あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

我が平熱を知る、という事。

とっさに何かしなければならない瞬間が、大人にはわりと日常に多くあって、思わず飛び出た一言だったり、知らずにしてしまった行動だったりがあるのだ。ただならない時や、不如意の時に限って、急を要する事が発生し、私達は自分の幼稚さや勉強不足を白日の下にさらされる憂き目に遭う。

裏を返せば、とっさの折というのは、素っ裸の自分が放り出されてしまうので、肩書でどうにかなるものでもないし、付け焼刃でしのげるものでもない。浅はかな猿知恵で勝負しようものなら、それこそ恥の上塗りになりかねないのだから、やはり「日常の姿」というのは、馬鹿にできない。

中でも油断ならないのは、言葉遣いだ。罵倒とかスラングとか、いわゆるお上品でない言葉の多くは、「尋常でない時」によく発せられる。「尋常でない」状態の「常」は、日常の「常」の意だから、基本に置くべきは、ハレの日でなく平凡な日々の繰り返し、という事にもなろう。正しく日常を歩く。

はじめまして「お母さん」です。

子供達は、時々、甘えた声で「ママぁ」と私を呼ぶ事がある。私はすっとぼけて絶対に振り向かない。また繰り返し「ねえ」とか「あのさあ」とかをくっつけ「ママ」呼ばわりするので、今度はさっさと別の場所へ移動して彼等から私は姿をくらます。

追いかけて来る人達に向かい、私は宣言する。「この家に、『ママ』はいません」と。

私は「ママ」ではない。子供達が生まれた時から「ママ」と自称しなかった。たどたどしい口調で呼び掛けるには、字数の少ない、あるいは、唇の運動が比較的容易な「ママ」の発音は気持ち良いだろうと思う。何より「あ段」である「ま」の音はとてもふくよかで優しく耳にも心地よい。しかしながら、私は「ママ」ではなかったのである。保育士さんから「〇〇君のママ」と呼び掛けられても、曖昧に笑って、実はうなずかない事も多い。ここは徹底する。

何故なら私は「お母さん」だからだ。ずっと図太いお母さんでありたかったからなのだ。

 

ほんと、毎度、すみません。

気苦労な事であるな、と頭が下がる。子供の保育、教育に関わる現場の職員に対して、である。学童保育所から電話をいただいた。「ところでお宅のお子さんが」と来たので、例によって例の如しお説教だと、腹を括った。私の子等は、親が言うのもおかしいが、世間一般で評するところの「できたお子様」ではない。もう慣れっこと言い切ってしまえば、随分ふてぶてしいが、そう覚悟を決めでもしないとやってられない時もある。

「ところで……」と相手が切り出すので、「またですか」と言う定型の文句を飲み込み、神妙な声色を作って、「どうしましたか」と丁寧に相手の言い分に聴き入った(フリをした)。

多くの児童を預かっている、コロナの影響で人員を減らして対応しているが我々もしんどい、職員同士も各個人で児童に対する接し方が違うから、(自分達同士での)意志疎通に苦慮している等の内容であった。

ケアする側が、一番、ケアを必要としている、そう感じた。

ほな、「けつね」でもどやろか。

献立に困ると、きつねうどんを作る。いや、困らなくても、食べたくなるので、作る。

手付き小鍋で、簡単に作る事ができるので造作ない。出汁は魚介なら何でも良い。我が家は鰹出汁だが、昆布でも煮干しでも十分美味しいと思う。ただ、私が関西の生まれであるから、醤油は薄口を使いたい。濃い口は魚の臭みを取るのと、風味づけに追って足す程度だ。そうそう、これは一手間であるのだが、味醂は本みりんを使う。そうめん出汁を作る時には煮切ってしまうが、うどん出汁なら構わない。

元々、忙しい商人が、おかずと主食を同時に掻き込むのに便利だというので、きつねうどんが産み出されたらしい。誕生地の説はいろいろあるが、およそ商売の町、大阪であろうというのである。せっかちで、合理的な事が好きで、食い倒れ万歳の大阪。

そのような場所で生まれた母が作るきつねうどんが、東京生まれの息子達の「お袋の味」になるのは面白い。この出汁の味、おぼえててや。

貪する心

いつから私は、このように欲深くなってしまったのかと思う。

とにかく無事に生まれてくれ、とにかく息をしていてくれ、とにかく元気に過ごしてくれ、そんな事ばかりを願っていた我が子に、ああしろ、こうしろと、うるさい小言を飽きもせず言っている。食べこぼして何が悪い。服を汚して何が悪い。勉強に手間取って何が悪い。多少、後に我が子が困る事態になるかも知れないので、ほどほどの手助けは必要だろう。が、まくしたてねばならない事由なのだろうか。

どこまで私は強欲になれば気が済むのだろうか。我が子のため、という免罪符をかざせば、自分を納得させられる気持ちにでもなるのだろうか。その日、その時が、健やかであるなら、それでよし、としてきた過去は、間違いではない。けれども、いつしか私は何かに急き立てられるように子供達を追い回してきた。

寝顔を見ると思い出す。ああ、よくも、あの子がこのように、と、幼かった日の「あの子」が重なる。