あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

水談義

  一つの記事をご紹介いたします。

  ベリーさん(はてなブログのハンドルネーム)という女性が運営されている『ベリーの暮らし』というブログに掲載された記事です。

www.berry-no-kurashi.com

 購読者がもうすぐ1000人にも到達しようかという程の人気ブログのブログ主様ですが、日々の丁寧な暮らしぶり、シンプルで効率的な整理術、そして何より、お母様として奥様として日々を奮闘なさっているご様子は、一読者として羨望の的でもあり、同時に陰ながら応援して差し上げたくなるような気分にさせられます。

 (ベリー様のご厚意で、記事の転載とブログ主様ご本人のハンドルネーム記載との許可を頂きました。ここに、改めてお礼を申し上げます。)

 4月7日付けの彼女の記事「南部鉄器で沸かした、白湯。まろやかでおいしく、鉄分も補給できます」なのですけれど、実は私は、この記事に背中を押されて、南部鉄瓶を購入したクチなのです。0.9ℓ用で1万6千円は、「湯を沸かす家事用具」を購入するには(我が家において)高額の買い物でありました。

 たかが「湯」です。たかが「湯沸し」。

 鉄瓶は、それに特化した家事用具なのです。ですから、これでカレーを煮る事も出来ませんし(いや、やろうと思えば何とか……)、焼き鳥を焼く事も出来ません(いや、やろうと思えばどうにでも……)。ただ、水を沸騰させるだけの、鉄瓶。そして、1万円を超える高額商品。これだけの額があればペットボトルお徳用が何十本買えますか?

 勿論、リアリストの主人には片頬で笑われました。湯を沸かすだけで1万円超。現実的では、確かに無いのかも知れません。火に掛ければ、変哲もない水が紅茶に変わる、というのなら解りやすくて良かったのでしょう。でも、そうではないのです。水が、100℃の沸点に達して、グラグラといつまでも煮え立っているだけ。シュンシュンと沸き立って、蒸気になって水量が減っていくだけ。湯が沸いたからと言って、ファンファーレが鳴り渡るわけでも、大歓声が巻き起こるわけでもありません。細い注ぎ口から、静かに蒸気の白い筋が、チロチロと上がっているだけです。地味なモノです。普通の薬缶と違うところと言えば、沸騰した湯がボコボコと激しく沸き立たない所でしょうか。大きな気泡で持ち上げられて、湯が溢れかえると言う事だけは無さそうです。

 そして、肝心の湯の口当たりなのですが。

 率直に申し上げて、沸き立ての湯を飲んで私は「うーん」と一言、発したっきりでした。「美味しいか」と訊かれても「うーん」。「不味いのか」と訊かれても「うーん」。正直に言って、これが「1万円超」の味なのか、という感じでありました。高い勉強代を払ったと思えば良かったのか、セレブごっこを楽しんだと思えば良かったのか。

 ま、人生経験の一つだな、とその時は肩の力を抜きました。

 鉄瓶で最初に湯を沸かしたのはちょうど子供達の夕食作りの真っ最中でしたので、その湯をカップに注ぎ入れたなり、押し寄せる作業で手つかずのまま夜中まで放置してしまったのでした。夕餉、風呂、寝かし付け。怒涛の家事、育児。自分の就寝準備と子供達の翌日の登園準備を終える頃には深夜。寝る前に目にした台所には、忘れていた自分のカップ。魔法瓶式のカップには、簡易の合成樹脂製の蓋をかぶせてありましたが、見た目ではもうすっかり中の液体は冷え切っている様子。ちょっと溜息を吐きたい気分のままに、とりあえずは一口。

 で、口に含んだその湯冷ましに、私は思わずカップを二度見してしまったのでした。

 水が、甘い。

 いや、違います。咥内に無理なく染み込んでいく感じ。何と言い表していいのかが分からないのですけれど、舌の側面がピリピリしないと言うのか、本当に身体が欲している物を紛れも無く口にしているような感覚であったのです。

 嘘だと、思いました。鉄瓶の存在は随分前から気にはなっていたのですが、先程、書いた通り、湯を沸かすだけに万単位は払えないと、今まで購入に至りませんでした。馬鹿舌ではないにしても、庶民如きのオーソドクスな味覚でそこまでの感動を得られるはずもないと、思っていたのです。「その瞬間」までは。

