あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

風の前の……。

 「お母さんの方が先に死んじゃうからねえ」と告げた言葉に、5歳の長男はひどく驚いた様子で私を見返しました。「先に死んじゃうの?」と、疑り深い問いを発したまま何事か考えていた彼が、少しの間を置いた後言いました。「じゃあ、(お母さんは)小さくなって、お婆ちゃんとお爺ちゃんの所に行くんだね」。

 なんだ、もう、何となく知っているのか、と私はちょっと寂しい様な、安心したような気持ちになりました。勿論、人が死ぬという物理的な事までは思い至らないでしょう。彼が物心付く前に、彼の祖父である私の父は亡くなっていますが、彼が経験した最初の近親者の死もまだたったの1歳半の頃でしたから、記憶としてカウントするにはあまりにもお粗末な類である事でしょう。

 夜中の寝かし付けの時、どんな経緯でそんな流れになったのでしたか。お母さんは、いずれ、いなくなってしまうという、物凄く現実的な「おとぎ話」。

 私は40歳。君は5歳。この先、永遠にこの差は埋まらないのだと言う事。

 自分の母親の方が、先にこの世を去って行くという事象は当たり前の事でありますが、子供にとっては信じられない事の最もたる物であるのかも知れません。

 ああ、私は、いずれこの人と別れるんだな、と身に染みて解るのはいったいいつぐらいからなんでしょうね。私の場合は、結婚して実家を遠く離れてからであったと思います。帰省する度、目に見えて父や母が衰えていく姿を目撃するようになりました。言うまでも無く、私が実家を離れなかった頃にも老いは着実に彼等を訪れていました。ただ、見守り続けている朝顔の成長がひどく遅く感じられるのと同じで、日々の微細な変化は身近であればあるほど見逃しやすくなるものなのですね。遠方に嫁いで、毎日を忙しくしているうちに、父が病を得て入退院を繰り返すようになり、幼い長男を連れて入院中の彼を見舞った時、誰に経過を聞くまでもなく「この人と、私は、もう、お別れするのだ」と思い知りました。

 田舎に残る母は、この8月の末に白内障の手術をします。現代の医学では日帰り可能な手術であるらしいのですが、何しろ独り暮らしの為、大事をとって3日間の入院という事になりました。生活に大幅な滞りがないように、片目ずつの施術ですから9月にももう一度入院があります。母は今、父が逝った歳と同じ年齢に成りました。体力の面でも、精神面でも、不安要素が増えてきております。つい先日、電話口で白内障の手術を受ける旨の事を私へ打ち明けてくれました。けれども、その告白も以前に実家へ帰った時、すでに母本人の口から私へ告げられていた物でした。ですから、電話で報告を受ける私は「手術するんだよね、それ聞いてるよ」と返すと、電話の向こうの母はひどくびっくりしたような口調で「え、それ、誰に聞いたの」といぶかしそうにしておりました。「お母さんからだよ」と応えると「いつ?」と尋ねるので「この間、実家に戻った時」とだけ返事をしました。母はとても不思議そうに「そんな事言ったかしら」と口ごもってしまいました。

 怒りっぽくなり、愚痴っぽくなってしまった母は、本当に些細な事で涙ぐむようにもなりました。我慢強く、楽天家で、少し見栄っ張りであるけれども好奇心旺盛で朗らかであった母。遠く離れて住む私が、一輪の花を久し振りに眺めて様変わりするそれの姿を懐かしんでいると彼女に知れたなら、きっと彼女は凄まじい剣幕で怒るに違いありません。私が感じる人の姿の移り変わりは、彼女にとっての非常識である事でしょう。それは彼女に限った事ではなくて、私にも必ず訪れる老いの姿であり、周囲の人が見る私は私自身が意識せぬままに着実に衰えを見せて行く事でありましょう。

