あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

夜の中ほど。

 主人が不在の夜。子供2人と私とで、質素な晩御飯を終え、バスタブに半分程の湯を張ったお風呂に長々と入り、ケタケタと自堕落に笑いながら歯磨きを済ませ、温かい毛布にくるまって、眠りに落ちるまでのわずかな時間を思いつくままの童謡を口ずさんで寝転んでいる、この気怠い一連。大きく寝返りを打つ、男の子達の固い身体、熱い寝息。ただ、健やかな、濃密な暗がりに我が子を見下ろして、ぬくもった寝床を抜け出る母。やり残した洗濯物を洗濯機に放り込み、回り終わるまでのいくばくかの時間を、奔放に浪費するのです。

 まるで悩みなどないような、さばさばとした振る舞いをして日中をやり過ごし、一人分の原動力になり社会を回す自分。肩書など特に華々しい物はないのですけれど、上司は私の名前を呼び、同僚は時に他愛のない話題の輪に私を招き入れ、また世間は気ままな私の昼休憩をも保証してくれ、いわゆる過保護にも放任にもさらしてくれる丁度良い他人行儀の中で私は生きております。

 居場所を探して、誰彼無しに荒々しいクレームをぶつけていたのは、ちょっと昔の話になりました。寂しくても、その寂しさのごまかし方を知らなかった頃は、確かに、厄介な伝染病を抱えているかのように不機嫌を至る所にばら撒いていた事でしょう。今でも、その頃は知らなかった、均衡を守るちょっとしたコツを心得ているだけで、実のところ本質という物は変わっていないのかも知れません。溜まってしまったモヤモヤを可燃ごみにするか、不燃ごみとして持て余してしまうかの違いなんですよね。結局は、焼却炉の処理能力や、キャパシティーの問題だと思います。大人になりました、なんて、到達ラインが定められている訳でもなく、客観的な判断を委ねる機関があるわけでもなく、せいぜいが、身近な人の主観に委ねられるもので。

 両親が、親戚の通夜か何かで、真夜中に留守をした事がありました。まだ小学生くらいだった私と弟は、親の不在という特別な夜を二人切りで過ごしました。不安で眠れないのでなく、特別なミッションを行う優秀な戦士になったような気になって、勇ましくも幼い二人が身を寄せ合って布団にもぐり込んだのを憶えています。頭から被った布団の中で、クスクス、キャッキャと、変な興奮でパンパンに膨らみながら、ちょっとした使命感を持って甘えていた思い出の中の私達。

 夜のほとりで静かな部屋で、一人、そんな事をうつらうつらと。

 

(1000文字雑記)