 ああ、美味しいなあ。素直に私は呟いていました。

 ああ、水(湯冷まし)が、美味しい。

 物凄く喉が渇いていた訳ではありません。眠る前に立ち寄った台所に、たまたま私のカップが置き去りにされていて、たまたま湯冷ましが注がれていて、たまたま私が「もったいないから飲もう」と思い付いただけの流れでした。

 単なる水に「出会い」を云々するのは大袈裟かも知れません。知らないなら知らないで、私はこれからもミネラルウォーターを購入していたでしょうし、何なら今後の為に浄水器を蛇口に付けていたかも知れません。ですが「出会ってしまった」のです。

 もう、これは、ベリー様のみならず、南部鉄器を今まで守って来て下さった方々のご尽力にも、そうして自分が日本に誕生した事にも少なからずの感謝をしたい気分であります。オーバーですか、オーバーですよね、オーバーでしょうか、ドンド来い、オーバー。

 人から幾ら勧められても、リコメントの宣伝文句を耳にしても、価値観なんてそう簡単に翻るものではありません。だとするならば、やっぱりモノとの「出会い」は、貴重であり、有り難い物なんだと思うのです。背中を押してくれる存在も、自分がそこにいる偶然も、それを手にする機会に恵まれた事も。誰もが「図らずも」成し得た事であったなら、もうそれこそ「天の神様の言う通り!」でしょう。

 嘘か、本当か。ただの水が旨いのか旨くないのか。そんなものは、結局、出会った人にしか解らないものなんだと思います。有名人がオススメするグルメを有り難がるのも目先が変わって新鮮かも知れませんが、水が美味しい国に生まれて、その水を最高に美味しい形で味わう自由があって、ちょっとした工夫で更に美味しくいただく事が出来るのだとしたら。

 ね、人生、なかなか、オツなものじゃありませんか。

ははははペダリング。

 坂の上の地区に住んでいますので、最寄りの駅に向かうには高低差がかなりある急坂を下ります。自転車のブレーキを構えて一気に下る直前、大きく開けた視界には、深い青に彩られた富士山の夏の勇姿が遠望出来ます。清らかな流れに飛び込む寸前のような、一瞬時間が静止するあの感じ。胸一杯に朝の空気を吸い込んで、見えない翼を広げる自分は、美しい富士山の残像を心に留めたまま、駅への坂を滑り降りるのでした。

 心躍らされるものは、至る所に落ちています。ただ、一歩外に踏み出すだけで私は何かの物語の中に紛れ込みます。自分は別にそこの主人公ではないけれども、ワクワクとした楽しい空気はちゃんと私の背筋も伸ばしてくれるんです。

 働きに出て思う事は、私はどんなに失敗してもどんな風に落ち込む日があっても、きっと「外側の人」なんだな、という事です。人様に自慢出来る半生を歩んで来た訳ではありません。取り立てて自慢出来る実績も有りません。ただ手元に残ったモノは「居場所」と「経験」だけ。パーセンテージで言うと、これら2つを足し合わせれば私という人間が、レギュラー満タン100%です。

 「居場所」は探さなくても見つかりました。焦燥感に駆られてさまよい歩いていた頃にはなかなか見つからなかったのに、探すのを止めて自分の畑を耕すようになったら、そこが「居場所」になりました。「経験」はすぐに豊かになりました。経験値の少ない事がコンプレックスだったとしても、当たって砕けているうちにその全部が「経験」になりました。

 「居場所」と「経験」が確保出来た頃には、自分の両手は泥や土で真っ黒。顔も日焼けして、足腰も頑丈になり、心臓にもケが生えました。小綺麗なまま、人は呼吸出来ないモノなのかも知れません。本質を見ない内に終えられるモノに大したものは無いのかも知れません。

 子供を残して仕事に出る母を、冷たい人と一括りにしたい方がいるのも確かです。実際、送迎の折に、私と別れる息子達が寂しそうにこちらへ手を伸ばしてきます。抱っこして慰めて、時には泣き言に耳を傾けて、最後には振り払って捨てて逃げます。血も涙もありませんね。子供の成長は急速です。朝まで伝い歩きだった子が、夕方にはヨチヨチと歩いているんですものね。その貴重な姿を見届けられないのは、もしかしたらとても残念な事かも知れません。

