あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

神鳴る、不徳ある民に。

 曇り空は、嫌いではありません。

 霞がたなびく空も、鱗雲が覆う空も、物語のようなものがそこにあるようで、私にはむしろ表情豊かに思えるのです。

 中でも夏の空が存在感の豊かな雲に遮られる様は、とても神秘的で妙味に溢れています。邪魔な物を吹き払うように吹く力強い風に、鳥の囀りも、蝉の歌も、滞った人の流れも、じりじりと滲んでた首筋の汗までもが一気に押しのけられて、何だか清々しい気持ちになるのです。書きなぐったノートのページを、あっけらかんと破り捨ててしまうそういう爽快感というのでしょうか。

 雨の予感が忍び寄ってくるのも良いです。

 水の鏡がそこにあるように、時折、きらびやかな空が覗くのも良い。

 巻き上げられた砂埃にちょっと顔をしかめながら、さっき相手に言い過ぎてしまった事を一人懺悔するのにもお誂え向き。

 雨の予兆のような湿り気の中で、殊更、足早にどこかへ向かう自分がいます。別にどこへでも行く事が出来ますし、かと言って、そこへ急いだところで何が待っている訳でもありません。それでも、歩幅は大きくなり、胸板は風を切って進むのです。そうしなくてはならないような気がするのです、そうしなくてはならない理由などないのに、です。

 心に引っかかる物を、曇り空は連れて来ます。

 咎め(とがめ)立てする何かがあるわけではないのに、それほど疚しく(やましく)ない焦燥感というのでしょうか、そう、例えば義務感のような使命感のようなものが私の気持ちに蓋をしにやってくる、そういった面倒な感覚なのです。塞がれている、というよりも、引っ張られているというのに近いです。かえってウキウキとほだされているみたいに、指先までが温かいのです。

 樹々が茂る神社の参道を通り抜ける時も、同じような感覚に触れる事があります。流れの早い浅瀬に素足を浸した時にも似たような気持ちになります。決して、澱んだ危険がそこにあるわけではなくて、ただ、事象として私を取り囲んでいるに過ぎない、私とは隣人でありながら隔離されたものが泰然として存在しているにだけのモノ。触れてはならない、近寄ってはならない、そういう一種の「禁忌」のようなものは、こちら側が勝手に設けるものです。そこには明確には出来ないそれでいながら一律の法則が秘められているのだと思うのですが、丁寧に桐箱に収められ押し包まれているので、凡人には一見して言い伝えやら戒めやらといった具合に捉えられるのでしょうけれども。

 たとえ、そこまで入り組んだ物でないにしても、閉ざされた物を押し開けようとする折には、呵責をかなぐり捨てる掛け声のような、呼吸が必要になると思います。微々たる勇気が必要になります。そのわずかばかりの心意気を、持とうか、持つまいか、逡巡しなくてはならない気持ちにさせられる閉ざされた空間が、恐らくは、曇り空に共通する何かでないかと、ちょっと、私は気付いたりしたのです。

 夏の雲は、頑強で精力的で、であるのに、研いだ厳かさを兼ね備えています。押し黙ったまま涙をこぼしている、優しい人の大きな背中のようです。

 激しい雨を想像させる薄暗い昼間に、急ぎ足で横断歩道を横切る人波と、天を見上げる私と、ゆっくりと表情を変化させる重々しい雲と、鳴こうか、鳴くまいか、大きな杉の幹で声を震わせる油蝉と。

 羽化したばかりの初々しい夏が、どこかもどかしく抜け殻の衣に煩わされているような、生温い呼吸を迸らせて(ほとばしらせて)、渦を巻きます。熱病に惑わされた巨大な竜の姿にも似て。

 ああ、そこだけ、空が抜け落ちたように、真っ白な入道雲が伸び上って輝いています。あの真下はきっと、身を置くのも恐ろしい様な雨と雷に満たされているのでしょう。

 流れて行く厚い雲の峰。やがて、風があれを連れて来るのでしょうか。

 どこかへ導かれてしまいそうで、私の中の野生がざわついています。

 曇り空は、嫌いではありません。

 手放しそうになる現実的な物を、きちんと私というあやふやな箱に閉じ込めにきてくれる、厳めしくも慈悲深い番人であるからでしょう。