夏の夕暮れ、母、想ふ。
花の季節も月の季節も、それぞれに心が引かれて私は好きなのですが、息子を2人も授かってからは、暑い夏にも親しみを持つようになりました。短い袖からはみ出した腕の表面を、融けた蝋のように濃度を持った鋭い陽射しが滑り落ちていきます。梅雨が明けて、もうそれこそ馬鹿正直な朝日がチリチリと昇り始めて手当たり次第に景色を焦がして行くので、幼い子供の手を引いた私は逃げ遅れてまた、白く照らされた灼熱の道をひたすらにいずこへかと急ぎ歩きます。
日が長くなり、保育園から帰宅してもまだ周囲は明るく、長男は容易に部屋へ戻りたがりません。着替えが入ったリュックだけを玄関先に置いて、日が沈み切るまでの少しの時間を自転車での散策に費やそうと私に言い募って来ます。夕飯作りも中途半端、手つかずの片付けも気に掛かる私ですが、これも一時の事と彼の自転車遊びに付き合います。保育園の最終年に上がり、長男が買い与えられた子供用自転車。ついこの間までブレーキをかける事さえ覚束なかったというのに、昨日の夕方には長い下り坂を悠々と一人で降りられるようにまでなりました。まだ急ブレーキであったり、ハンドルさばきがフラフラしていたり目が離せないのではありますが、一つ一つのステップを彼なりに着実に登って行っている様子は我が子ながら頼もしくもあります。
生意気な口を利く彼の世界にはそれでも未だに「おばけの国」は存在していて、日が陰って辺りが暗くなると自転車練習中でも気がそぞろになり、さっさと元来た道を戻る為のハンドルを切り始めます。彼の見る景色から、いつかおばけがいなくなってしまう日は必ず来るのでしょうけれど、身近にあっていつも隣に住んでいるような不思議がいずれ消滅してしまうのだとしたら、それはそれで少々残念な気がしないでもありません。
蒸すような熱い風が、大きな手を広げて豪快に駆け抜けていきます。撫で上げられた雑木林や街路樹が、びっしりと茂った葉という葉を存分に打ち鳴らすので、突風の吹く道はあらゆる乾いた音の洪水です。私と長男とはそれぞれの自転車に跨り、互いの言葉を何度も訊き返し、聞き逃し、景色を塗り潰す葉擦れの音に紛れながら夏の夕暮れを共に分かち合います。
思い出はいつも断片的で、私の中にある印象的な出来事は、いつも程よい額縁に飾られた絵のような物であります。思い出す鮮やかな景色の前後はデッサンや習作のように線画や薄墨や故意の塗り残しで始終しているのです。切り取られた名画ばかりであるので、もっと他の事も思い出せたらいいのに、と思うのですが記憶は自分が考えている程には当てにならないもののようです。
こうして息子と過ごす夏の夕暮れも、いつかは丁寧にくるまれて上品な額縁にピッタリ合うよう切り取られてしまうんでしょうね。こんなに大ざっぱで、こんなに荒々しくて、こんなに遺憾なく生々しい毎日であるのに、です。ペダルを漕ぎ出す時の不安定な感じとか、風に煽られて大きくのけ反った瞬間の事とか、でもその全部を乗り越えて確実に一歩を漕いでいく力強い背中とか。昨日まで出来なかった課題が、今日は過去の話になって、未来の課題がまた、明日のやる気を育んで行く事。
長くなった日の下で、飽きず繰り返す他愛ない彼との自転車遊びを、些末な枝葉を取り払った生け花を眺めるように、ぼんやりと思い出す事もあるのでしょうか。今、見ている、彼の泣き顔も、今、感じている夕暮れの爽やかさも、今、胸に抱いている温かい感情も、もうその頃には思い出せないほど「些細なモノ」として処理されているかも知れません。思い出は、悪い意味ではなくて余りにも都合が良い物ですから。
どこにでも続く、夏の道を、彼と二人、自転車で走ります。
いつか、独りで走っていく為の練習を、彼は懸命に続けるのです。
誰に見守られる事もなく、ペダルを踏みしめていく日が来た時に、ふと、彼もこんな時間を過ごした事を懐かしく振り返ってくれる事があるのでしょうか。原色で彩られたこの風景を、胸に蘇らせる事があるのでしょうか。
あやふやな物が、もう全て見事に拭い取られてしまった輝くばかりの夏。
身を投げ出したくなるばかりに、愛おしい夏。