あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

あなたとわたしの「いただきます」

 朝昼晩と3食の食事を摂るようになったのは、明治時代からだという説があります。1日1食しか摂らない、という先輩がかつての職場にはいました。伺った時には随分と不規則であるようにも感じましたが、逆に言えばとても燃費が良い体質とも言えるでしょう。

 食事は基本的に空腹を感じるから摂る物です。その時間になったら自然と空腹感を覚えるように体内時計を調節する、という考え方もあります。いずれが正しいかを決める前に、やっぱり大切なのは食事の時には程よい空腹感があって、食事中は満たされながら食べられている状況が第一なのではないかと思うのです。

 美味しい物(豪華でなくても構いません)を、心が安らぐ環境(静かな方が良い、賑やかな方が良い、様々)で、落ち着いて済ませられる、これを「食卓」と呼ぶのがふさわしいような気がします。

 ドイツに研修にいかれた上司が以前、話してくれた事です。ドイツの一般家庭は朝昼食を割としっかり摂るのだそうです。家族そろって、時にワインなども並ぶ食卓にボリュームのある皿が何枚も出てくるとか。そうして夕食はほとんど火の気を使用しない、つまりあり合わせのサラダや、ハムやチーズを適当に揃えてパンと共につまんで終了。その程度に晩餐は慎ましいと言うのです。ですから冗談交じりに彼が言うには「日本から嫁に行くと、晩ご飯が温かい物でしかも豪華になるから喜ばれるよ」ですと。別名、ドイツで言うところの晩ご飯は「冷たい食事」と呼び習わされているのも頷けます。

 近頃、私の食事は2食性になってまいりました。昼間は職場で過ごすので、休憩時間に落ち着いた雰囲気で摂る事が可能です。これも子育てあるあるの話かも知れませんが、手のかかる人がそばにいると、彼等に世話を焼きながらの食事になるのでまさしく「座って食べられない」状況へ簡単に陥ります。それが朝食である場合も、夕食である場合もあります。決して家庭的でない主人という「大きな子供」が同居していればなおのこと。けれどもこれはこれで不健康ではなくて、体調がそれに沿って変化してきているのか、空腹を覚える時間が日に2回に絞られてくるものなんですね。

 本当の健康はどういったものなのか、時々考えるのです。目指す場所は一つ(例えば、目的地が「健康」として)でも方法はいくつもあるのだと考えれば、食べる子も食べない子もそれぞれきちんとモグモグ出来ていればそれこそ理想の食卓ですよね。 

 

 

(1000文字雑記)

議題:異文化交流

 何でもかんでも揉め事にするのは賢明ではありませんが、我が家の場合、主人と私が全く別の惑星に住んでいる「異星人同士」でありますので、1から10までが異文化交流なのであります。6年夫婦をやっておりますが、それはもう毎日が新発見、驚きの連続です、お互いが。

 一つには子供の食事に対する価値観の違いです。私はせめて3歳くらいまでは子供に生クリームたっぷりのケーキや、チョコレート菓子、アイスクリーム、キャンディー等を与えないようにしたいです。駄菓子の類も、自分でお小遣いを使うようになれば自ずと友達同士で勝手に飲み食いすると想像しているので、あえて親の方から積極的に渡さなくても良いと判断しておりました。一方、主人はそうでないらしく(自身がスナック菓子やアイスクリームが好きなので)うるさい私の目を盗んで子供達に買い食いをさせる方なのです。食事作りが出来ない彼は、私が職場から帰るまでに空腹であれば酒のつまみにポテトチップスを一袋、軽く空けてしまうタイプの人。つい先日もそれで私の怒りが爆発したのですが、自分が間食をするついでに、1歳児の次男にスナック菓子をホイホイやってしまっていたり、あまつさえそれに悪びれもせず「お前(私)の食事の用意が遅いからだ」と反撃。火に油を注がれた私は更にヒートアップするという出来事がありました。