 達観なんて出来ません。やはり、死ぬのは漠然と怖いです。経験した事がないですし、生涯にただ一度きりしかない事ですから。出産に感じていた不安感と非常に近い物かも知れません。我が身に起こり得る劇的な変化で、しかももしかしたら、とてつもない「痛み」と直結しているかも知れないとしたら、誰でも足が竦んでしまうのではないでしょうか。ただし、出産であれば「経験者」はいます。けれども死に関しては誰もが「未経験者」であるのです。未経験者が分かりもしない死後の世界や、臨終の景色について出来得る限り自分の納得できる形の安心感を得たいが為に、宗教や思想が必要になるのでしょう。

 「死」とせめぎ合いながら、この世に生まれて来た子供達。あらゆる超常的な出会いの果てに生を受けた息子。君がやって来た場所に、お母さんはいつか還るんだよ、それはまあ、すぐに、ではないけれどね。

 小さくなって小さくなって、君に見えない程、小さくなって、どこかに行ってしまうんだよなあ。

 私がこの世に誕生した時と、同じほどの恐怖と痛みと、後、願わくば、ほんのちょっとの安堵と希望があるなら、人一人の幕切れには程よい辻褄合わせではありますまいか。

 

48年前の赤ちゃんが、今、22年後を眺める。

 思い描く事は出来ても、空想を実現するには多くの困難が付きまといます。明日の自分が何を思っていて、誰の言葉に喜び、誰の振る舞いに傷付いているかなんて、解りません。24時間後の、しかも自分自身の事であるにも関わらず、確定でない事だらけで、断言出来ない事ばかりです。仮に自分が誰かの「波」に巻き込まれやすい立場や性格であったとしたなら、余計にそれらの不確定要素は膨張するでしょう。逆に、自分が誰かを巻き込みやすい立場、性格であったとしても自分の起したアクションによって周囲に湧き起こった波風から逆襲を受けるケースも想定出来ます。

 何も難しい話をしているのではありません。

 主人の話です。私の主人は48年前の今日、熊本県八代市で生を受けました。現在の彼は、私よりも20cm以上身長が高く、私の2倍以上の体重があり、私の5倍以上の給料を稼ぎ、私の1/10の時間で熟睡に落ちる特技を身に付けています。時に冷徹に思える程、合理的。時に怠惰に見える程、ON/OFFの切り替えがハッキリしています。ドライでシニカルで、短気。その人の誕生日を祝うのは、これで6度目になりました。

 他のご夫婦がそうばかりとは思いませんけれども、互いの将来や、子供達の心配事や、老後の生涯設計や、当面の課題について話し合う機会はそれぞれにあると思います。我が家では近い未来の青写真は、往々にして主人の頭の中にだけ描かれております。平たく言えば、私には漠然とした不安がある場合があっても、主人にとっては「想定内」の事ばかりなので彼は多少の事で動じたりはしません。頼もしいとか、安心感があるとか、私にはそういう心情よりも先に「こんな人間、いるんだ……」という驚きの方が強烈であります。付き合っている頃から、そうです。結婚してからも、そう。今の今に至るまで「生きる姿が何も変わらない」稀有な人であると。

 不条理な事に出くわした場合、彼はこれを力づくで壊しに出向いたりしません。腕を組んで、この不条理が誰かの手によって懐柔されていくのを眺めていたりもしません。それ相応の手段と鉄壁の理屈と、それから多少の熱量で順々に外堀を埋めに掛かってから、全力で本丸に攻め上るように説き伏せに掛かるのです。

 

(我が家の主人の人となり、参考までに以下)

akarinomori.hatenablog.com

akarinomori.hatenablog.com

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 彼の仕事ぶりであったり、彼の主義主張であったり、書き切れない程の物を彼に伴走しながら見て来たつもりでしたけれど、まだこの先も約20年、私はハラハラしながら見守り続ける事になるのでしょうか(何しろ、主人は70歳で生涯を閉じると決心していますので、48歳の彼の余命は22年)。

