あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

いろは、にほへと。

 書道を始めたいとずっと思っています。正確には「再開したい」でしょうか。手習いしていたのは小学生の頃。週3度通っていた教室の師範は「滝本先生」と言います。普段は消防署勤務で夕方から夜にかけて間借りしている住宅の一室を使用し生徒指導に当たられていました。今、思い返してみるに趣味の延長線上のご教授であったのでしょう。汚れ防止のフェルトを敷き詰めた教室で、何本もの座卓が並べられた中、騒ぎたい盛りの放課後の子供達が騒々しく友達と私語をしながら書道をしているのです。正座こそは必須でありましたけれど、その日のノルマのようなものも曖昧で気が済むまで居残りするのも自由でした。友達同士であまりに盛り上がり過ぎては、時々、巡回してくる滝本先生に叱られたりして。書道への「本気度」ごとに、開け放たれた続きの間の3部屋が何となくメンバー固定されている教室で、古い言い方をすれば「寺子屋」と言う呼び名が一番しっくりくる様相であったと思います。

 中学生の時に大阪から和歌山に転居した私の家族。それ以来、お会いする事もなくなってしまったのですが、もし先生がご健在なら70代か80代。懐かしさがこみ上げてきます。

 職場ではほとんど手書きの文章を書く折はありません。日常生活でもコンスタントに自筆するのは子供達の連絡帳くらいです。郵便受けに届く書簡も、ほとんどがワープロ打ちのものです。確かに、自分の字に頼らなくても暮らしに何の不自由も感じません。メール、ライン、電話。手書きの文章などは、何を今更、という世の風潮でしょうし、履歴書や届け出の類も「詳しくはウェブのフォームから」とか「A4サイズで打ち出した物に限る」といった具合です。

 だからこそですね。前触れもなく届いた暑中見舞いや、返礼の手紙の温かい筆跡が殊の外嬉しく感じるのは。字は人となり。人の書いた文字というのは、ある種、絵のようだと思うのです。払いや止めの美しい動きであったり、文字と文字の空間であったり、文字同士の繋がりであったり、それらが全体に広がる様子であったり。書き手のセンス、たぶん、そう言った事が手書きの文面に現れてくるのが「趣」を形作るのだ、と。一文字、一文字、記していく筆者の心底が、刻まれるようにそこに浮かび上がってくる様。デジタルの画面を見る時、ついついフォントに興味が引かれるのはそれが私の根源にあるからなのでしょうね。奥ゆかしい形に、ふと魅了されて。

 

 

(1000文字雑記)