堕落論(耽美主義をひとかじり)
全部を受け入れてくれる相手からは、きっと人は離れられなくなると思います。どんな容姿であっても、どんな願望を持っていても、どんな性癖であったとしても、そのどれをも無条件で肯定してくれる相手が現れたとしたら、同性であろうと異性であろうと年齢差があろうと、犯罪者であろうと、生者であろうと死者であろうと、盲目的に溺れてしまうと思います。
しばらく立ち寄る機会もなかった本屋なのですが、仕事帰りに覗いてみる事にしました。ずっと以前に通りすがって、平積みされていた本の群れの中に気になった一冊があり、まだその本が売られていれば購入しようと思ったからでした。最初に見かけてから日が経っていましたので、新着コーナーの平積みから、書棚の方へと移されておりましたが、幸いにも件の本は買えました。それと同時に、冷やかすつもりで店内をうろついて手に入れた別の書籍も買う事にしました。
手に入れるつもりも無かったその書籍は、女性向けアダルト漫画でいわゆる「BL本」というジャンルの物です。BL、つまり「ボーイズ・ラブ」を主軸にした作品です。表紙の美しさに惹かれて手に取ったのですが、読み進めて行くうちに描かれるかなり特殊な世界観に引き込まれていきました。異常性愛者の主人公が自分の内にある歪みを死にたい程に疎ましく思っています。生き物の死に際のもがく姿に興奮したり、人肉を食べたいと欲したり、身体的な苦痛でさえ倒錯的な快感へと変わってしまう自分自身に絶望していた彼は、人の世界になじめない事に懊悩し、ついには悪魔を呼び出し、命と引き換えに鬱積した願望を叶えようとします。しかし、彼が持つ情念の深さに感銘を受けた悪魔は、逆に彼を自分の手元に置き、自分の後継者として英才教育を始める事に決めてしまいました。戸惑いの中にも必死に現実から振り落とされないようにしがみつく主人公と、彼を翻弄し寵愛する悪魔との微妙な駆け引きが、美麗なタッチで時に淡々と、時にグロテスクに紡がれていきます。
ゲーム会社勤務の経験もある作者の抜群のデッサン力で描かれる画面。躍動感とおどろおどろしさがミックスされて眼福です。独創的で、そして漫画であるのを失念してしまう程、不意に生々しい。
華麗な筆致に引き付けられるのは当然の事として、私が最初に唸ったのは、主人公が自分の性癖に苦悩し、悶える姿と、それを丸ごと受け入れてなおかつ主人公の少年の望むままの夢想を忠実に与え尽してしまう悪魔の包容力でした。言わずもがな、漫画ですから、語られるストーリーは虚構です。人肉を食べるだの、動物を虐待して興奮するだの、引きずり出した臓器の中に自分の生殖器を突っ込むだの、明らかに常軌を逸しております。そう、この現代社会では。
ただ、これを、この異常性愛を、おぞましい性癖として捉えるのではなくて(仮に、あくまでも仮に)他人との相違として捉えた時、周囲にそぐわない自分を抱えて来た主人公のこれまでの孤独や、焦燥や、苦悶が、とても身に詰まされるように私には感じられました。カニバリズムが私達の認識下では別格の違和であるのだとしたら、例えば、もっと身近な、肌の色が違う、身長が違う、学力が違う、家柄が違うなどと言った事柄に置き換えてみるとどうなのでしょうか。ある者にしてみれば他愛ない内容でも、別の者にとれば人生を揺るがす程の重要事項にも成り得るかも知れません。人と違う事が劣等感になり「普通でない」自分が許せなくなります。でも、それはとてもとても悲しい事ですよね。普通とされるものから自分が逸脱していく、恐怖。平均値から零れ落ちたら、もう自分が自分として認識されもしなくなるんです。
「いいよ、お前の総て(すべて)に応えてやる」
死と、入り組んだ願望の狭間で、息も絶え絶えの主人公に対して、悪魔はそう言って取引に応じるんです。
そもそもがBL作品であるので耽美な世界の物語であるのですけれど、歪曲なしに読み下せば、その一言はもう泣きたい程に頼もしい言葉でもあります。傷付いて、行き場を失った心を何の欲得もなく包み込む姿勢。自分が自分のままである事を許されたら、私が「彼」であったらその場に崩れて号泣してしまいます(本編の「彼」は、猛烈にゾクゾクしていただけですが)。
一生涯を通じて、人はなかなか孤独とは向き合いにくいものです。孤立無援の状況で、上手に微笑みにくいものです。否定されて、拒絶されては恐らく私達は生きていく事など出来はしません。
そのままで良い、と抱き締められてしまったら、私達はもう容易にこの安心感からは逃れられはしないでしょう。どんな口先だけの優しさよりも、どんな魅力的なセックスよりも、どんな抗いがたい快楽よりも、丸ごと受け入れられる衝撃に比べたらそんなものは些細なそよ風でしかないのかも知れません。
「プランタン出版『MADK』(硯遼(すずり りょう)作)」
噛み締めるのに、少し、ジャリジャリとしたものが残ります。けれども、飲み下した後にジワジワと腹の辺りが熱を持つのが解ります。
悪魔はきっと美しいのです。
天使や神様の方が、圧倒的に魅惑的であったのなら、誰も悪魔の前には跪いたりしないだろうと思います。心を試したり、信仰心を強要したり、救う為にやたらと条件を付けてもったいぶる人達よりも、もっとなだらかに、おおらかに、魂全部を握り込んでくれる人達の方へ、私達は間違いなく、墜落していくのです。
用意されている物が、激痛であったとしても。骨肉を砕く、猛毒であったとしても。