 もう、見極めてしまった将来を、そこに向かっていかにズレを少なくするよう微調整していくかが、もしかしたら目下の彼の目標であるかも知れません。

 「思い描く事は出来ても、空想を実現するには多くの困難」とつい考えがちであるのは、私が何の裏付けもなく、そして何の努力をする事もなくのっぺりとした毎日をのうのうと送っているからかも知れません。「これで良い」と自分を肯定するのは、やはり他人でなく自分自身です。「俺はこれで行く」と指針を決め、その自分に嘘を吐かない為にいかにすれば良いかを常に思考している主人は、ただ単に強引なのではなくて、ただ単に頑固なのではなくて、もしかしたらケタ外れの正直者であるのかも知れません。他人に嘘は通せても、結局、最後までごまかしきれないのは「自分」であるのですものね。一つの嘘を見逃せば、もう一つの嘘を見逃さなくてはならなくなります。一つ、二つ、三つ、と、見て見ぬフリを繰り返していけば、その内、感覚は麻痺してきます。膨れ上がった自分への不信感は、理想と現実との摩擦を引き起こします。板挟みになっても、それを笑い飛ばせるくらい図太く強靭であれば問題はないでしょう。けれども、多数の人々はそうではないでしょうから、悩みますし苦しい境地に陥るのだと思います。

 主人が、あえて頑なであるのはそうした負の要素を、はびこらせる前に一つずつ、根気強く摘み取って行く作業が、いかに自分の美徳を守る為に重要かを実感しているからに違いないと、私は思います。強いとか、図太いとか、信念があるとか、責任感が強いとか、見る方向によってはそれは長所(あるいは短所)に映る事があるでしょう。けれどもその揺るがし難い彼の「潔癖」は、長男らしい不器用さと細やかさに裏付けられている物でもあると思われます。

 彼が、彼の思い描く姿で生涯を全う出来た時、私は徐々に冷たくなっていく彼の手を握って彼に何と声を掛けることでしょうか。夫婦生活というもの、なかなか一筋縄でいかない手強い仕組みであると、まだたったの6年目でありますが、一端を垣間見た気分でいる今の私です。恐らく、これからも、順風満帆、平穏無事、とだけでは済みそうにはありません。人が人と繋がっていれば、違う意志同士の共存であるのですから、安楽なぬくもりだけでなく、避けて通りたい摩擦も味わう事でしょう。未来予想には疎い私にも、それだけは容易に想像が出来ます。

 それでも、なお、こうして「我が家」という一幅の絵物語を織り続けているのは、どうしてなのでしょうねえ。

 人がいて、人が暮らして、人と出会って、人が生まれて、人に成って、人として去って行く、当たり前で、殊更取り上げるのも馬鹿馬鹿しいほどありきたりの風景の中で、また残された人が、人として歩き、人と出会って、人が生まれて、人を育て。この日常の有り難さ。この些細な事の有り難さ。

 70歳の、主人の臨終の席で、誰が泣いていて、誰が怒っていて、誰が嘆いていて、誰が祈っているか、私にはまだとうてい図り知れません。

 だけれども、そこにもまた、穏やかな時間が流れていて、今日と同じく健やかな家族の姿があれば、去って行く人を見送る場所としてこれ以上に清らかな物は他になかろうと、私は思うのです。

 

 

アローハ、オエ。

 夏の雲は表情が豊かで、とても抒情的で好きです。買い物帰りの薄青い空に、逞しい入道雲がそびえ立っているのは、見応えがあって胸が高鳴るように思います。目の前に立ち塞がる巨大な雲の山脈は、膨らんだ裾を豪胆に引きずって、物凄い速さで私の頭上に迫ってきます。目が痛くなる程の眩しい白が、頂上付近で輝いているのに反し、決壊寸前の濁流を抱えた低層部分は、不機嫌な様相でゆっくりと蠢きながら空の青味を贅沢に食い潰してくるようなのです。

 「暑いなあ」とか「身体中がベタベタで気持ちが悪い」とか、とかく険しい顔に成りがちな周囲の人々を、更に無口にさせるような鬱陶しい肥大した雲。ムッチリ、嵩(かさ)を増しながら雨の気配を連れて来る積乱雲。

 蒸し込めるような7月の息苦しさと違い、8月は何か、こちらへ挑みかかって来るみたいな豪快さを感じます。空き地に生えた雑草さえ実に乱暴な有様を晒し、好き勝手に地面を埋めて自由に伸び広がっていくのです。日が陰れば、焼き切れるような暑さを耐え忍んでいたミンミンゼミやアブラゼミが狙いすましたごとくに、ワっと声を張り上げ始めます。けれんみなんて微塵も無い、薄っぺらい取り繕いの真似事さえ無い、色気の無い、真っすぐな灼熱が8月という月には根付いているように思うのです。

