あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

気の良い奴等

 私の台所には、相棒と呼べる3つの『神器』があります。

 ヒバの一枚板のまな板、南部鉄器の鉄瓶、シノブの鉢植え。

 ヒバのまな板は、とにかくカビに強く、包丁の刃当たりも真に心地良いのです。切った食材も滑りにくく、何より、香りが清々しいです。使い始めて1年半になりますが、表面は刃傷が無数に残るものの、食材を安心して切る事が出来ているのは一重に材質そのものの抗菌力のお陰です。使い始めには軽く湿らせてやる一手間と、使い終わりには陰干しと乾燥の工夫が必須ですが、それもまた道具への愛着が増す作業ではあります。

 鉄瓶に関しては、とにかく湯の沸く時間が短い事が良いです。重さという難点はあるにしろ、熱伝導が素晴らしいです。使い終わりにはこれも完全に乾かす必要がありますが、手軽に鉄分が摂れますし、何より湯冷ましの水までまろやかになります。毎朝、私は必ず紅茶をいただくのですが、これで煎れたお茶はお世辞でなく美味しいです。

 そして、窓際に置いて育てているシダ類の「シノブ」。日本の気候で育つ種ですから、特別な温度調節は要りません。寒々とした北向きの窓辺で、たくましく緑の葉を茂らせています。疲れた時に私を和ます健気な奴です。

創作:『夏酔い奇譚』(続き?)

http://akarinomori.hatenablog.com/entry/2018/07/13/173138

 

↑の続きみたいなやつ、つらつら。

 

⤵ 侍と、私(商人)、ちょっと面倒な関係について。

 

 

 竜殺し。

 そんな物騒な文言は、今、手にしている瓦版のどこにも載ってはいない。木組みの台の上、声を枯らして派手な身振りで、瓦版屋の男は目の覚めるような巧妙な呼び入れをしていた。どこそこに火つけがあったの、誰それが裏金をばら撒いているの、空き家の取り壊しで由緒ある仏様が掘り出されたの、言葉巧みに往来の面々を呼び止める初老の男から、ついぞ、昨日の一大事は喧伝されはしなかった。

 「竜殺し」

 改めて呟いてみたが、とうの自分も実感がない。大川の側で、我が眼で見届けた前代未聞の「大罪」であるのに、まるで絵空事か化け狐の幻惑かのようなおぼつかない心持ちでこれを持て余している。

 隣町の隠居宅へこれから頼まれ物を届けに上がる。急を要する品でもないので、通い慣れた道をいつもの具合で歩いている。だからなのだろう、余計に要らぬことばかりが頭をかすめて仕方がない。何となく手に取った瓦版を、こうして見るともなく懐から取り出して眺めるだけの悠長をしている。

 「夢でもみたのだろうか」

 水面に踊った巨大なアレと、凄まじい水飛沫の中で白刃を一閃させる若侍と、飛び散る赤黒い血と、天から睨み付ける鏡のような「眼」と。

 胸にははっきり焼き付いているのに、見定めようとした途端に遠ざかる。逃げ水の如き頼りない記憶である。そもそも自分は、アレを何故「竜」と思ったのか。

 どのような有様であったか、まともに見極められもしなかったのに、である。自分を背にして、眼前に立ちはだかる痩躯の侍がそう口走ったから、これに違いないと思ったに過ぎない。

 返り血で染まった刀を握って、若い侍は笑っていた。

 虎退治をすると言って、時の将軍に屏風の虎を追い出してくれと所望した一休禅師の逸話が、頭に浮かんでは消えた。人というのはおかしなもので、気が動転している時に限って、何の脈略もない事を思い出してしまうらしい。

 切り伏せられ、水柱を上げて元の川面に沈んだ物の怪を見下ろし、若侍は忌々しそうに袖口で頬の血糊を拭っていた。汚れた刀は乱暴に一振りしたきり鞘に納めたが、後で錆びはせぬかと、私はここまで余計な世話を心で焼いていた。

