あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

limited

踏み切った雲のはしを、もう振り返らずに、つむじ風を掴んで、駆け上がる。

一人分にさえ足りない翼、紺色の景色を叩いて走る、追い付けない貴方と知っている、巻き戻せないぬるい幸福と知っている。

もう、「自分」には邪魔されない。もう、「自分」には邪魔させない。

貴方を知ってしまった。「貴方のいない時間」を知ってしまった。

少し遅れて笑ったあの意味は何?

言葉を探して、やっぱり止めて、しまい忘れた笑顔だけを見せた貴方。

ありのままを私に残すのは、残酷。ありのままで私を包むのは、残酷。

たどりそこねた優しい「お話」を、曖昧な「確かさ」に戻して繋ぎ止める瞬間、眉間に少し力を入れるの、泣き出しそうになるから。気付かない振りをしてくれたのかな、元通りに演じてくれたのかな、そう、だって貴方の思いやりはいつだって綺麗。

両手に掴んだつむじ風に連れ去られ、私は立ち止まれないまま。

貴方の今日を私に下さい。

貴方の今。貴方の笑顔の先。

 

 

 

 

 

(夏のポエム的な何か(笑))

不純に、頑張れ!

褒めてもらいたくて頑張る、それは、不純な動機だろうか。人に頑張らされてるのでは消化しきれない物が残るだろうが、自分が前進する推進力の一つに、大切な人からの「頑張れ」というのはアリだと思う。

良い結果に向かっていくのに、動機の良し悪しを精査してそれを論議するのは私にとってとても回りくどい。では、逆に、望ましい動機は何だろう。誰かの力になる自分を作り上げるための、迷いさえなければ「そうなろうとする妥当な理由」は、エネルギーにさえなれば十分だと思う。

子供を見れば解る。

達成感のために彼等は確かに頑張っている。1番を取るため、駆けっこに必死になるのも、クラス発表で元気よく手を挙げるのも、大きな声で歌を歌おうとするのも、子供の「頑張る」はとても自発的。だけれども、彼等の情熱の出発点は、大切な人からの「頑張れ」だ。

大切な人を喜ばせたい。その一心に、その純真さに、あえて形など無くて良い。

声援を送るこちらも。

「できあがってきたなあ」と思います。

「僕は寂しいから優しくしてくれ」と意思表示できる次男は本当に強い。笑ってはいけないが、彼が両手を広げて泣き顔で私の助けを待っている姿は、誠に人として逞しい。何でも一人でこなせてしまう人が強いとは考えない。立ち位置をきちんと把握して、できるだけの事をした上で上手に相手の力を引き出せる人の方が、上位にあるのだろうと思っている。

勿論、まだ、次男は3歳で、思うままに日本語を使いこなしているわけではない。拙いながらも涙声で「独りになっちゃう、(悲しくて)泣いちゃう」と訴えつつ、私の助けを待つ。これが逞しいと言わずして何と言おうか。甘えるのでなく、頼る、その術を少しずつ、彼は習得している最中であるのだ。

ある時には、喧嘩仲裁のため、弱い者の「お抱え素浪人」みたいな事も保育園ではしているらしい。おもちゃを捕られて困っている友達のために、単身、相手である強者へ「代理」戦士として向かっていくという。

彼らしい。

栗匂う闇

蛍をよけながら夜の田んぼ道を歩くなどは、東京郊外に生まれた我が子には未経験の事だ。熱の無い黄緑色の明滅が、風のない夜闇の中に点と線になって行き交う。梢に止まって動かない光、川面に争う光、危なっかしく地面に降りる光、気ままに見えるがそれぞれに懸命な光であるのだ。

蛍を物珍しく恋しく思うようになったのはいつからか。栗の花が高く匂うこの頃、今にも空が崩れて降り出しそうな夕暮れから明方までを、蛍はポヤポヤ、夜の中を無尽に飛ぶ。感傷的になるのは本当に日本人の勝手で、気楽に綺麗な事をほめたたえれば良いものを、そこへ亡き人の魂やら、想い人への情念やらを詩的に結び付けたがる。それも情緒、趣きと、縁側に酒肴を並べる人達もいる。

子供がかざす団扇に煽られ、可哀相な虫は、遠くに吹き飛ばされる。無慈悲な事をするでない、と年寄りが幼い人をたしなめる。自分が起こす風で、右往左往する光が面白く、子は無邪気な夜更かしをする。

案外というか、意外というか、でもよく考えてみれば取り扱い説明書も「手作り」なんですよね。

小学校で国語の授業で「句読点の打ち方」を習った。長い文章へ読者が読み下しやすい位置に点や丸を打つと教えられたと思う。禁止事項や、より良い記入方法はあるものの、大約は分の切れ目を視覚的に示す役割がある、との事である。

句読点をどこに打つか。これはもう記述者のセンスだ。音声で伝わる会話ではないので、抑揚で文の区切りが判然とする、事は、書き言葉には少ない。句読点もなく、ひたすら文字を続けると、最初は内容が把握できていた文章も、途中で思考が迷子になる。

この、一点、一丸を入れたり、省いたり、そんな事を机に向かって一日中している仕事もある。私が関わる「校正」という部署がそうなのであるが、とにかく地味なのだ。地味で単純なのに、機械には任せられないときた。人が読むものは何故か人がまだまだ手を加えないと「読めるもの」にならない。何気なく開いた小説の文面も、電化製品の取り扱い説明書も、契約書も「人」の眼が作る。