 ファッションに疎い私にも、夏にこそ利用したいアウターがあります。

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 パウスカート。ハワイの「フラ」(ダンスの意)を踊る際に、女性が身に付ける舞踏用のスカートです。原住民が使用する腰蓑を模した、ふんわりと膨らんだフォルムが特徴です。常夏の国らしい、色鮮やかなバリエーションが眼にも爽やか。時に奇抜にも映るデザインですが、中には落ち着いた雰囲気の物もありますので我々の日常使いにも合わせられます。純綿製が基本であるらしいですが、使い勝手の良さからポリエステル70%程度の生地が重宝されるとか。

 ウエストで穿く物というより、腰骨で穿くスカートの為、負担が軽くて動き易いです。しかも、3本ゴムや4本ゴムで締め付けが分散されているので、とにかく着用が楽チン。さすが常夏の国の名物と頷けるスグレモノなのです。

 私はこれに、無地や小柄の綿シャツや麻シャツを合わせて、私定番の「ハンチング」を被っております。

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 そしてパウスカートの利点のもう一つは、太ももやお尻周りに汗をかいても布地がまとわりついて来ない事、私にとってはこれに尽きます。通勤や子供の送り迎えの為、自転車を頻繁に利用する私にはスカートはやや不便。ですが、この快適さを無視出来ないので、ついついヘビロテになってしまうのですよね。改まった場所には勿論不向きですけれど、レジャーにも普段使いにも場所を選ばないのが有り難いです。動きの激しい子供相手だとそれは余計に顕著です。元々、踊りの為に誂えられたスカートであるのでアクティブな使用にこそ美しく見えるのも嬉しい。

 ジットリと燻されるように不愉快だった7月。それを潜り抜けて、遠慮のない陽射しで炙られる8月。身を竦ませて受け身で過ごしていた自分を反省してみて思いますが、あれこれ品を替え、工夫をしてみれば、夏も、存外、見応えのあるモノであるのだと気付くのです。寝苦しい時には寝具を思い切って取り換えてみましたし、行水を上手く取り入れてみたり、食べ物にアイディアを利かせたり。

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 でも、一番の改革は、自分自身の意識なのかも知れません。

 何しろ、5歳と1歳半の息子達が、どうにも夏が楽しくて仕方ないようなのです。今日はプールだ、散歩の途中にカブトムシを拾った、アイスクリームが美味しかった、明日は日曜日だ何して遊ぼう、お月様がまん丸だった、虫の声が聞こえる、猫じゃらしがいっぱい生えてた、自転車で坂道を下れるようになった、水に潜れるようになった、お母さんに内緒でお父さんとコンビニでお菓子買って来た、目白押しのスケジュールが、たった2カ月や3カ月程度しかない「夏」にこなさなければならないわけで、いちいちくたびれている場合ではないのです。

 暑い暑いと愚痴ばかりを口にしながら、空調の利いた部屋で一日中時間を潰していた記憶が私には全く残っていません。子供の頃の私にも、恐らく目白押しのスケジュールが、自分ルールのスケジュールがワンサカ盛り込まれていた事だろうと思います。

 ゆったりと、じんわりと流れていた夏らしい夏を、私は今更、我が子達となぞるように楽しんでいる最中なのだと最近気付きました。

「ぱれ部」活動日誌(『あかりの森’s bog』課外活動報告記):八景島シーパラダイス

 週末、子供に「日曜日、どこへ行きたい?」と尋ねるのが、この頃の我が家では定番になっています。「水族館に行きたい」と長男が嬉しそうに提案しますので、昨日は神奈川県の『八景島シーパラダイス』に家族で向かいました。

 高速道路も使用して、我が家からはほぼ2時間。江の島のように小さな離島を丸々テーマパークにしてあるシーパラダイスは25年周期のリニューアルを終えたばかりだとかで、折しも今年が一つの節目の年であったようです。

