あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

シーソー

 立ち止まらない、と決意した時の女性は凛然として強いのだと言います。常に複数の作業と思考を行える女性としての特性がそうさせるのか、あるいは、逆に一つを切り離さないと次に邁進出来ない不器用さがそうさせるのかは解りません。客観的に見て、これを「強さ」と名付ける事があるのだとすれば、次々と深い谷を飛び越えて行く燕のように颯爽とした潔さが人には感動的に映るからだと思われます。

 しかしながら、渦中にいる女性本人は必ずしも軽快に旅を続けているとは限りません。思わぬ場所で泥濘に足を取られもしますし、立ちはだかる課題に怖気づく事もあります。何食わぬ顔で物事に対峙しているかに見えて、実のところ、背筋を這い登って来る震えと熾烈な格闘を繰り返している時もあるのです。

 涙を見せる、声を上げる、訴える、溜息を吐く。あからさまになる様々な彼女達の事象はそれこそ「表面的現象」に過ぎず、そこに及び至るまでは、神経も肉体も劇的な変動を通過してきているに違いありません。コロコロと変わる女心を、猫の眼や秋の空模様に例える時、ちょっとした皮肉っぽい感情が我々の間を行き来する事でしょう。けれども、そうした野次馬的議題から漂う嘲笑や憐憫の気配で捉えきれない重々しさが、きっと彼女達の根底にはあると思います。

 東洋には、陰陽思想というのがあります。男性を「陽」と仮定した時、対極に位置する、あるいはそれに寄り添うように佇立しているのが「陰」である女性だそうです。陽の輝きは、絶対的なものではなく、陰あってこその相対的なもの、とすれば、男性優位という主義は、遠望してみるとひどく儚げな思想であるのかも知れませんね。勿論、男性から発せられる膨大なエネルギー無しに世界を回転させる事は出来ません。ですが、このエネルギーを拡大する為に不可欠であるのが、陰の要素というのは面白い話ではあります。時々、光と影の関係性を哲学的に論じているメディアに幾つも出会いますが、論調こそ違え、光あっての影、影あっての光、と終着点が同じであるのは本当に興味深い事であります。

 宗教的な思想を舌先で転がしている訳ではありません。とは、言うものの、人の生き様、世界の成り立ちは、一方向にドンドン拡大していくものではなくて、何か私達の計り知れない「ひとまとまり」へ集約されていくルールでもあるのじゃないかと、思うのです。子供が育つ、私が老いる。巡る等価交換。

 

(1000文字雑記)