 流れのさして速くはない川ではあった。瞬く間に水泡は押し流されて、すんと澄ました元の表情で水を湛えていた。

 「悪さをする輩もおるのだ」

 軽く裾をはたいて侍が言った。

 「あ、はあ」

 腰を抜かしてしまっていた私は助け起こされて、茶運び傀儡の人形のように呆けた顔で立ち上がった。

 間もなく彼とは川の袂で別れて、それきりとなってしまったのだった。

 使いの途中で足を止めた辺りはちょうど目の前が橋のかかりであった。下に流れる大川の水は、今日も満々と青いうねりを見せている。見慣れたこの水流のどこかに、我々の計り知れぬ異形の影が蠢いていると言うのは奇異である。馬鹿々々しいと一蹴出来ればどんなに心安かろう。私はふらふらと欄干に歩み寄った。

 橋の表を足早に往来する人々が、急に呑気で底の知れぬ能天気に思われてきてしまった。かく言う自分とて、つい昨日までは、天下泰平のその能天気を絵に描いたようにして暮らしていたのだ。人という生き物は真に仕方の無いものだと思う。

 「悪さをする竜」

 重くその言葉が、肩にのしかかった。

 「おいおい、おめさん、そんなに川を覗き込んでちゃあ、魅入られちまうよ」

 離れがたく欄干に寄りかかっていた私に、その時、涼しい声が掛けられた。

 弾かれたように顔を上げると、相手は下駄の歯を快く打ち鳴らしながら近寄って来た。

 やはり昨日のような気流しに、見覚えのある大小を二本ぶら下げている。

 「旦那」

 「油売るのは陽が陰ってからにしな、昨今のこの陽気じゃあ、脳天の先からうだっちまうぜ」

 気安く欄干にもたれかかり、気の良い笑顔をこちらに向ける。

 相変わらず惚れ惚れするような男振りである。奥向きの女房衆も放ってはおくまいと、私はまた余計な事を考えなどした。

 「商売の最中だろう」

 私の手の中の包みに目を止めながら、相手が顎をしゃくった。

 「相手さんを待たせるのは、色町だけにしとくがいいぜ」

 「何でございますか」

 不調法な私には、握り拳に小指を立てている若侍の意図が汲み取れなかった。

 「つれぬ、つれない池の鯉とか、あだや忘れぬ真の恋は、流れに勝てぬ浮葉のそれの想いの影にぞ、泣かれける」

 節を付けて良い声で歌う侍は、どうも女郎屋で流行っている戯れ歌らしいものを捻ったようだ。謡のしまいには、妙に婀娜めいたニヤニヤ顔で、艶事には一切頓着せぬ私へ視線を流して寄越した。しらふとは勝手に推察していたが、案外、廓帰りのほろ酔いであったのであろうか。にしても、酒の匂いもせぬし、歩容もしっかりとしている。また例によって、戯言の類でもあろうか。だとすれば、随分と、馬鹿にしている。

 そんな事をつらつらと行きつ戻りつしていたところ、また彼からこちらに声が掛かった。

 「なあ、昨日の竜殺しの事なんだが」

 腹に響く甘く低い声でこう切り出され、私の身は一気に引き締まった。襟首をグッと掴まれる思いがした。

 鼻先で嗤った侍が、今度は、実際に私の首へ腕を絡ませ、顔を近付けて息を顰めた。

 袖に隠れて分からなかったが、触れて来るその腕の感触は、練り合された鋼の糸の如き抗いがたいしなやかさを持っていた。

 「やっぱり、おめさんには、アレが見えてたんだな」

 男の影が、私の肩を抱いた。

 「おめさんに話がある、ちょっとそこまで顔かしてくんねえか」

 否も応もなく、私はいつぞやの茶運び傀儡に戻って、ひょっこりと頷くばかりであった。

 

 

 

⤵つーびーこんてぃにゅー……すんのかな?