 台風12号が関東を通り過ぎて、その翌日の蒸し暑い曇天の日。車を専用駐車場に預けて、八景島への連絡橋を渡り、11時半に施設へ上陸。

 主人は来訪経験があったらしいのですが、私には初めての八景島です。”シーパラ”の第一印象は「オーソドックスな中堅クラステーマパーク」でした。入場料は我が家の感覚では「お、いい値段、すんじゃねえか」という感じです。財布の紐が硬めな私は、ことあるごとに主人から「セコビッチ」扱いを受けるのですが、やっぱり入場料で「5000円」は強気であると思ってしまったのでした。遊戯場と水族園が合体した複合施設です。両方、欲張りに遊び倒そうよ、というのなら、仕方の無いお値段であるかも知れませんね。

 スタジアムでのバンドウイルカオキゴンドウカマイルカベルーガシロイルカ)←珍しい、セイウチのショーは、親子で存分に興奮いたしました。子供にとっても大人にとっても大型水族園での、やはり最高の楽しみがこういった水生哺乳類のショーはないでしょうか。長男の要望で、2度、時間をずらしてショーを見物しました。演目自体に変化はないですが、回ごとに違う表情を見せる動物達に見飽きる事はありませんでした。

 今回は併設している遊戯施設の区域には大きく立ち寄らずに過ごしましたから、大まかには水族園区域の感想でしかありませんが、私が(子供そっちのけで)印象深かったのはアオウミガメの展示室です。小型のレンジ棚程の大きさがあるアオウミガメ達が5,6頭、砂浜を囲んだ浅瀬で泳いでいるといった風景を造形した展示室でした。最近の水族園にはおなじみの大型水槽や深海魚展示室なども勿論、質の高い物であったと思います。が、中でも、新鮮であったのが、ウミガメ展示の面白さでした。観客からは目線の高さの水面を境にして、足元にかけては、オールの様なヒレを翻して優雅に泳ぐウミガメ達の様子が観察出来ます。また、視線を上げれば、海底から地続きになった浜辺が再現されており、上陸して重そうに自分の身体を前進させて砂を掻き分ける亀達の仕草が目撃出来るようになっております。動物番組で見かける「ウミガメの産卵シーン」の断片のような風景が、眼前で臨場感たっぷりに見渡す事が出来る仕掛けです。実は、この展示場は、野外のベランダからも見下ろす事ができて、揺れる水面にウミガメの大きな甲羅が浮き沈みするのを見下ろしたり、間で泳いでいるサメ達の背びれが、映画のワンシーンみたいに水面から突き立って移動していくのも観察出来るのです。熱帯魚と共に水槽の中を泳ぐウミガメしか見た事が無かった私には、実際に丘へ上陸し、大儀そうに前びれを使って砂浜を横切って行く彼等の姿が実に新鮮に映りました。

 『八景島シーパラダイス』は屋外展示に力を入れている水族園であるとも感じました。11時台に到着した我が家は結局、夜の8時まで、ほぼ10時間もここへ滞在しておりました。そのほとんどを、この炎天下の中、この蒸し暑い気候の中、その上子供連れで、屋外で過ごす事の異常さ。もう、これこそ狂気でありましたでしょうか。

 けれども、その奇行のほとんどが、親のエゴでなく、長男の「希望」に基づいた行動であったと言えば、きっと私は虚言癖の罪でどこかへしょっぴかれてしまうかも知れません。でも、事実であるのです。

 まず、外の飼育施設で泳いでいるイルカへ、近距離まで近づいて、しかも飼育員さんの見守りの元、自由に手を触れる事が出来るコーナーがありました。ゴマフアザラシゼニガタアザラシへの餌やり体験も、随時、行われていました。ペンギンへのふれあいコーナーもありました。磯部を再現した一角で、太ももまで水に浸かりながら魚を観察出来ました。マダイが泳ぐ生け簀、アジが泳ぐ生け簀で、釣り堀体験が出来ました(長男、人生初めての「磯釣り」。アジ、5匹ゲット←入れ食い状態で、かなり楽しい)。ピチピチと跳ねる魚を、両手で掴んだのも初めて、自分で釣り上げた魚を10分後に唐揚げで食べるのも初めて(釣り上げた魚は基本的にリリース、持ち帰り禁止。命は大事です、食べる分だけ釣りましょう)、魚はスーパーで切り身になって皿に入っている物ではない、と言う事を肌身で実感(したのかな)出来た一コマでした。

