あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

風の前の……。

 「お母さんの方が先に死んじゃうからねえ」と告げた言葉に、5歳の長男はひどく驚いた様子で私を見返しました。「先に死んじゃうの?」と、疑り深い問いを発したまま何事か考えていた彼が、少しの間を置いた後言いました。「じゃあ、(お母さんは)小さくなって、お婆ちゃんとお爺ちゃんの所に行くんだね」。

 なんだ、もう、何となく知っているのか、と私はちょっと寂しい様な、安心したような気持ちになりました。勿論、人が死ぬという物理的な事までは思い至らないでしょう。彼が物心付く前に、彼の祖父である私の父は亡くなっていますが、彼が経験した最初の近親者の死もまだたったの1歳半の頃でしたから、記憶としてカウントするにはあまりにもお粗末な類である事でしょう。

 夜中の寝かし付けの時、どんな経緯でそんな流れになったのでしたか。お母さんは、いずれ、いなくなってしまうという、物凄く現実的な「おとぎ話」。

 私は40歳。君は5歳。この先、永遠にこの差は埋まらないのだと言う事。

 自分の母親の方が、先にこの世を去って行くという事象は当たり前の事でありますが、子供にとっては信じられない事の最もたる物であるのかも知れません。

 ああ、私は、いずれこの人と別れるんだな、と身に染みて解るのはいったいいつぐらいからなんでしょうね。私の場合は、結婚して実家を遠く離れてからであったと思います。帰省する度、目に見えて父や母が衰えていく姿を目撃するようになりました。言うまでも無く、私が実家を離れなかった頃にも老いは着実に彼等を訪れていました。ただ、見守り続けている朝顔の成長がひどく遅く感じられるのと同じで、日々の微細な変化は身近であればあるほど見逃しやすくなるものなのですね。遠方に嫁いで、毎日を忙しくしているうちに、父が病を得て入退院を繰り返すようになり、幼い長男を連れて入院中の彼を見舞った時、誰に経過を聞くまでもなく「この人と、私は、もう、お別れするのだ」と思い知りました。

 田舎に残る母は、この8月の末に白内障の手術をします。現代の医学では日帰り可能な手術であるらしいのですが、何しろ独り暮らしの為、大事をとって3日間の入院という事になりました。生活に大幅な滞りがないように、片目ずつの施術ですから9月にももう一度入院があります。母は今、父が逝った歳と同じ年齢に成りました。体力の面でも、精神面でも、不安要素が増えてきております。つい先日、電話口で白内障の手術を受ける旨の事を私へ打ち明けてくれました。けれども、その告白も以前に実家へ帰った時、すでに母本人の口から私へ告げられていた物でした。ですから、電話で報告を受ける私は「手術するんだよね、それ聞いてるよ」と返すと、電話の向こうの母はひどくびっくりしたような口調で「え、それ、誰に聞いたの」といぶかしそうにしておりました。「お母さんからだよ」と応えると「いつ?」と尋ねるので「この間、実家に戻った時」とだけ返事をしました。母はとても不思議そうに「そんな事言ったかしら」と口ごもってしまいました。

 怒りっぽくなり、愚痴っぽくなってしまった母は、本当に些細な事で涙ぐむようにもなりました。我慢強く、楽天家で、少し見栄っ張りであるけれども好奇心旺盛で朗らかであった母。遠く離れて住む私が、一輪の花を久し振りに眺めて様変わりするそれの姿を懐かしんでいると彼女に知れたなら、きっと彼女は凄まじい剣幕で怒るに違いありません。私が感じる人の姿の移り変わりは、彼女にとっての非常識である事でしょう。それは彼女に限った事ではなくて、私にも必ず訪れる老いの姿であり、周囲の人が見る私は私自身が意識せぬままに着実に衰えを見せて行く事でありましょう。

 達観なんて出来ません。やはり、死ぬのは漠然と怖いです。経験した事がないですし、生涯にただ一度きりしかない事ですから。出産に感じていた不安感と非常に近い物かも知れません。我が身に起こり得る劇的な変化で、しかももしかしたら、とてつもない「痛み」と直結しているかも知れないとしたら、誰でも足が竦んでしまうのではないでしょうか。ただし、出産であれば「経験者」はいます。けれども死に関しては誰もが「未経験者」であるのです。未経験者が分かりもしない死後の世界や、臨終の景色について出来得る限り自分の納得できる形の安心感を得たいが為に、宗教や思想が必要になるのでしょう。

 「死」とせめぎ合いながら、この世に生まれて来た子供達。あらゆる超常的な出会いの果てに生を受けた息子。君がやって来た場所に、お母さんはいつか還るんだよ、それはまあ、すぐに、ではないけれどね。

 小さくなって小さくなって、君に見えない程、小さくなって、どこかに行ってしまうんだよなあ。

 私がこの世に誕生した時と、同じほどの恐怖と痛みと、後、願わくば、ほんのちょっとの安堵と希望があるなら、人一人の幕切れには程よい辻褄合わせではありますまいか。