あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

私達を囲む物

 どれほどの「物」に囲まれていれば、私達は安心感を得るのでしょう。引っ越しをして、箱詰めしなければならない私物の多さに私は改めて驚いてしまいました。引っ越し業者の方に見積もりをしてもらった際、事前に箱詰めする荷物に応じて箱を手配してくれます。この時、実はその数は私の想像よりも遙かに多く、物を持たない主義を自称していた私としては「ちょっと見くびってくれるなよ」という気持ちにもさせられました。

 ところが、いざ荷造りが始まり、あれもこれもと箱詰めしていく内、業者の方が用意して下さった箱が瞬く間に無くなっていくのです。最後の物品を荷造りする頃には、これを詰めれば、あれが入らず、あれを詰めれば、これが溢れる、というようなパズルの絵合わせみたいな状態になってしまいました。結局、私が今回の引っ越しに使用した箱数は大小合わせて30でした。しかも、当たり前でありますが、大型家具、白物家電などを省いてのボリュームです。

 家移りを計画してから、捨てる物もありました。季節外れの衣服、もう使わなくなった子供の玩具、読み飽きた雑誌、リサイクルにでも回そうと思っていた電子レンジまで。

 本当に思い上がりであったのですね。自分では「削られるところは、全て思い残さず削った」ような「気になっていた」だけだったのです。

 私の場合、大きな家、つまり「入れ物」から更に小さな「入れ物」への移動であったため、その事態が特に際立ったのだと思います。

 物を持つという行為は、そもそもがその人の「心配」が原因になっているケースがあるのかも知れません。今、この服を捨ててしまったら後悔しないだろうか。大切な人からいただいたこのお皿はずーっと使ってはいなかったけれど、いつか使う日が来るかも知れない。子供が保育園で作った(何を表現しているか判別不能な)作品だから(この先、飾って鑑賞することもないだろうけれど)とりあえず、取っておこう。そういったあらゆる「もしも」を私達は根拠さえないにも関わらずとても揺るがしがたい信念でもあるかのように「物を持つ」事で補完しようとしているのですね。

 では、そのように後ろ髪を引かれながら、泣く泣く手放した物を、今もって残念に思い出しながら日々を過ごしているかと言いますと……。

 人の気持ちは不思議です。一度、捨てると思い定めた物への執着は、存外、薄情なほど心に浮かんで来ないものなのです。身ぎれいに潔く暮らす秘密。

 

 

(1000文字雑記)