500文字ブログ:最期の激流
「水裂いて今生(こんじょう)の鮭のぼりけり」(大串章)。
目の前の激流を、傷付きながら懸命に身をよじり、登って行く多くの鮭達は、もう二度と元来た海へと生きて還る事は出来ないのです。子孫を繋ぐ為に突き動かされている鮭には、元々そんな悲壮感など皆無でしょう。むしろ、それを見送るこちら側こそ胸を詰まらせている無責任なロマンチストです。
懸命である姿を、健気であるとか、美しいとかもてはやすのは悠長な人間の仕事で、厳しい自然を生きる彼等には、とんと無縁な遊興です。それでも、たまらず心惹かれてしまうのは、1ミリの緩みもない、寸分の怠惰もそぎ落とした野生の厳格さに、どこか神々しいモノを感じるからなのでしょうね。
身が引き締まる、とは言いますが、ふとした気のゆるみへ、隙間風が吹き込むのに似て、私達は時々、一途に進んでいく他者に感動を覚える事があります。憂鬱な顔をして溜息を吐いている人の側でいるよりも、触れれば燃え盛る火が飛んでくるような活気ある人を眺めていたいと思うのは、そうした自分自身の気のゆるみを一瞬で正して欲しいとどこかで願ってでもいるからなのでしょう。
意気地なしだけれども甘ったれていたくないのです。