 本当は土曜日から来て遊び倒して、近くの宿泊施設に泊まって(シーパラには隣接した同系列のホテルがあります)、翌日ゆっくり帰るのが負担が少なくてベストであると思いました。何しろ初回であったので、そこまで考えが及ばず、しかも下調べなしの弾丸レジャーであったので、幼い子連れにしては怖いもの知らずであったなと反省しております。帰宅してからの子供等の入浴、歯磨き、翌日の用意、こもごもで疲労感は更に倍増、翌朝の身体と頭の重さにひたすら怯みました。

 全体的にはほぼほぼ満足の今回ですが、一つ改善出来れば良かった点は子供達の食糧調達です。特に幼い子を抱えていると、食べ物には何かと頭が痛いのはどのお出かけでも一緒なのですが、割合にいずれのレジャー施設もフードコートの料金設定は高めです。離島であると言う事もあり、シーパラはそれが顕著であったようにも思います。大っぴらな持ち込みはNGでありますので、これは工夫が必要なのでしょう。それに加えて特に1歳の次男には、ジャンクフードや刺激の強い食事に偏りがちな外食は今後、しばらくは課題克服に頭を悩ませそうです。

 私自身、子供の頃にはすぐそばに自然が溢れていた、という事もありますし、あえて自然と触れ合いに出掛けるまでもなく、トラウマになるほど自然から身に危険を与えられた(また折をみて別記します)ので、何となく、自然との距離の取り方のようなモノが脳裏に刻まれています。対して、息子達は2人共、郊外で暮らしていますが自然とは遠い場所にある都会生まれです。彼等がこれから触れていく「自然」は、もしかしたら誇張された自然である場合もありますし、心地よい部分を強調したそれである場合もあるでしょう。そういった事が決して悪い事ではなくて、「出来栄えの良い」部分も自然であるには変わりないので、それらをも含めた細部へと視点が移っていくような触れ合いを今後も機会があればさせてやりたいと、親は、ふと思ったのでした。

 夕闇の中、釣り竿の先でビンビンと踊っている力強いアジの最期の抵抗。巨大なセイウチの生々しい体表の艶。餌をねだる仕草にも、各々の個性が光るアザラシ達。

 帰り路に見渡した海は黒々として、防波堤越しに眺める空は眩しいばかりの月夜。

 夜遊びを、大人になって、こんな大胆に、子連れでしている自分の馬鹿馬鹿しくも愉快な気持ち。べたつく海風は、帽子まで吹き飛ばしそうなほど遠慮なく、生温かく、強烈。長男も、次男も(ほどんどベビーカーか抱っこ紐で私に括られていたにも限らず)日焼けして、ちょっと腕や足が紅くなっていて、主人に至っては寂しい額の隅々まで日に焼けて。

 テーマパークから、弾んだ気持ちで、でもちょっとだけ明日の心配をしながら、出来たてホヤホヤの楽しかった思い出を声高に語りながら家路に付く、贅沢。いつの日か、また、と、決まり文句のように呟いてしまう今日を、私は間違いなく、アルバムの特等席に座らせようと思ったのでした。

 

400枚目の私

 過去に、原稿用紙250枚程度の小説を書いた事があります。好きで始めた原稿執筆ですが、冒頭、初段、中盤、佳境、結末までをくぐっていくにつれ、ピタっと筆が止まる時が幾度もありました。書いている内に、言いたい事はそれじゃない、とか、表したい事を表現できる適切な言い回しが浮かばない、とか、そういう邪念のようなモノに、度々足止めを食らいました。

 素人のアマチャンがやっている事です、原稿書きに四苦八苦している事さえスランプと一人前に銘打てるものであったのかどうか。本職がありながら、世間的には趣味程度の事に頭を悩ませて呻いているのは、人様から見れば甚だおこがましい事ではありましたでしょう。