 母は考えます。

 それでも、母はこの世界の誰よりもきっと息子達を強く想っているんだと。

 そばにいられない時間も、私は「母」です。母であり、責任ある仕事を与えられた一人の女であり、何かの原動力(あるいはその一部)であるんです。いくつもの要素を足し合わせて「私」という人間が、レギュラー満タン100%なんですよ。

 青々と聳える富士山を眺めて美しいと感じる自分をも含めて、自分のデスクで着実にノルマをこなす自分をも含めて、息子2人のいとけない寝姿を深夜に眺める自分をも含めて、それら全部で「私」なんですよね。「今週の日曜日は、何して遊ぶ?」悪巧みをするように額と額をくっつけて、忙しい毎日を彼らと暮らしているんです。待ちわびた休日がパッと花火のように弾ける気がする、そんな得がたい濃密な毎日。

 息を吸い込み、握りしめたブレーキを放し、ツバメと競いながら坂を下ります。ゾクゾクとする浮遊感、少しの恐怖、それからやっと追いついてくる現実味。煽られてドキドキしてハンドル操作をとっさに確かめてしまう瞬間。でも大丈夫、原色を取り戻した街の風景が律儀に私を取り巻いているのが分かりますから。迷わず私は、私の毎日を点描出来るのです。

 風を切って進まなくてはならないので、私はいつもハンチングを被っています。また夏用のハンチングをあつらえたくなりました。自転車に跨がる為に、遅刻しそうな時に遠慮無く全力疾走する為に、そして子供等と連れだって雑木林を駆け巡る為に。

akarinomori.hatenablog.com

 (2018年3月4日『ススメofハンチング!』参照:2歳の「彼」と30+●歳の「彼女」)

 

 私は「外側の人」なんですよね。

 泣き笑いの毎日の中でも、子供達と一緒に育っていく日々にも、すったもんだの仕事場でも、いわんや、自分自身の人生においても。

 新しいハンチング、新しい夏の景色、新しい子供達の仕草、更新されていく私のデータは時々フリーズ、メンテナンス、やがて来る季節の中で最新モードに切り替わっていきます。

大切なお知らせ:私、不機嫌、なう。

 不機嫌でいることは誰のせいでもないのです。不機嫌になること自体は本人の気持ちがそのように動くからだと思います。勿論、故意に悪気のある他者から強制的に不機嫌になるようにもってこられたなら話は別なのです。そうでなければ、やっぱり不機嫌になるのはこちら側の都合のような気がするのです。

 イライラとしてカッとして頬を膨らませる私自身も、実は短気である事は自覚しています。怒りの感情は消費の熱量が高いので、鎮火した時の疲労感は確かに大きいですよね。感情の磨り減り方が著しい分、防御反応として人は「怒らない技術」や「イラッとしない方法」に目を向けるのだと思います。イライラ攻略本も書店では売れ筋です。

 ですが私はあえて、そんな「不機嫌」な時間をちゃんと「不機嫌」でいようと思う事にしました。アンガーマネジメントなどという賢いお話ではなくて、もっと原始的な根本的な部類の理由からです。

 コントロール出来るくらいなら、たぶん、イライラしたりカッとしたりはしないのだろうなあ、と思うのです。開き直りの一種ですけれど、つまり感情の起伏を出来るだけなだらかにする事は、私にとって逆にストレスであったのだという事ですね。怒っているお母さん、ムスッとしている妻、不満顔の娘。本当に嫌な感じです。彼女が一人いるだけで、家族団らんのトーンが一つ暗くなるようにさえ感じます。お母さんは笑顔でいましょう、奥さんは朗らかでいましょう、娘は可愛らしくいましょう。それらが平和の象徴であるかのように考えていた時期がありました。

 ちょっと待ってよ、と気付いて立ち止まった私は、しかし訴えたかったのです。

 しんどい事は、誰にでも平等に訪れるんです。私だけを避けて、周囲に落雷するわけじゃありません。どうして私が不機嫌になってはいけないのかしら。

 私が不機嫌だと子供達が戸惑います。私が不機嫌だと主人にも伝染します。私が不機嫌だと親が戸惑います。「だから私は不機嫌になっては駄目」なのです。

 ちょっと待ってよ。

 それ、違うんじゃないかな。

 私は気分が悪いんです。なので不機嫌になるんです。でも、不機嫌になるのは自分がそうしていたいからなんです。不機嫌になりたくないならならなくても良い。だけど不機嫌でいるんです。どうしてなのでしょうか。たぶん「不機嫌でいた方が、今の自分の感情に正直だから」なのですよね。

