あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

ははははペダリング。

 坂の上の地区に住んでいますので、最寄りの駅に向かうには高低差がかなりある急坂を下ります。自転車のブレーキを構えて一気に下る直前、大きく開けた視界には、深い青に彩られた富士山の夏の勇姿が遠望出来ます。清らかな流れに飛び込む寸前のような、一瞬時間が静止するあの感じ。胸一杯に朝の空気を吸い込んで、見えない翼を広げる自分は、美しい富士山の残像を心に留めたまま、駅への坂を滑り降りるのでした。

 心躍らされるものは、至る所に落ちています。ただ、一歩外に踏み出すだけで私は何かの物語の中に紛れ込みます。自分は別にそこの主人公ではないけれども、ワクワクとした楽しい空気はちゃんと私の背筋も伸ばしてくれるんです。

 働きに出て思う事は、私はどんなに失敗してもどんな風に落ち込む日があっても、きっと「外側の人」なんだな、という事です。人様に自慢出来る半生を歩んで来た訳ではありません。取り立てて自慢出来る実績も有りません。ただ手元に残ったモノは「居場所」と「経験」だけ。パーセンテージで言うと、これら2つを足し合わせれば私という人間が、レギュラー満タン100%です。

 「居場所」は探さなくても見つかりました。焦燥感に駆られてさまよい歩いていた頃にはなかなか見つからなかったのに、探すのを止めて自分の畑を耕すようになったら、そこが「居場所」になりました。「経験」はすぐに豊かになりました。経験値の少ない事がコンプレックスだったとしても、当たって砕けているうちにその全部が「経験」になりました。

 「居場所」と「経験」が確保出来た頃には、自分の両手は泥や土で真っ黒。顔も日焼けして、足腰も頑丈になり、心臓にもケが生えました。小綺麗なまま、人は呼吸出来ないモノなのかも知れません。本質を見ない内に終えられるモノに大したものは無いのかも知れません。

 子供を残して仕事に出る母を、冷たい人と一括りにしたい方がいるのも確かです。実際、送迎の折に、私と別れる息子達が寂しそうにこちらへ手を伸ばしてきます。抱っこして慰めて、時には泣き言に耳を傾けて、最後には振り払って捨てて逃げます。血も涙もありませんね。子供の成長は急速です。朝まで伝い歩きだった子が、夕方にはヨチヨチと歩いているんですものね。その貴重な姿を見届けられないのは、もしかしたらとても残念な事かも知れません。

 母は考えます。

 それでも、母はこの世界の誰よりもきっと息子達を強く想っているんだと。

 そばにいられない時間も、私は「母」です。母であり、責任ある仕事を与えられた一人の女であり、何かの原動力(あるいはその一部)であるんです。いくつもの要素を足し合わせて「私」という人間が、レギュラー満タン100%なんですよ。

 青々と聳える富士山を眺めて美しいと感じる自分をも含めて、自分のデスクで着実にノルマをこなす自分をも含めて、息子2人のいとけない寝姿を深夜に眺める自分をも含めて、それら全部で「私」なんですよね。「今週の日曜日は、何して遊ぶ?」悪巧みをするように額と額をくっつけて、忙しい毎日を彼らと暮らしているんです。待ちわびた休日がパッと花火のように弾ける気がする、そんな得がたい濃密な毎日。

 息を吸い込み、握りしめたブレーキを放し、ツバメと競いながら坂を下ります。ゾクゾクとする浮遊感、少しの恐怖、それからやっと追いついてくる現実味。煽られてドキドキしてハンドル操作をとっさに確かめてしまう瞬間。でも大丈夫、原色を取り戻した街の風景が律儀に私を取り巻いているのが分かりますから。迷わず私は、私の毎日を点描出来るのです。

 風を切って進まなくてはならないので、私はいつもハンチングを被っています。また夏用のハンチングをあつらえたくなりました。自転車に跨がる為に、遅刻しそうな時に遠慮無く全力疾走する為に、そして子供等と連れだって雑木林を駆け巡る為に。

akarinomori.hatenablog.com

 (2018年3月4日『ススメofハンチング!』参照:2歳の「彼」と30+●歳の「彼女」)

 

 私は「外側の人」なんですよね。

 泣き笑いの毎日の中でも、子供達と一緒に育っていく日々にも、すったもんだの仕事場でも、いわんや、自分自身の人生においても。

 新しいハンチング、新しい夏の景色、新しい子供達の仕草、更新されていく私のデータは時々フリーズ、メンテナンス、やがて来る季節の中で最新モードに切り替わっていきます。