あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

発作的創作意欲

 人によってはBGMから絵を起したり、創作物を造作したりする時があるでしょう。

 例えば、『ガブリエルのオーボエ』という曲が、好きなのですが、これを聞きながら、私が即興で文章を書いたとしたら、というので、今日は曲を流しながらイメージするものを書いてみました。普段は静かな場所でしか集中出来ないので、滅多にしない事ですが、こういうのも切り口としては面白いのかも知れないと思いましたので。

 

↓この曲をかけながら。

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 彼女の差し伸べた手の平の上に、今、生まれようとする陽の光が眩しい水面の揺らめきを纏って輝いていた。吹き渡る風は雄々しい竜になり、山の肌を撫で、突き抜ける空の蒼へと羽ばたいていく。

 草原に満ちる春の色彩はうららかな温かさに塗り替えられ、一つ一つがつぶさにも区切られず、燐光を放ち、輪郭をにじませている。あわあわとして尊く、親しみ深く触れ難い。

 野に降り立った人ならぬ者のように、彼女は翼の形に広げた細い腕でゆるやかな半円を描く。立ち尽す私を振り返り、額に、頬に、唇に、祝福を述べる、人ならぬいと高き所に住まう者達の表情を形どって、彼女は微笑んだ。

 自由と言う、その不安で、愛おしいわだかまりある結び目の上に立ち、私達は無言で嵐の後を見つめている。荒廃した街、崩れ落ちた城壁、もう響き渡る事の無い教会の鐘塔。我々を訪れた厄災の激しさに、すでに流す涙は涸れ果ててしまった。

 いや、二度と、この眼に、光が甦る事は無いと思い込んでいた。

 風に煽られたブルネットの髪を恥ずかしそうに厭いながら、彼女は少し首を傾げて言った。

 「どこへ行きましょうか」

 どこへ。

 「ええ、どこへ向かって私達はこれから歩いて行けばいいかしら」

 どこへ。

 薄紅色の唇に美しい弧を描かせて、彼女はただ、私を真っ直ぐに見つめている。

 耳のすぐそばで湿り気を帯びた風が、唸りを立てて通り過ぎる。

 私は、どこかへ行く事を許されるのだろうか。

 小高い丘の頂から彼女は一歩を踏み出す。彼女の足元の草花が一瞬にして瑞々しい香気を放つ。

 「ねえ」

 彼女の影が、大きな翼をはためかせて、見上げる私を優しく抱き締めた。

 「私達は、大丈夫、どこへでも行けるわ」

 もう、二度と、この眼に枯れた涙が甦る事は無いと、私は。

 もう二度と。

 「私達は、自由よ」

 頬を伝う、灼熱の雫に、私はむせび、胸は潰れ、この喉はあらん限りの叫び声を上げていた。張り裂けそうになる胸板に拳を押し付け、私は、嗚咽を漏らし続けた。

 一本の糸が、光の中でプツリと音を立てて切れたのが分かった。

 堰き止めていた哀しみの溶岩が、子供のようにしゃくりあげる私の全身を焼いて吹き出した。許される事の安心感に、解き放たれる事の喜びに、言葉にならぬ言葉を吐き出して、泣き崩れた。

 天を黄金に染め上げる太陽が、煮えた鋼のように東の空で産声を上げた。

 

 ……とか。

 映画音楽や、果てはアニメの挿入曲でもそうですが、音響の効果というのは絶大である気がします。(ブログ等の執筆)作業をしながら私があえて曲をかけたりしないのは、意識が余りにもそちらに引っ張られるからです。理想の作業場所は図書館の閲覧室なのですが、作家でも何でもない私には当然、そのような素晴らしい環境は割り当てられるはずもありません。せいぜい、子供が寝静まった後に、あるいは仕事の昼休憩に、または、予定より早く帰宅して余暇が出来た時にいそいそとパソコンに向かうだけです。それでも、ちょくちょく夜中に、寝かし付けたはずの小僧共がウニャウニャ起き出してくるので、ままならない我が身であります。

 ともあれ、それも含めて、我が執筆活動であるのですから、もう、苦笑するしかありませんよね。

 

 創作欲は無性に高まります、ふいに。「心の生理」みたいなモノなのかもしれません。人それぞれ、今日はこれがしたい気分なんだよ、というのがありますよね。いわゆる、アレです。

 で、前回の「心の生理」の時には、物凄く熱中してこういうのも書きました。

 「どうしたんだい、私、話なら聞くよ?」と自分自身に言ってやりたいような心理状況なんだと思うんですよね、そういう時ってのは。

 

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