楽天道
玄関を開けると朝の涼やかな空気と共に、栗の花の濃密な匂いが吹き込んできます。遠目にも薄黄色の粉を振り掛けたように見えるほど、植えられた栗の樹々は今、花盛りです。不思議な事に栗の木は山桜や南天のように、人の気配の無い所で人知れず育っているというのをあまり見かけません。栗畑は言うに及ばず、人家の脇であったり、誰かが手入れしている雑木林であったり、必ずと言って良い程、立派な親木は人の生活に寄り添って生きています。山道を車で走っていた両親が、偶然にも道路いっぱいに落ちている栗のイガを見つけ、自動車を路肩に止めてせっせと栗拾いに興じていると、側を通りかかった農家の人に「人様の物を盗むものじゃない。それはうちの栗だから」と叱られた事があるそうです。欲張って集めに集めた栗の実は結局置いて帰って来たとの事で、やはり人に寄り添うようにして育つ栗はつとに馴染み深い木の実であるのは間違いないようです。
ただ、馴染みある栗の木も、強烈なあの青い匂いに苦手意識を持つ人は少なからずいるのではないかと思います。かく言う私も、雨上がりの急に気温が上がった日などには、息が詰まる程の例の香気についつい怯んでしまいます。夏草を磨り潰したような匂いと言うのでしょうか、薬草じみた匂いです。
春の草木にも薫り高い物は数多ありますが、夏は夏でまた個性的で印象的な香りを放つ物が多いです。クチナシ、バラ、ユリ、ミカン。シソ、ワサビなどのハーブも夏がシーズンですよね。
俳句で言えば「香水」は夏の季語です。ついつい油断すると体臭が強くなってしまう季節、ほどよい香気はエチケットの為には、時に心強い味方になってくれるのかも知れません。近頃ではコロンのように香る柔軟剤も流行りを迎えて、朝からずーっと良い香り、飲み会の席でも爽やかさ持続、などを謳い文句にしています。平安時代には着物に香を焚きしめて、その優雅な趣きに心躍らせてみたりする民族の我々。世界の中でも稀な程体臭が薄いからこそ、匂いについて敏感になっていくのも道理なのでしょうか。しかし、この敏感さが、少々裏目に出る事があるのです。
私は、デパートの化粧品売り場を通る時、実は息を止めて通過しております。広い面積を各ブースが連なっておる場所では、極力、足早に、そして人通りの少ない場所では軽く息継ぎをしつつ通り過ぎるのです。若い頃からそうでした。通路に漂う密集した花のような香り、少し粉っぽい様なむせるような、また僅かばかりの油脂の匂い。足を踏み入れたが最後、進めば進む程、喉がイガイガして鼻が詰まって来るのです。軽い花粉症のような症状と言うのでしょうか、唾を飲み込むのさえ顔をしかめたくなってくるのです。おかしな話ですが、自分が持っている化粧品ですら、顔へ施している最中でも埃っぽく感じます。つわりの頃は更に駄目でした。柔軟剤の微香ですら、鼻を摘まんだまま洗濯物を畳んでおりました。
そんな私なので、日常生活でメイクはほとんどしません。どれほど肌に自信があるかという自慢話ではなくて、単に辛いのです。「顔に異物が乗っている。毛穴が塞がっていく。」という閉塞感がたまらなく辛いのです。そこへ汗をかこうものなら、容易にぬぐえない訳ではないですか。潰された毛穴の上に、滴る汗、それが乾くと今度は塩分がベタベタして、顔の上がちょっとした「塩田」のようになってしまいます。ティッシュで瞬間的に押さえたとしても幾らか「塗り」は崩れるわけですし、一番、悲しいのはまだまだ幼い子供達と頬を擦り合わせてのスキンシップが取れないという事なのです。未就学児というのは、ビックリするほど親密にぶつかって来ます。抱き上げれば遠慮なく顔を触りに来ますし、眠ければ眠いなりにもっともっと密着してきます。どんなにナチュラルな成分で製造されていようとも、化粧品はあくまでも彼等の肌にとっては異物。私の側の化粧崩れもさることながら、子供達にラメだのパールだのが入った粉を触って欲しくはないと思うんですよね。
染みだってソバカスだって皺だってクマだって、もう40歳の女なんですもの、至る所にてんこ盛りです。隠せるものなら隠したいですけれど、それでも皮膚の上にもう一枚の、あのねっとりとした何かが覆い被さっている感覚が苦手なので仕方ありません。式典や面接や訪問来客、折々には薄化粧を施しますが、その後のクレンジングも肌荒れの原因になるので悲しいです。日々の洗顔は、そういう訳でというのではないのですが「湯」のみです。こすらずに、余分な皮脂を流すだけ。石鹸は使用しません。読んでそのまま「湯」だけで顔の表面を流します。ですから、朝起きたら冷水で濯ぎ(場合により蒸しタオルで拭います)、夜はお風呂で身体を洗うついでに洗顔。簡単です。それ以外の手入れ(そう呼べるのかさえ疑問ですが)は、小鼻の横は皮脂の分泌が盛んなので、指の腹でそこを軽く撫でた後、ぱさぱさとした頬にその油分を塗り広げるようなイメージでマッサージします。そう、それだけ。それ以外、何もしていません。ニキビトラブルも、肌荒れも、今のところ大丈夫です。必要以上に脂を落とすと、皮膚が防衛反応で過剰に脂を作り出す、と聞いた事がありました。そうして、余っている所の脂を足りない所で消費していると、自然に肌自体が必要分の脂のみを作り出すようになるとか。真実か真実でないかの見極めは本人に任せるとして、とにかくこれは楽ちんです。40歳超えると「楽ちん」に勝るものは無くなるので、恐ろしいですよね。
自然でいる事は、別に肩肘張る事ではないと思っています。この自然食品でなければ駄目だ、とか、こういう入浴方法が絶対良いのだ、とか、握り拳作らなくて良いんじゃあないかなと思っています。子供がいるので少々食べ物には敏感ではありますが、自分自身は結構添加物の多い食生活を送っていると思います。玄米も悪く無いですが、やっぱり白い御飯は美味しいです。心がける事と言ったら、まずは自分自身が「自分にとって」不自然だ、と思うような事をしない事です。私の場合、たまたまそれが、香水(香料など)であったり、化粧品であったりするのですが、生き方そのものを見つめてみれば人間関係であったり働き方であったりするかも知れませんね。もう怖い物は無い、そう言い切れる年齢に差し掛かって来たからでしょうか、自分がこうありたいなあ、と遠慮なく思える、そして実行し得る年代になってきたからというのもあるのでしょう。
妙な事なのですが、栗の香りは強烈だけれども、喉が痛くなったり頭が重くなったりはしないんですよね。むせるような香りの花達も、それでも私を暗い気持ちにさせたりはしないんです。自然であるから、自然の中に生まれて、そのままの姿であるものは故意に誰も傷付けないという事でしょうか。ナチュラリストでなく、楽天家。私が目指すのはそういうモノです。