あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

ことのはさらさら

 大それた事を言うつもりはありません。言葉を大切にしなさい、とだけ、子供達には言い残したいのです。特に、相手に伝わる形に変換された言葉に関しては、よく考えた上で発して欲しいと思います。

 言葉は時に非常に軽くなります。向こうに届く前に、淡雪のように消えてしまう事もあります。想いを乗せて送り出したにも関わらず、無情にも砕けて霧散してしまうのも「言葉」です。

 言葉は時に非常に重くなります。打ち放す前から、響くような振動を発している事もあります。さして意図しないにも関わらず、思いがけない破壊力を持つのも「言葉」です。

 敵を攻める道具にも使えます。味方を鼓舞するアイテムにもなります。病める人を救う事もあります。喜びをもたらす知らせともなるでしょう。

 何より、言葉は「人」を創ります。言葉を遣って考え、言葉を遣って描き、言葉を遣って伝え、また、自分へと還って来る言葉を紐解いて、解釈しなくてはなりません。

 世には浪費される言葉もあります。ブログの記事や、ラインのメッセージや、新聞の広告なども一過的です。

 使い捨ての言葉の海で、決して流される事なく、見誤る事なく、我が身を磨く金言を子供達には見つけてもらいたいのです。

運命=不運←そんな方程式、いらなくないですか?

 「それが運命の人なら、例え、貴方が引きこもってたって必ず出会う」。最初に就いた仕事場で、同性の先輩に頂いた言葉です。序列の確固たる部署でしたから、彼女は年下でしたが、先輩でした。思いやりの深い、とても利発な方でした。面倒見も良く、決して相手をないがしろにしない頭の回転が速い人ですが、時々、とんと的外れの事も真面目な顔をしてやらかしてしまうので、緊張感が漂う場にも柔らかい笑いを連れて来る存在でした。

 運命と言うものが、私達の人生にきっと訪れるモノであるのだとしたら私達が明日を目指している限り、容易に振り払えるものではないかも知れません。けれども、その運命とやらが「不運」と絶対に言い切れるものではないはずです。幸運を願って希望を結ぶのですが、たまたま踏み外した先が不運という形であるに過ぎないのです。性に合わない人が上司だった時もそう、不得意な仕事を振られて苦しんでいる時だってそう、私達は何とか「不運」と格闘しながら毎日をしのいでいます。

 不運と折り合いを付けるのは本当に難しいです。だけれども、それこそが運命なら、自分に温かい涙を流せる瞬間も、泣けるほど有り難い抱擁をくれる人にも必ず「出会う」。

先輩、好きです!

 思い込んだら、命、命、命懸けよ、なのは『さそり座の女』です。今風肉食系女子そのままですね。待っている人ではなく、好きな人には自分の想いを知らしめる姿勢、見上げたものです。

 私はあいにくさそり座ではありませんが、意思表示は積極的に行うタイプです。保護者会に出席した折、初顔合わせの時にしばしば保護者の方々が自己紹介をします。一言コメントを発する機会がありますね。締めくくりの言葉などに「気軽に話しかけて下さい」とおっしゃる方がいます。ツイッターや他のSNSでも「よろしければ友達になって下さい」や「コメントお待ちしております」と受け身を取る方が多くいます。どちらかと言えば、私は厚かましくも「お友達になりましょう」とか「今、話題にされていたソレについて、少しお話聞かせて下さい」と分け入ってしまいます。能動的な私にウェルカムな方もいらっしゃいますし、距離の取り方がおかしい私に怪訝な顔をする方もいらっしゃいます。やらぬ後悔は、やった後の悔いより根深い、というのが持論の私です。要するにいつまでも幼稚なのでしょうね、根本の所が。

 でも、握手にしろハグにしろ、大好きな人に、私は「好き」と素直に告げたいのです。

改めて、あかりの灯る森にしよう。

 世界人口77億人分の150人。余りに分母が大きすぎるので「宇宙から見た、秘境の一軒家」のような印象でしょう。77億分の150が、私の『あかりの森』を訪れて下さっています。しかも、通り過ぎるだけではなくて、その150人の方々は定期的にピクニックであったり、森林浴であったり、折々に私が暮らす森へ嬉しい訪問をして下さる方々なのです。

 77億人が、どれだけ膨大な数であるのか、数学に疎い私にはピンと来ません。が、日々かわるがわる、私の日記(雑記)を覗きに訪れて下さるのは本当に驚くべき事です。

 ブログなる物を意識していなかった頃は全く縛られる事もなく野放図であったと思います。1人増え、2人増え、お客様が来られる度、私は「せっかく足を運んで下さっているお客様に得るモノがあるのなら持って帰っていただこう」と背伸びするようになりました。自分の為に育てている森の樹々を、きらびやかに飾り立てたい気持ちになってきてしまったのです。

 立ち止まって考えれば解る事でありました。合わない靴を無理に履き続けていると、靴ズレを起して手に負えなくなると。

 一本の木を大切に植える農夫に戻って「野放図、野放図」。呪文のように唱えます。

 

 

(来て下さる方々に感謝を忘れず、だけれども、この森を育てていこうと思った初心を忘れず、一つ、一つ、清い光が灯りますように、お祈り。)

白い繭

 息子達が泣くと、私もどうしてか胸がギュっと絞まって、泣き出したくなる事があります。感情のままに心を表す子供に気持ちをかき乱されるとか、イライラが募って来るというのとは、全く違います。

 私の子等は、意志表現が澱みなく出来る方ではありません。むしろ、朴訥、素朴、時に不器用、まどろっこしいのです。彼等が流す涙の意味を、しっかりと汲み取ってやれない時もしばしばあります。私とて、人の機微を読み解くのに卓越しているタイプではありませんので、我が子との事ながら解釈の違いも起こります。息子達にしてみると、物分かりの悪い不便な親であることだろうと思います。

 まだ、独りで引きこもり、外界とのコンタクトを遮断してしまえるほどの大人ではない息子等ですので、高ぶった胸の内を持て余して結局は、母である私に抱きついて来ます。どうにもならない事をどうにかして欲しい、そんなSOSを発してもいるのでしょう。

 私は、子供等の身体を抱いて、隙間など無くなるように、ただ、ピッタリと寄り添って、抱き締めます。解決の糸口に当てなどありません。病気でも熱でもお母さんに移しなさい、とそんな子供だましを本気で馬鹿真面目にひたぶるに祈りながら。