 確かに、私が帰宅後そのまま台所に立っても、食卓に食事を並べるまでは時間ロスが発生します。子供達も空腹のまま悲しい思いをするでしょう。苦肉の策でバナナやレーズンパンを囓らせておくという手もあります(実行もしていますが、不本意)。かと言って、お菓子でお腹を膨らませて満足させるのは、私には生理的に受け付けられない事であったのです。「食事作りが面倒なら、コンビニ飯でいいじゃないか」の理屈も、何となく受け入れられない私は(意固地な自分)、たぶん、気持ちが狭いのだろうと思います。せっかく手作り出来るように予定を組んで、買い物をして、下ごしらえまで済ませておき帰宅してからの怒濤の調理。これの段取りまでを組み立てていたのに、何だか立つ瀬がないなあと思ってしまうのです。別に「私の頑張りを汲み取れ」と言っているではなくて、ですね。などと、ため息が出てしまうんです。

 人類が火星に移住するのに後何十年かかるかは分かりませんが、我が家の異文化交流はまたしばらく難航しそうな雲行きであるらしいです。

 

 

 (1000文字雑記)

土の香り、水の香り

 盆休みの世間。東京郊外の御宅は、いづこかへの里帰りが多いのでしょうか、ここ2,3日、とても静かです。日中はまだ、煮えるように暑い日が続いておりますが、吹き付ける熱風の中にショッキングピンクに彩られた百日紅さるすべり)ばかりが元気はつらつ、咲き誇っています。

 汗を拭きつつ、鉢植えの植え替えをしました。春先に空き地で拾って来た楓の若木を、仮の鉢から陶器の鉢へとお引越しです。本格的な庭いじりの道具は持ち合わせていませんから、プラスチックゴミをキッチンバサミでカットしてスコップ代わりに、根菜ケースを培養土ミックス用ケースにしてチクチクと昼下がりの内職。雑貨屋で購入してきたパキラもテーブルヤシも近頃、ますます逞しく生い茂って来ました。着生植物であるシノブは相変わらずどんな天候にもシレっと涼し気に順応しております。苔玉に植えられたラカンマキは、弱ったり甦ったりを繰り返しながら、着実に若葉を増やして参りました。月美人という多肉植物は、根元に小さな株を付けました。これを千切って別に飢えれば、新しい月美人の苗へと成長するでしょう。

 可愛いモノです。水やり一つとっても、日照時間の管理や陽射しの調整であっても、それぞれに工夫が必要で、例え、同じ種類の株でもコンディション次第では全く別の対処が必要です。空気の湿り気とか、日の出の速さとか、一鉢、一鉢と向き合いながら霧吹きで水をやり、あるいは直接たっぷり水を回し掛けたり、対話と言うと大げさなのですが、それもまたやりがいのある面倒臭さなんですよね。

 観察をする事は、つくづく大事な事だと思います。大事というよりも、それ以外に上手に育てる方法は存在しないんじゃあないかと思えるくらい根本的な事かも知れません。変化を見逃さない、見守る姿勢を崩さない、地味ですけれどそれが苦にならない人が「育て上手」な人なんじゃあないかな、と近頃気付きました。

 変化なんて微々たるものです。瞬きの次の瞬間の、子供の顔色の違い等、私達はついないがしろにしがちであるようです。植物と子供は全く別物ですけれど、よく見て、よく見て、よく見て、接する以外に本当は上手い方法なんてないのじゃあないかしら、とふと考えます。掛けてやれなかった言葉、触れてやれなかった背中、見逃してしまっているサイン。

 子供は、植物ではありません。

 決して、物言わぬ植物では、ないんですけれどね。

 

 

 (1000文字雑記)

涼風至(すずかぜいたる)寒蝉鳴(ひぐらしなく)