 この『あかりの森’s blog』を初めて8カ月が経とうとしています。それまでに書き連ねて来た雑記が、これで400枚目になりました。過去に遡って読み返せば、広げられている大風呂敷に赤面させられる事もあります。生真面目な事を、遠くの誰かに熱く語っている文面にも出会います。多くは家族の、そして子供達の生活と成長と、母としての私の未熟を嘆く文章と、母である事の喜びを綴る文章と、少しばかりの創作とが「あかりの森」を織り成しています。

 首も据わらなかった次男が、今では、どこにでも自分の足で歩いて向かっていくようになりました。甘えん坊だった長男が、弟の為にグッと我慢して唇を噛み締めるようになりました。「俺様、最高」だった主人が(気が向いた時だけ、ですが)台所で食器を洗ってくれるようになりました。私が育児休暇を終了して、仕事へ復帰し、社会とも繋がり、思う事も格段に増え、時に思い過ごしの悩みに振り回されて、時に嬉し涙を流したり、時に腹立たしい事で夜も眠れない想いを抱えたり、時に生きている事の当たり前であって決して当たり前でない有り難さにしんみりする折々に「あかりの森」の逞しくも若々しい樹々達は、新しい土を得て、輝くような雨を受けて、爽やかな陽射しに育まれて、すくすくと大きく成長してきました。

 思い描く事の半分も、きっと記してこれなかったと思います。あれも書こう、これも乗せよう、こういう想いも書き留めておこう、瞬時に決心する内容であったとしても、次々に私を通り過ぎる事件や出来事の鮮やかさ、衝撃、貴重さが見過ごせないものとして理解しながらも矢継ぎ早に押し寄せるのですから、結局は、感情の一片、感動の一部分しか拾い上げられませんでした。そう思うと、残念な気もしますし、煩雑に書き連ねなくて逆にスッキリ出来た面では良しとすべき事のようにも思います。

 1000記事、2000記事と新しい情報を発信し続ける凄まじい方もいらっしゃいます。そのバイタリティーや恐るべし、なのですが、私は土俵が違いますから、煽られても恥ずかしいだけです。雑記を細々と自分の為に記すのは、物忘れの激しい自分へのいわば「励まし」みたいなものですから、アクセス数や購読者の増減とはそもそも別次元にある類のものでありましょう。ただ、ノートにでも殴り書きしていれば良かったような駄文でも、こうして外部発信用のブログという物に掲載する事で、普段では絶対に繋がる事の出来なかった人との出会いや、考え方のやり取りや、意見の応酬を経験させていただいた事は実に有り難かったと実感します。

 一日、一記事、などと言う驚異的な事は出来ません。一読するだけで、読者の暮らしが豊かになる記事も書けません。ブログというツールの使用方法を、根本から履き違えているかも知れません。ではありますが、とにかく、書き出して、書き続けて、書き記して、書き溜めて、うすぼんやりと「自分」という者の輪郭が見えて来たようにも感じられるのは、間違いなくこの『あかりの森's blog』のお陰であります。

 文章を書く事が出来る自分で良かったと思います。文章を書ける状況にいられる事が良かったと思います。文章を書こうと思える事が、恵まれているんだと思います。

 身の周りの一通りの用事しか片付けられはしないけれども、身の周り3m範囲の事は私にとって掛け替えのない事物で構成されていますので、小さく慈しみ深い物事で溢れているのを私は嬉しく思っています。

 いつかは、必ず「書き終える日が来る」雑記帳『あかりの森's blog』も、今ある私の一部であるのは偽りない真実であります。終わりの日を考えて、打ち込む事に躊躇する必要はありませんが、終わりの日もやっぱり笑顔でありたいなあ、と希望するのは、たぶん、大それた願いではないはずですよね。

 40歳の私が、400枚目の雑記で、希望的観測を述べてみるのも、これは個人的で大切な「ぼんやりとした人生賛歌」なのですから、そんな私をさえ大目に見てくれている神様とか、家族とか、世間様とかが、顔突き合わせて私の周囲3メートル範囲に溢れているなんて、随分と素敵な事以外の何物でもないと思うんですよね。