 自分のせいで誰かが困るのは不本意です。それは揺るぎません。だけれども、悲しいのに、怒りたいのに、切ないのに、平穏な顔をしていつも通りの自分を演じていたのでは「自分自身」が困るのです。母だから、妻だから、娘だから、それだけの理由で不機嫌になることを制限されるのはどうしてなのかしら。「私は怒ってるんですよ」と表現したって良いじゃあありませんか。何故なら、私は間違いなく怒ってるんですから。

 私の都合で不機嫌になっているんです。母にとって、妻にとって、娘にとって常に笑顔でいる事は義務なのでしょうか。自分に接した相手を思いやる事を無視している訳ではないのです。悲しい事があったら悲しみたいですし、怒りたい事があったら怒りたいですし、切ない事があったらきちんと涙を流したい、それだけなんですけれどね。

 不機嫌でいることは誰のせいでもないのです。

 ですから、隠しませんし、繕いません。これを気ままと笑う人もいるでしょうし、大人げないとののしる人もいるでしょう。身近な相手であればあるほど、私の不機嫌は迷惑な事であるに違いありません。良いのです、それで。自分の撒いた種は、自分で刈り取られるくらいにはおばさんに成りましたから。

 面の皮が厚くなると、こういう暴言も平気で吐けます。

 若作りするつもりもない代わりに、自分を偽る事もしないでおこうと思っています。

 ええ、今、私は不機嫌なんです。

 不機嫌な私が、今日も元気に働きながら、晩ご飯のメニューを考えながら、雨が降りそうな空模様を気にしながら、子供達のお迎えの事を算段しながら、東京の小さな町で暮らしているんですよ。

 それだけの事なんです。

ブレイクします?

 大きくチェーンを広げるカフェが、学生やサラリーマンの「自習室」として運営されているのを最近よく見かけるようになりました。店舗の意図はそこには恐らくないのでしょうけれど、長くテーブルを占拠する学習者に、一般の来店者である私は肩身が狭い想いをする事が度々あります。しばしば幼い子供連れであると、甲高い子供達の声に余計に配慮しなければなりません。ゆっくりとコーヒーブレイクを楽しむ方々に対してであるのなら、それも納得がいくのですが、そこを学習机代わりに独占する方々に、何故、白い目で見られ、咳払いで牽制されなければならないのかが、未だに腑に落ちない私であります。心が狭量で申し訳ないと思います。とは言え、そもそもカフェとはそういうエリアであるのかしら、と、小首を傾げながら大急ぎで店を退出するのでした。

 殊更のバカ騒ぎはどの飲食店でも歓迎はされないでしょう。けれども、カフェ文化が発達した欧米ではカフェは憩いの場であるケースが主流です。親しい人との歓談に興じたり、美味な軽食を間に挟んで旅行のプラン作りを楽しんだり、そこで交わされるおしゃべりは時に華やかで、時に微笑ましくても構わないと思うのです。であるにも関わらず「ボサノバが流れる図書館の閲覧室」と言った様な体でズラリと自習者が頭を揃えているなんて。

 妊娠中や産褥期に長くカフェから遠ざかっていたので、その間に何の変革が起こったのかは分からないのですが、しばらくぶりに子連れで主人と共に訪れたカフェは、すっかり様変わりしてしまったかのようでした。ジュースを注文した長男は席に着くなり子供らしくはしゃぎ、少し高い声が出てしまいました。途端に、すぐそばの学生が(イヤホンで耳を塞いでいたのにも関わらず)上目遣いにこちらをチラリ。気配に気付いたのは主人の方で、子供達にサッサとジュースを飲ませてから私へ店から出るように促して来ました。来るんじゃ無かったなあと後から思いましたけれど、あのピリピリとした緊張感漂う客席は一体何だったのだろうとモヤモヤしました。ショートサイズのコーヒー一杯で、座り心地の良いソファで、静かな空間で、空調の利いた店内で、ほぼ閉店まで無制限に勉強にいそしむ事が出来るのは、さぞ快適な事だろうと思います。昨今では、長居する一部の客層へ注意喚起をする店舗も出て来たようですが、まだまだこれも強制力が働かない以上、どうしても馬耳東風の趣きではあります。