 「秋です」。

 などと文字にしてみても実感がないくらい、照り付けが厳しい毎日です。28度設定の空調で、閉め切った室内にいても、料理の為に台所に立てば、たちまちこめかみから雫になった汗が滴り落ちてまいります。ただ、暦の上では「立秋」も過ぎ、暑中見舞いを出すには時期を過ぎたこの頃ではあります。そもそもが、七十二気候は旧暦に添っていますから現代人の我々には体感は妙であります。

 夜になっても25度を中々下回りません。寝室の窓をキッパリ開け放つよりも、ついつい空調に頼ってしまう日々。タイマーを掛ければ掛けたで室温の上がり切った寝苦しさに途中で目が覚めますし、朝まで空調を掛け続ければ身体の冷えや喉の渇きで寝起きが良くありません。氷枕や冷感寝具でやり過ごそうにも、大人はともかく寝相の崩壊した子供達はいつの間にやら冷たさを求めて畳の上へ転がり出て行ってしまいます。扉と言う扉、窓と言う窓を開け放して、天井からは蚊帳を吊って蚊やりの線香を縁側に炊いて、団扇でやり過ごすような懐かしい眠り方が出来るのなら全くそれに越した事は無いのですが、昨今の熱帯夜や、物騒な世の中とかが物理的なハードルになるのは悲しい事です。

 ただ、大きな台風がいくつか過ぎた辺りからちょっとした変化がありました。気付いたきっかけは「虫の声」。夜更けに降る雨に気付いて、薄く開けていた窓を閉めようと起き上がりました。網戸の向こうから、タップリと湿気を含んだ重い空気が流れ入ってきます。これで、少しは涼しくなってくれればと耳を澄ませば、濃度のある闇の中から途切れ途切れに虫の声。ホロリホロリと口の中で鈴を転がすような優しい鳴き声が微かな雨音に混じって聞こえてきます。時々、どこかで雷が鳴っているのでしょうか、雲の一角が白く明るく光ります。私が幼い頃は、夏の夕暮れ時には必ず夕立が降りました。邪魔な物を洗い流すような激しい雨が降りしきった後は、あっけらかんとした宵の静けさが残されていました。うだるような夜と、すっきりしない明方とが繰り返されていたここ最近でしたので、ちょっとした疲労が溜まっていたのでしょうか。秋の虫が、律儀に夜を鳴き通す、そんな悠長な夜も実に新鮮に思えたのでした。

 「秋です」。

 まだ、その呟きは、いくらか空々しいですが、こうやって夜の片隅から少しずつ、季節は移ろっていくのだと気付かされた一コマでありました。

 

 

 (1000文字雑記)

嵐の日にも。

 妙に白い空から、細かい雨が降り続いています。今夜に関東地方へ最接近するという台風の影響で、電線が上下するほど風も強く、巻き上げられた細い雨があらゆる方向へと叩きつけられていきます。しばらくの猛暑続きで体力を使い渋っていた蝉達が、雨模様の中を木陰に寄り添いながら声を限りに鳴き続けている薄ら寒い昼時。

 用事の手を止めると、ついつい思い出してしまうのは長男の事です。5歳の彼は保育園においては、いわゆる「大人しい子」ではありません。遊び場の取り合いで相手に食って掛かったり、口達者な女子に腹を立ててキックをお見舞いしたり、12色組のクレヨンの内、11色を紛失してしまったり、下ろしたてのTシャツで泥水の中に突進していったり、散歩中に先生へ楯突いてビンタを喰らったり(そのビンタを喰らわせた男性職員の事は保育園内で大問題になりました)、凡そ平穏な事と無縁な男子であります。迎えに行った私が、事後報告を受けて職員の方々や、喧嘩になった相手園児の保護者様方に頭を下げるのは昨今では実に日課のようになっております。

