あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

早苗の頃

田を耕す人が減り、私の故郷の風景もだいぶ変わった。鬱蒼としていた神社の参道も、大幅に刈り込みの手が入り、並木は随分と殺風景になってしまった。ここ一年、帰省はできていないが、今頃の田植え時期は、どうなっているだろうか。

父が譲り受けていた畑は、大型ショッピングモールの駐車場になってしまった。私が子供の頃には、肥料用に咲かせてあったレンゲの花を、よく摘んで遊んだものだ。

紀の川の堰も、用水のために開けられている頃だろう。冬季には滞ってしまっていた水の流れが、あちこちで勢いを取り戻しているに違いない。蛍は飛び始めただろうか、蛙はうるさいほど鳴いているだろうか。それでも、今なお、残っている水田には緑鮮やかな稲の苗がなびいているだろうか。

家を守る母がいなくなれば、私の故郷は文字通り消える。思い出が麗しいものであるほど、変化を受け入れがたくなる。私の知らぬ場所がいずれ誰かの懐かしき場所になる。さりながら。

「嫌い」ってどこからやってくるの? (ちょっと苦手な虫の話。駄目な人は回れ右)

興味を持って観察しようと試みる人には申し訳ないが、私はゴキブリが苦手である。幼い頃には、おびただしい数の毛虫を箱に入れて飼った事もある私だが、ゴキブリにはどうも好意的な印象を持てない。昨年、秋の終わりだったか。夜中、寝る前の身支度にブラシで髪を梳かそうと思った時の事だった。一櫛、髪へとすき入れたブラシの毛先に違和感があった。首筋に、黒い塊が、コロリと落ちてきた。500円玉ほどの大きさのその影は、カサコソと私の肩を滑って、床に落下した。洗面所の白熱灯に浮かび上がったソレは、ゴキブリだった。

たまげた。魅入られたように動けなくなるというが、私は逃げるでもなく、声を上げるでもなく、硬直してしまった。

何かを嫌う感情というのは、どこから発生するものだろうか。道端でうずくまっている例の虫を指さし、長男などは面白そうに顔を近づける。虫遊びを好み始めた次男が、いろいろ拾って来る昨今に、ふとそんな事を考える。

自由な国の自由な飲み物。

生姜、ナツメグ、クローブ、シナモン、黒胡椒、カルダモン。小鍋に入れたこれらを少量の水と共に、加熱する。エキスと香りを十分引き出してからCTCの紅茶を加える。再び煮立ったらすぐに火を止め、蓋をして蒸らす。湯が黒褐色に染まり、鼻に抜ける程の香気が漂っていれば、そこへ、たっぷりの牛乳を注ぎ入れる。膜が張らぬよう泡立て器でゆるくかき混ぜつつ液体にしっかり熱を通す。沸騰寸前で鍋を下し、出来上がった香り豊かな紅茶を漉せば、そう、チャイの完成である。

熱くても冷たくても美味しい。振り幅の大きさは、同じくカレーも一緒だ。組み合わせるスパイスは好みだ。私がこの飲み物を知ったのは製菓学校職員時代で、これを取り上げた講習があったからだが、ナツメグと黒胡椒を追加するようになったのは、街のカフェでチャイのトッピングとして別添えの香辛料の瓶が給されていたのがヒントだった。

大らかな飲み物だなと、作るたびに微笑ましく思う。

置き去り

明治生まれの祖母は、駅の券売機で乗車券を買えなかった。路線図を見て、該当駅に表示されている金額分のボタンを押せば良いだけである。昔の券売機には、ボタンが配置されていて、その全部に値段が表記されている。行先までが120円なら120円のボタンを押せば良い。しかし、彼女には、それが、できなかった。仕方がないので、これまで通り、窓口で往復の乗車券を購入した。ちなみに在来線の切符で窓口購入できるのは「往復」と決まっていたのだ。

私の3歳になる次男は、彼が2歳の折、新しく購入した液晶テレビの画面を、初対面で、何故かしきりに人さし指でこすっていた。そう、彼は、スマートフォンの画面と同じように、テレビ画面もスワイプかフリックできると考えていたようなのだ。

携帯電話を頼りに、待ちぼうけなく逢いたい人に逢える私達は、それでも未来の人達には物笑いの種になってしまうのだろうか。

券売機の前で一人取り残された祖母を想う。

やどかりのハウスクリーニング

42㎡に3人で住んでいる。子供が小さいとはいえ、かなりこぢんまりとした住まいだ。

これへ、風呂、洗面所、トイレなどの水回りと、ベンランダ、玄関スペースが含まれるから、実際の居室はそれこそ車庫ほどしかない。大型家電は洗濯機と冷蔵庫。食事用テーブルと2本のメタルラック、テレビ台ほどの食器棚1台、家具はそれだけ。しかし質素であるが不自由はない。

独り親、会社人でも弁当作りを始める前は毎日掃除するように心がけている。早朝から掃除機を掛けるわけにはいかないので、主に床全面の拭き掃除だ。畳敷の寝室は、まだその頃には子供等が寝ているので、彼等の布団の周りを物音を立てないようコソコソ忍んで回っている。

玄関扉から奥の寝室まで、10歩進めばグルリと巡られる小さな我が家。息子達が大きくなれば、絵本の中の巨人のように、窓から手足が突き出てしまうかも知れない。

我々の悲喜こもごもを包む小さな家を、今日も心を込めて慈しむ。