重要なのは「皮膚より下」って事です。

 失敗を正す事が出来るという能力は、実は物凄い事で、失敗をせずに物事を推し進める事が出来るという事よりも工夫と知力が必要な事なのです。失敗して学べる学習能力も試されますし、何より落胆している自分をあえて鼓舞する事で忍耐力を鍛えられるような気もするのです。そうは言うものの、楽しい出来事が多いに越した事はありません。傷付かない方法があるのなら、それを会得したいのも人の情ではあるでしょう。

 悲観せず、敗因を分析し、もう一度組み立て直してやり直す、このローテーションには予想以上のエネルギーがいりますし、これを産み出す底力も要求されます。だからこそ、やり遂げた時の達成感は病みつきになりますし、本気で良かったと感激する事も出来ます。

 サクセスストーリーが胸に刺さるのは、きっと、後半の辺りにある「主人公の葛藤」や「思いがけない苦悩」があるからなのかも知れません。何不自由ないお金持ちのハンサムが、豪邸を舞台に、順風満帆な恋愛をしたって「全米」は泣きません。

 頑張る人は、絶対にチャーミングなのです。美醜の問題ではなく、皮膚よりも下から発動される「色気」の問題です。

 負けた「けど」頑張った、それだからチャーミング。

好奇心が猫を殺すって?それで死んじまうような猫は、それだけの猫だったってことさ。(ハードボイルド?)

 ある占い師さんがおっしゃいました。「貴方は1つの場所に留まって居られない人である」と。場所は、「状態」とも言い換えられますし「時間」とも置き換えられるとの事でした。「飽きっぽいと言う事でしょうか」と尋ねると、そうではなくて、安定した途端にその状況に不安を感じる人なのだと言うのです。けれども心配性であるのとは違うようで、言うなれば定住型の人間ではないのでしょう。農耕よりも狩猟、安寧よりも波乱を好む星の元なのかも知れません。

 確かに目標を持って進んでいる最中は高揚感があって実に楽しいです。目的地にたどり着くまでに、あれこれ方法を考えている時は心が躍ります。頂点に登り、自分が来た道を眺め下す折の達成感は格別です。でも、そこで私はすでに次に向かう道の事を考え始めているのです。満足感がないのではありません。臆病なのでもないと思います。純粋に、その次のシナリオを思い描く事にワクワクしてしまうのです。私を訪れる失敗も成功も、哀しみも喜びも、この瞬間の私の頭には恐らく何一つ無いのです。

 無邪気だと、笑いたくなります。無防備だと、情けなくなります。ですが、ワクワクしてしまうのだから仕方ありません。悪癖です。

私に与えられた「幸い」は、きっと次の人への贈り物であるんだよなあ。

 素晴らしい事があった日も、沈むような事があった日も、ちゃんと「当事者」でいたいものです。喜ばしい事があった日は、相手のお陰を感謝していたいですし、悲しむべき事があった日は、自分を見つめ直していきたいのです。その為には、何事も、無責任でなく「当事者」で有り続ける事が、とても大切であるのではないでしょうか。私という人間が、普段通りの何のてらいも無い私でないと、当たり前に感じられる幸せや不幸せや、気付きや希望は両手に握り締められないと思うのです。

 甘い事だけが良い、酸っぱいモノは嫌い、と子供のようにあっけらかんと好き嫌いを言ってのけられれば自由ですが、一通りの我が儘を子供時代にこなしてきた私達には、今更、重ねての気ままはとても厚かましいのではありますまいか。あたたかい眼差しで、かつての私達を許して来てくれた大人達のように、私もまた、誰かを許していられる大人になりたいと思うのです。幸運にも多くを許されて来た人は、たぶん、水を満々と湛えた水瓶で、汚れてしまった人を心行くまでジャブジャブ洗ってあげられるはずです。

 涙でヨレヨレになってしまった相手の顔を、綺麗な布で拭ってあげられる、そんな人に憧れます。