茶の湯
茶の湯を習っていた事がある。
嫁ぐ前の話だ。
学生であった頃から、
7,8年程。
少し前に
お師匠さんは亡くなった。
表千家の教授でいらして、
自宅の一室を茶道部屋と華道部屋に設え直し、
大勢のお弟子さんを抱えた女性であった。
小柄であるが背筋のピンと伸びた
活発、能弁な方で、お孫さんも3人いらっしゃった。
疲れた時、
私は俄かに生菓子が食べたくなる。
骨董屋でセール売り出しをしていた小皿に盛って、
子供が眠っている隙を狙っては
ほくほくと舌鼓を打つ。
至福とは、
こういうひとときを呼び習わすのに
相応しい言葉であるな。
懐石の支度やら
炭点前やら
庭の造作やら
水屋仕事やら
骨董、掛け軸、家屋の普請、茶道具の手入れ、
突き詰めてゆくと茶道にキリは無い。
しかしながら、
手狭な茶室には
もてなす亭主と
もてなされる客、
茶釜に沸く湯と旨い茶、
あと幾つかの茶道具と
主客を繋ぐ四方山話があれば良い。
作法というと身構えてしまうが、
招き、招かれ、
気持ち良く心のやり取りをするための
ささやかな決め事があるだけなのだ。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「ようこそ」
そんな挨拶は誰だってするだろう。
それと同じ。
急ぎ過ぎてはならないぞ。
急ぎ過ぎてはならないぞ。
心の中がカラカラになり、
気持ちが過呼吸になってしまいそうな時、
私は台所で安物の椀に茶を掬い、
熱い湯を入れ薄茶を点(た)てる。
大切なモノを見失うまいぞ。
大切なモノを見失うまいぞ。
濃い緑の茶の湯の海に
青々とした香りの霧が立ち込める時、
私はぬくもった椀をいただき、
潤い渡る自分を見つける。
自服をするのは
自分への労わり。
穏やかな今日を感謝。
穏やかな今日を感謝。
冴え冴えと美しく、
終わりを整えてくれる一椀。
私は目を見開いて、
甘く染まった愛しい明日を
心静かになでつける。