 先日出勤途中に持ち返りのラテを頼んで早々に店を出ました。時間が無かったというのが大きな理由でしたが、(行儀は良くないですけれど)自分のペースで歩き飲みした方がよっぽど気楽に感じます。憩う為に立ち寄ったコーヒーショップで、変な緊張感を強いられるのは本末転倒ですから。

 話は変わりますが。

 「EXCELSIOR CAFF●」のコーヒーが、美味しく感じられるようになっていた自分に、いささかの驚きを覚えました。のどごしが良く思えたというか、身体に無理なく行き渡る感覚になったのです。私独自の感じ方なので、解りにくいかとは思いますが言うなれば「経口補水液を含んだ時のように、一口ごとに全身に染みこむ感じ」です。大丈夫です、私の雑記帳なので、私が理解出来ればオッケーです。

 それまで私は、足しげく通う大手カフェチェーンと言えば「STARBUCK●」でした。街歩きの休憩に立ち寄る決まったルートの一つでしたし、会計用のカードも作っていました。けれども「それ」は唐突に訪れたんですよね。いつものようにグランデサイズ(約470ml)のラテを注文しました。ぬるめに作っていただいて、それをゴクゴク飲むのが私のスタイルでしたのでそうしました。が、その日に限ってどうしたのか、飲みきれなかったのです。体調が悪かった訳でも、気分が滅入っていた訳でも、お腹が一杯だった訳でもなかったのに、です。急に「重い」と感じてしまったんですよね。半分も飲みきれませんでした。

 それ以来です。「●TARBUCKS」から足が遠のいてしまいました。

 思い当たる理由はないのですが、想像するに、きっと私の身体が切り替わる時期だったのかも知れません。いくらか精神的な話の部類であるかも知れませんが、平たく言えば、年を取ったと言う事でしょうか。手に持ったグランデサイズのラテを「焦げ臭い」と思ってしまったのでした。濃く抽出した、エスプレッソベースのラテが芳しいコーヒーとしてでなくただの「苦い汁」であると、私の味覚が判断してしまったのですね。

 「身体の転換期」と言うのは私の場合、味覚に現れる事が多いです。ストレスを受けた時も、そう。普段は美味しいと感じていた物を、味気ないと思ったり、パサついた食感に思ったり、しょっぱく思ったり、色々です。

 時間が流れる中では、周囲が変化するのと同時に自分自身にも変化が起きると言う可能性を含んでいるのですよね。当たり前です、身体中の37兆個の細胞(60兆個という説は近頃、更新されたようです)だとて、日々、発生消滅を繰り返しているのですから、人そのものが変容していくのは、道理です。

 カフェの姿も変わります。私の味覚も変わります。自分の脳みそだけが、それに追いついて来ないだけで、けれどもいずれはその脳みそも最新のデータをインストールして頑張っていきます。急激な様変わりに付いていけない自分も、きっと、これはこれで「新しい自分」であるのかも知れません。そういう姿の、新しい自分。

 実は、この記事は昨日の夕方で一時中断していた記事なんです。今、続きを子供達が起き出して来る前の早朝に書いています。現在、朝、6時。レースカーテンの向こう側はすっかり朝の日差しです。昨日は雨降りでしたので、朝の空気はしっとりと濡れています。鳥のさえずりが聞こえます。静かなリビングです。

 ああ、美味しいコーヒーが飲みたくなってきました。

 変わりゆく私も、やっぱり美味しい物には目が無いし、古くなりつつある身体も頭もちゃんと毎日を豊かに味わって生きているんですよね。

颯爽っ、サイクリスト!