 昨日は昨日とて、多目的室(園で呼び習わしているところの「ホール」)に置いてある器械体操用の緑色のマットレスに、何をはしゃいでいたのか黒の油性マジックで大きな落書きをしてしまったとの苦情を頂きました。事件発覚後は当然の事ながら担任の先生にも問い詰められ、園の備品である為、園責任者である副園長先生にも立て続けにお説教をいただいたそうです(園長先生不在につき、対応は副園長先生でした)。やってはいけない事であったという大まかな事は、犯人である息子にも解っているようです。犯行を巧妙に隠蔽すると言う事は、5歳児には出来る範囲ではありませんし、どちらかというと彼がやりたかったのはその真逆で「ふざけ心の延長」「注目を浴びたいが故の奇行」であったと思います。

 事の経緯を伺ってから彼を連れて帰宅するも、私の気持ちは大いに塞がったままで、寛大な心で子供の心情と向き合うなどという聖母のような事は出来ないのでありました。叱り飛ばしたい欲求があるわけでもありませんでしたし、擁護するべき事でもないのは判然としておりましたので、ただ、悲しいやら呆れるやら、繰り返される軽微で実に迷惑な無邪気な罪に実母ながら心底、重い疲労感が覆い被さって来るようにさえ錯覚いたしました。

 これも我が子、間違いない我が家の長男です。物事の善悪は、5歳にもなればうっすらと輪郭は解っているはずです。自己顕示の材料に「いたずら」を使用している時点で、自分が行っている事の是非は(真理までは汲み取れないながらも)判断出来ているのですよね。暗い溜息を吐く目の前の母親に対して、あえて視線を合わせない息子の態度にも彼なりの罪悪感は見て取れます。追いうちを掛けるつもりもありませんし、委縮して欲しくもありませんが、言うべき事もやはり親として言わねばならない時があります。我が家では日常の小言は、母である私が、躾の要となるような重要度の高い事案には、彼の父である主人が訓戒を述べます。子供達と私で夕飯を済ませ、遅れて帰宅した主人に長男を向かわせました。援護射撃を要求する長男の私への甘えた態度はいっさい無視します。帰って来た早々に、夕飯より風呂より優先させられた子供からの訴えで、ちょっとだけ主人は迷惑そうな顔をしておりました。たどたどしい子供の発言から、その日、息子がやらかした事件の一部始終を辛抱強く聴き取っていた主人は、開口一番我が子に対して「お前、それは良い事なのか、悪い事なのか」と問い質しました。姿勢を正した長男は、ひどくモジモジしながら主人を上目遣いに見上げたまま。

 正しい事、正しくない事、やって良い事、悪い事、我が家はまず、子供の見解を確認してから話が始まります。親が「相応しくない」と認識している事でも、例えば子供がそうは思っていない場合、こちらが一方的に話を進めて行ったとしても最初の入口が違っていれば最終的に互いの話にはズレが生じ、確認不足のまま話し合いが終了してしまう恐れがあるからです。子供相手に、と大袈裟がられるかも知れませんが、私と主人の共通認識として「子供は判断力が幼いだけで、それは馬鹿であると言う事とイコールではない」というのがあるからなんですね。つまり、子供に不足しているのは善悪の決定力ではなくて、単に経験値であるという考え方です。出会ってきた事象が少ないので、体験から得られる因果関係の学習が不十分であるという訳です。子供にも、子供なりの(狭いながらも)ルールに基づいた世界がある訳で、その中で彼らなりに逆らい難い決まりに従って行動していると(仮定)して、一度、どの程度の話から始めれば良いかを探る事から親子の話し合いは開始されるのです。

 昨日の時点において、主人と息子との間で取り決められた事項は2つ。(当然の事ながら)今後、公共の物を勝手に私物化しない事。それから、今回の件で(今まで自由に出来ていた)スマホ閲覧は(親サイドが許しを与えるまで)無期限で閲覧禁止、要は罰則です。2人の話し合いの現場を私は実は見届けておりません。長男と主人がお風呂の中で、入浴しながら最終決定した為です(我が家ではしばしばこうした男同士の「お風呂場会議」が行われます)。

