あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

あきらめなよ、どうやったってヒーローって柄じゃないんだから。

「無くては困るモノ」と「有ると便利なモノ」は、常に精査しなくてはいけないと思うんですよね。巷で流行している断捨離の基礎概念の一つでもあるのでしょうけれど、もっと踏み込んで言えば、自分にとって何が大切であるのかを炙り出す作業とでも言い得るでしょうか。

 「有ると便利なモノ」を手放すと、その瞬間は寂しくなったり心もとない気持ちになります。捨ててしまった事に対する後悔や、自分の早合点への恨みが生まれて来る事もあるかも知れません。だけれども、しばらくすると傷口はちゃんと塞がって、元通りというわけではないにしても、痛みを感じる神経が鈍くなったり、ともすれば、新しい肉が盛り上がって別の仕様へと変化を遂げる事もあります。

 逆行してあえて不便な生活を営もうと言うのとは違います。スッキリしない、鬱陶しく風通りの悪い場所を整理整頓し、几帳面に剪定し、心地よい余白を産み出し身軽になる過程を楽しもうという話です。ギュッとモノが詰まった場所で、自分自身までがまるでブロックピースのように組み込まれてしまっている状態では、自由に手足も動かせず、息苦しく、気詰まりであるという事をもう、早く気付いた方が良いのだろうと思うのです。モノは「物」でもありますし、「者」でもあります。抽象的なモノ=感情、でもありますね。手放す時の感傷が、間を置かず新しい心地よさに生まれ変わるのだとしたら、古いモノにしがみつく体力を、もっと有意義に使用できる場所を、いち早く探し始めた方が幾倍も価値があるようにさえ思えます。

 かく言う私も、なかなかに未練がましい面を持ち合わせており、一枚のシャツをゴミ袋に入れるにも何のかんのと思い出を掘り返してしまいます。最後には意を決して目をつむるのですが、そこに至るまでには少なからず、自分を納得させる必要が発生します。「有ると便利なモノ」に支えられている生活が肌身に馴染むと、こういう弊害もあるわけですよね。便利なモノは、時に、子育て中の綱渡りの世界では一分一秒を稼ぎ出してくれる事もあるのですものね。それに見切りを付けると言う作業は、現役世代には真に骨の折れる事と想像します、また実感しております。

 いっそ、律儀でなく、ずるく生きた方が心が喜ぶのかも知れないなあと頭に過ぎる事があるんですよね。自分の中で戒めている事を、思い切ってやってみる、人の目を極力見ないようにして悪い方へと踏み出してみる。ガチガチに凝り固まった自分には最初の一歩は足がすくむ程恐ろしいのですが、深呼吸一つ、えいや!っと飛び越えてみると違った景色が見て来るような気もするんです。

 取捨選択して、上手に捨てる、きっちり選抜して上手に拾い上げる、こういう事はそれに携わった経験数でしか身につかない技術であると思います。鑑定士の訓練と同じく、よく観て、触って、観察して、価値を見つける、この繰り返し練習でしか、石クズの中から宝玉の原石は見つけられないのではないかと思います。捨て間違っちゃった、拾い損ねた、時々味わう苦い想いがきっとあっても良いのです。自分を馬鹿にする人が周囲にたくさんいたとして、その潮流に流されて(いやいやでも)馬鹿を演じていてはいけないのだと思うんですよね。放置された自転車のカゴに、小さなゴミが放り込まれたとしてそれを放って置いたら次の日にはジュースの空き缶が投げ込まれています。またこれを放って置いたら、その次の日にはスナック菓子の汚れた空袋が追加されています。もっと知らない振りをしていたら、10日後には自転車のカゴがゴミで覆い尽くされています。そうして、そのゴミの重さに耐えかねて、自転車は無残に道端に倒れ込んでしまうのです。自分を大事にすると言う事は、ちょっとそれと似ている気がするのです。過保護にするのでなくて、大切に見守ってやらないと、周りからも当たり前ですが大切にされるわけがありません。嫌な事は嫌、もう、自分を粗末に扱わない、そう言った事も広義では「無くては困るモノ」を丁寧に扱うという事の様な気がします。

 断捨離は、単なる身辺整理には止まらないと思います。根本的な意味で言うところの、自分の命の価値を見つめる作業ではないでしょうか。失ってはならない絆、不必要だけれど何となくあると安心した気になってしまう繋がり、決して手放してはならない思い入れのある品、見栄や矜持だけで側に置いてある厳めしい装飾品。

 無理に自分を変えようとする必要はさらさらなくて、やらなければならない事はただひたすらに自分自身の姿を正面から捉えてやる事です。本当は何がしたかったのかを入念に聴いてやる、どういう事に心が躍るのかを丁寧に見極めてやる、サインを見過ごさないように慎重に、歩幅を小さくして、吐き出す息をいい加減でなく、深い温かな濃いものにしてやる、それだけの事をチマチマと馬鹿真面目にやってやるだけでいいのだと言う事です。

 頑張るのも良い事です。でも、同じくらい頑張らなくても良いのです。「無くては困るモノ」だけに研ぎ澄まされた自分であったなら、この先進む道が分かれていたとしても、必ず迷わず、望むべき場所へ辿り着けるでしょう。誰を羨む事もなく、誰を罵る事もなく、恥ずかしがらずに、信じたモノを裏切る事なく自分の足で進んでいける力がありますから。

 多くの色を無制限に混ぜ合わせれば、鮮明さは失われて、ニュアンスもぼやけて、結局のところ、何を訴えたいか分からないモノが出来上がります。薄いにしろ、深いにしろ、淡いにしろ、重厚なのにしろ、濁らない色彩は見る人の心に突き刺さりますし、混じりけの無い主張は相手の想いと対等の立場でちゃんと独り立ちして対面できます。くすまないように、曖昧に解けてしまわないように、それでいて肩肘張らずにふんわり笑っていられたら、とても良いですよね。

 譲れないモノを抱えた人は、強いです。見据える先を知っている人は、強いです。

 「断捨離」という流行りの言葉を消費するだけでない、本物の「持たない人」は、いずれにしろ無限にある自遊空間の中で、それこそ楽しそうにそらっとぼけています。説得力のある笑顔で全部を出し切り、やっぱり次の日も、その次の日も、無限にある自遊空間の中で、そらっとぼけて笑っています。

 ピカピカの綺麗な魂をヨーヨーみたいに振り回して、「彼」はきっと全速力。