 5歳長男が20kg。1歳3か月次男が10kg。毎日の保育園送迎に次男をおんぶし、長男が通う保育園(兄弟で別々の保育園登園)で甘えた5歳児に抱き着かれでもしたら、私達3人でほぼ50ccバイク一台とシーソーが出来ます。

 育ち盛りの2人の兄弟、大きくなりこそすれこれから小さくなりはしないのですから、近い将来ハーレー・ダヴィッドソンとは釣り合わないまでも(何しろ330kgは車体重量があるそうですから)、男の子一人当たりスーパーカブ並み(新聞配達なんかで大活躍ですね、機動性抜群78kg!)には逞しく育ってくれる事を期待しております。

 勿論、もうその頃にはおいそれと抱っこして、おんぶして、手を引いて、などと言う事は出来はしないのでしょう(逆によぼよぼになった私の手を面倒臭そうに引いてくれるかしら)。あれこれと守ってやらなくてはならない事も減り、少しは生意気に好き勝手放蕩して、こちらの手を離れてもいくでしょう。うかうかと彼等に肩入れをしたところでうるさがられて終わりであるので、母もサッサと自分本位の娯楽に興じて身仕舞のそれぞれをコンパクトに整えて置くのが賢いと思われます。

 今、長男が熱中している自転車運転。4月の始めに(ストライダーを除いて)人生最初の自転車を購入。1週間ほど補助輪を付けた状態でペダル操作を確認、その後は補助輪無しで時々運転の難しさにモヤモヤとしながらも彼なりに少し向上した技術にまんざらでもない様子。苦手なのは坂道でのブレーキ使いで、勢いが付けば付く程、ブレーキでなく足で減速しようと試みる為、かなり危険を伴っています。スキーを経験した人は身に覚えがあるかも知れませんね。まだまだ初心者の頃は足で減速するのではなくて、手に持ったストックで何とかしようとしてしまいますね。付き過ぎたスピードを緩めるのは主に手元のブレーキレバーが重要であると言うは恐らく自転車に乗る彼も分かっているのでしょう。ただ、反射的に出てしまうのは足であるので、結果、幾度もこけてしまい、半べそで練習している日も有り。文字通り、これは体得せねばならない範囲の事なので何とか試練を乗り越えてくれる日を親も見守りつつ待つしかないという現状です。

 とは言うものの、後十年もすれば、この初々しい息子もモンスターみたいなバイクに跨り、ケツには彼女でも乗せて夜中を遊び回るようになるでしょう。門限クソ喰らえ、うるせえ、ババア、曳き殺すぞ、とか何とか可愛い事言うようにもなるんでしょうかね。そう考えると、おかしくもむなしくも切なくも楽しい子育てなのですが、親への反発、反抗、世間様への反逆なんぞは、人生の「生理」みたいなものですから、彼なりに迷いながら焦りながらモヤモヤしながら順調にこなしていってもらいたいモノと母は想います。

 5等身程の長男がヘルメットを被ると、ちょっと勇ましいキノコの妖精みたいになるのですけど、いっぱしに自分の自転車に跨る姿はやっぱり「男」なのですよね。保育園から帰宅して、夕飯までの僅かな時間を今は自転車練習に費やすのが彼の日課になっております。最近、多少はへっぴり腰ですが立ちこぎが出来るようになりまして、一歩前進した自分に少し悦に入っております。車通りの激しくない道ではわざと蛇行運転したり、誰にアピールしたいのか無意味にベルを鳴らしてみたり。自分が積極的に先行するくせに「おかあさーん、付いてきてる?」と頻繁に私の姿を確認。走りながら身体ごと首を後ろに向けるので危ないのなんの。「前見れ、前!」と彼の背中を叱り飛ばしながらこちらも妙な緊張感を味わいつつのサイクリング。仕事上りの疲れた体に鞭打って、続けざまの自転車教習。最近、私が疲労気味であるのは、どうもそのせいもあるのでないかと思っております。

 メタリックブルーの子供自転車。おもちゃみたいなこの小さい自転車を卒業して、息子はまた大きく脱皮します。次はまた通学用のママチャリにレベルアップするのでしょうか。「おかあさーん、付いてきてる?」なんて振り返る事もなくなって、友達同士で中間テストの話や、好きな子の話や、エロ本の話をしながら青春を過ごすのでしょうか。そうそう、かつての君が、泣きべそかきながら練習していたように道路で自転車練習をしている子を見つけたら、そっと道を譲ってやって下さいね。可愛い彼女を後ろに乗せたバイク姿の君であっても、癇癪起しながらも自転車に乗り続ける小さな子を見つけたら、黙って道を譲ってあげて下さいね。懸命にペダルをこぐ幼い君の姿を、大勢の人が温かい眼差しでそうして見過ごしてくれたように。

 明日もまた晴れるといいね。さあ、胸張って頑張ろうぜ。君のサイクリングコースは、今、スタートしたばかりなんだからね。