 知恵と体力が日増しに高くなっていく長男に、母親である私などは気を許した瞬間、握っていた手綱を引き千切られてしまうようになりました。そもそも、男子を制御する力を十分に持ち合わせていない私に、成長期の彼等の言うなればこちらの手前勝手な操縦など端から大それた事であるのだと思います。今回の事件なども一部に過ぎず、最近再発した偏食であったり、オモチャの無制限な購入要求であったり、弟との頻発するイザコザであったり、頭の痛い事を列挙すればいとまがありません。「うちの子は本当に大人しくて」「うちの子は至って普通で」と言われているお子さんでも、親御さん方にしてみればよそ様には言いにくいような課題を抱えている場合も多い事と思います。「うちの子だけではない」と解っていても、「どうしてうちの子は……」と視線がうつむきがちになるのは、もうこれこそ風邪引きの諸症状みたいなもので、ちょっと油断した隙に、少しの油断さえしていなくても本当に簡単に陥ってしまう育児あるあるなのだと思います。

 生まれるまでは「どうか、無事に生まれて来て下さい。もうそれだけでいいからね」なんて殊勝な事を思っていた我が子に対してでも、新生児の頃には「取りあえず、健康でいて下さい。毎日、息をしていてくれるだけでいいです」とか呟きながら、時折、呼吸をしているかどうかおずおずと鼻の辺りに手をかざしてみたりして、首が据わったら据わったで「寝返り上手に出来ないのは何でかなあ」とか、離乳食の食いが悪くて必要以上に凹んだり、なるようになるさ、と無理に自分を励ましながら一人立ちが遅い我が子を渋い顔をして眺めていたりして、親と言う生き物は自分勝手と言う要素で出来ているんじゃああるまいかという程、実に自分本位な物なんですよね。

 勿論、他人に迷惑をかけるのを容認しているのではありません。公共の道具を汚すなんて悪行は論外であります。しかしながら日常の過ちとも呼べないような些細な失敗を仮に我が子が経験したとして、それを執念深く思い悩んだり「もしも」とか「でも」とか「とにかく」とか色んな論理でがんじがらめにしてしまう事に躍起になってるこの私の姿は、果たして清々しいものであるのだろうか、と立ち止まってしまうのです。

 私達は大人であるから、目の前の液体が沸騰した湯で、熱い事を知っています。だけれども、今、この世に誕生したばかりの新しい命達に、その液体が熱い事、その熱い液体が湯という名前で危険である事なんて分かり得るでしょうか。触って、驚いて、傷付いて、後悔して、思い知って、学習していくしか、湯の扱い方を知る術はないのです。願わくば、無為に子供達に傷付いて欲しくはありません。あえて、火傷をさせる必要はありません。それでも、「それは君にとって危険だから」と目や耳や鼻や指先を塞いで握り込んでしまったら、子供達はそれからずっと湯を知らないままになってしまいます。ええ、私の言っている事は極論ですし、理想論です。だからこそ、子育てには「壁」が存在するのですし、親には「悩み」が発生するのですし、家庭には「軋轢」が生まれるのだと思います。

 外は、雨です。明るい空から、不規則に奔放な雨が降って、止んでを繰り返しています。

 晴れる日が来る事は知っています。それが、ただ「今」でないだけで、どうしてこんなにも気持ちがしんみりしてしまうのでしょうかね。

 親は勝手です。自由な子供が妬ましかったり、情けなかったり、腹立たしかったり、けれど、時に愛おしかったりするのです。かつては必ず誰も彼も子供であった私達であるのに、今はそれを武器にも経験値にさえ出来ず、我が子に振り回されて生きています。

 小さいなあ、と思います。

 昔の親の背中は、あんなに大きかったのに、と思います。

 そんな遠い世代の親達の背中も、子供達が寝静まった夜更けには、人知れず流す涙に小刻みに震る事もあったでしょうか。

 長男と、私と、主人と、おまけの次男と、4人家族、こじんまりと、肩を寄せ合う「何の変哲もない」我が家です。