ゆっくりとコーヒーブレイクを楽しむ方々に対してであるのなら、それも納得がいくのですが、そこを学習机代わりに独占する方々に、何故、白い目で見られ、咳払いで牽制されなければならないのかが、未だに腑に落ちない私であります。心が狭量で申し訳ないと思います。とは言え、そもそもカフェとはそういうエリアであるのかしら、と、小首を傾げながら大急ぎで店を退出するのでした。

 殊更のバカ騒ぎはどの飲食店でも歓迎はされないでしょう。けれども、カフェ文化が発達した欧米ではカフェは憩いの場であるケースが主流です。親しい人との歓談に興じたり、美味な軽食を間に挟んで旅行のプラン作りを楽しんだり、そこで交わされるおしゃべりは時に華やかで、時に微笑ましくても構わないと思うのです。であるにも関わらず「ボサノバが流れる図書館の閲覧室」と言った様な体でズラリと自習者が頭を揃えているなんて。

 妊娠中や産褥期に長くカフェから遠ざかっていたので、その間に何の変革が起こったのかは分からないのですが、しばらくぶりに子連れで主人と共に訪れたカフェは、すっかり様変わりしてしまったかのようでした。ジュースを注文した長男は席に着くなり子供らしくはしゃぎ、少し高い声が出てしまいました。途端に、すぐそばの学生が(イヤホンで耳を塞いでいたのにも関わらず)上目遣いにこちらをチラリ。気配に気付いたのは主人の方で、子供達にサッサとジュースを飲ませてから私へ店から出るように促して来ました。来るんじゃ無かったなあと後から思いましたけれど、あのピリピリとした緊張感漂う客席は一体何だったのだろうとモヤモヤしました。ショートサイズのコーヒー一杯で、座り心地の良いソファで、静かな空間で、空調の利いた店内で、ほぼ閉店まで無制限に勉強にいそしむ事が出来るのは、さぞ快適な事だろうと思います。昨今では、長居する一部の客層へ注意喚起をする店舗も出て来たようですが、まだまだこれも強制力が働かない以上、どうしても馬耳東風の趣きではあります。

 先日出勤途中に持ち返りのラテを頼んで早々に店を出ました。時間が無かったというのが大きな理由でしたが、(行儀は良くないですけれど)自分のペースで歩き飲みした方がよっぽど気楽に感じます。憩う為に立ち寄ったコーヒーショップで、変な緊張感を強いられるのは本末転倒ですから。

 話は変わりますが。

 「EXCELSIOR CAFF●」のコーヒーが、美味しく感じられるようになっていた自分に、いささかの驚きを覚えました。のどごしが良く思えたというか、身体に無理なく行き渡る感覚になったのです。私独自の感じ方なので、解りにくいかとは思いますが言うなれば「経口補水液を含んだ時のように、一口ごとに全身に染みこむ感じ」です。大丈夫です、私の雑記帳なので、私が理解出来ればオッケーです。

 それまで私は、足しげく通う大手カフェチェーンと言えば「STARBUCK●」でした。街歩きの休憩に立ち寄る決まったルートの一つでしたし、会計用のカードも作っていました。けれども「それ」は唐突に訪れたんですよね。いつものようにグランデサイズ(約470ml)のラテを注文しました。ぬるめに作っていただいて、それをゴクゴク飲むのが私のスタイルでしたのでそうしました。が、その日に限ってどうしたのか、飲みきれなかったのです。体調が悪かった訳でも、気分が滅入っていた訳でも、お腹が一杯だった訳でもなかったのに、です。急に「重い」と感じてしまったんですよね。半分も飲みきれませんでした。

 それ以来です。「●TARBUCKS」から足が遠のいてしまいました。

 思い当たる理由はないのですが、想像するに、きっと私の身体が切り替わる時期だったのかも知れません。いくらか精神的な話の部類であるかも知れませんが、平たく言えば、年を取ったと言う事でしょうか。手に持ったグランデサイズのラテを「焦げ臭い」と思ってしまったのでした。濃く抽出した、エスプレッソベースのラテが芳しいコーヒーとしてでなくただの「苦い汁」であると、私の味覚が判断してしまったのですね。

 「身体の転換期」と言うのは私の場合、味覚に現れる事が多いです。ストレスを受けた時も、そう。普段は美味しいと感じていた物を、味気ないと思ったり、パサついた食感に思ったり、しょっぱく思ったり、色々です。

 時間が流れる中では、周囲が変化するのと同時に自分自身にも変化が起きると言う可能性を含んでいるのですよね。当たり前です、身体中の37兆個の細胞(60兆個という説は近頃、更新されたようです)だとて、日々、発生消滅を繰り返しているのですから、人そのものが変容していくのは、道理です。

 カフェの姿も変わります。私の味覚も変わります。自分の脳みそだけが、それに追いついて来ないだけで、けれどもいずれはその脳みそも最新のデータをインストールして頑張っていきます。急激な様変わりに付いていけない自分も、きっと、これはこれで「新しい自分」であるのかも知れません。そういう姿の、新しい自分。

 実は、この記事は昨日の夕方で一時中断していた記事なんです。今、続きを子供達が起き出して来る前の早朝に書いています。現在、朝、6時。レースカーテンの向こう側はすっかり朝の日差しです。昨日は雨降りでしたので、朝の空気はしっとりと濡れています。鳥のさえずりが聞こえます。静かなリビングです。

 ああ、美味しいコーヒーが飲みたくなってきました。

 変わりゆく私も、やっぱり美味しい物には目が無いし、古くなりつつある身体も頭もちゃんと毎日を豊かに味わって生きているんですよね。