あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

置き去り

明治生まれの祖母は、駅の券売機で乗車券を買えなかった。路線図を見て、該当駅に表示されている金額分のボタンを押せば良いだけである。昔の券売機には、ボタンが配置されていて、その全部に値段が表記されている。行先までが120円なら120円のボタンを押せば良い。しかし、彼女には、それが、できなかった。仕方がないので、これまで通り、窓口で往復の乗車券を購入した。ちなみに在来線の切符で窓口購入できるのは「往復」と決まっていたのだ。

私の3歳になる次男は、彼が2歳の折、新しく購入した液晶テレビの画面を、初対面で、何故かしきりに人さし指でこすっていた。そう、彼は、スマートフォンの画面と同じように、テレビ画面もスワイプかフリックできると考えていたようなのだ。

携帯電話を頼りに、待ちぼうけなく逢いたい人に逢える私達は、それでも未来の人達には物笑いの種になってしまうのだろうか。

券売機の前で一人取り残された祖母を想う。

やどかりのハウスクリーニング

42㎡に3人で住んでいる。子供が小さいとはいえ、かなりこぢんまりとした住まいだ。

これへ、風呂、洗面所、トイレなどの水回りと、ベンランダ、玄関スペースが含まれるから、実際の居室はそれこそ車庫ほどしかない。大型家電は洗濯機と冷蔵庫。食事用テーブルと2本のメタルラック、テレビ台ほどの食器棚1台、家具はそれだけ。しかし質素であるが不自由はない。

独り親、会社人でも弁当作りを始める前は毎日掃除するように心がけている。早朝から掃除機を掛けるわけにはいかないので、主に床全面の拭き掃除だ。畳敷の寝室は、まだその頃には子供等が寝ているので、彼等の布団の周りを物音を立てないようコソコソ忍んで回っている。

玄関扉から奥の寝室まで、10歩進めばグルリと巡られる小さな我が家。息子達が大きくなれば、絵本の中の巨人のように、窓から手足が突き出てしまうかも知れない。

我々の悲喜こもごもを包む小さな家を、今日も心を込めて慈しむ。

金でも切れぬ物

涙もろくて、本当にいけない。涙もろくなどなかったのだが、近頃、誠に涙もろくなった。

撮り溜めていた地上波放送の映画を観た。『殿、利息でござる!』で、泣いてしまった。

登場人物の十三郎と甚内、この2人の兄弟が、もう心底、よろしくない。弟を毛嫌いしていた兄と、強欲とばかり思われていた弟とが、互いに真実の元に歩み寄るシーンがどうしようもなく、熱く尊く、切なかったのだ。史実に基づく脚本らしく、原作者は歴史学者だという。全くのフィクションではないだけに、それを上乗せすれば余計に身に染みる。

ともあれ、兄弟だ。演技派の役者ぞろいでもあり一通りでない兄弟の縁やわだかまりが、さもありなんと思われるように描かれていて、軽妙な作品であるにも関わらず、私は途中から泣きっぱなしであった。兄は弱き者を労わる。弟はその兄を労わる。親としては堪らない。これを黙って見守る母・きよの心中やいかに、と、これまた泣き所なのであった。

ごっつんこ

眠いから寝る。腹が空いたら泣く。そんなふうに暮らしていた私が、それをしなくなって久しい。途中経過はあったにせよ、大人になって、「らしく」振る舞うように整えられて、ようやくここまで辿り着いたという感じがする。

自由だの、意志表示だの、主張だの、最近の世間様は「ご親切」が有り余っている。何が快適で、どのあたりが心地良いだとかが麻痺してくるほどには、思いやり深い。

我がままを決して許さなかった時代を賛美しているのではない。ただ、手の施しようがなくて仕方なく放任主義に鞍替えした世間様を、遠く眺めているのだ。

私達がそう躾けられてきた「らしさ」は、もう、尊重されなくなってしまった。うっかりすると、私達が「らしい」と思っていた事を子供にそのまま伝承すると、子供がよその方面から「らしくない」とお叱りを受ける事もある。

眠いから寝る。腹が空いたら泣く。出発はそんなだった私達が、地面のあっちこっちでぶつかっている。

手習いの道行き。

私は言葉を扱う世界にいる。だからこそ言葉を無下にはできない。

毎日、本当に、言葉に揉まれている実感がある。仕事で携わっている分、この雑記を書いている時は、実に気楽で純粋に楽しみながら、時に天衣無縫に文字の世界に溺れている。

好きな事を仕事にすると、辛くなるし、現実世界か自分かに幻滅する日がくる、と言う人もいる。そういう働き方、そのような求道精神が勝ってしまえば、あるいは、好きな事で食っていくというのは厳格な世界であるのかも知れない。

幸いな事に、そして残念な事に、私はまだその域に達していないので、日々、先輩方の仕事ぶりを追い、仕上げられた案件に触れ、感動ばかりしている。

今日は、大先輩が、褒め言葉を使っている場面に出くわした。

何という美しい褒め言葉なのだろうと、胸を射抜かれた。褒めている本人も、褒められている相手も、また彼等のやりとりを傍観している人々も、完璧だったのだ。

こうありたい。強く、願う。