『好きな事だけして生きていく』っていうハイセンスな提唱に、おばさん、ちょっとだけ付け加えさせていただいても構いませんか?
人は慰められたいものであるのでしょう。我が身の正当性を気持ちよく肯定してくれる存在をいつも探してもいるのでしょう。書店にもコンビニエンスストアの陳列棚にも、生きづらい想いを抱えて働く我々を、丸ごと許し励ましてくれる内容の書籍は並べられています。
「好きな事だけして生きても良いんです」。正論です。正論なのですが、その「ワンフレーズ」が私達の生活で必要な全てを言い表せているか、というとこれは違うんじゃあないかと思うんです。
しかしながら「辛い仕事を我慢してやっている」から「対価としてお給料をいただく」という流れの中にいるのは、職業選択の自由が保障されている日本での本来の就労の姿ではありません。そもそも仕事とは何ぞや、です。
私が考える仕事の概念は「自分以外の人の利益になる行動を行えているかどうか」なんです。就職活動をすると、必ず志望動機の記入欄を埋めなければなりません。面接試験でも質問されるのは必至です。個人事業主でも、フリーランスでも、そこにある仕事は、必ず、誰かの生活の一部を支え、肩代わりし、補助し、豊かにし、より良い提案を行う為に発生しているはずなのです。一見、きらびやかで自由に見える芸能人でも、演技で観客を興奮させたり、絶妙なトークで楽しませたり、美しい容姿で惹きつけたりする事によって相手の気持ちを揺さぶっています。画家や音楽家が与えるのは感動、医師や看護師が与えるのは苦痛の緩和や治癒、保育士が与えるのは子供達の日中の安全と各保護者が安心の元に就労出来る確実な時間帯。
自由な働き方が推奨されて久しく、「就労=苦痛」の渦中にいる人々には「働き方改革」なる言葉は甘く聞こえる事でしょう。
ですが、仕事の真意というのは、誰かの一部になる事です。極論を言えば、ニートも立派な仕事です、側に居る人に「必要とされている」なら。娘・息子をいつでも側に置きたいと思う親が、満足しているのであれば、全く問題ではありません。むしろ推奨されるべきです、その家庭においては。
大切な事は、仕事をする上でたった一つです。
自分がやりたいと思っている事が、人の役に立つかどうか。簡単です。自分探しなど、しなくても良いのです。「自分」は最初から「そこにいる」のです。
好きな事だけしてなおかつ「誰かの役に立ちながら」生きても、良いのです、私達は。
「誰かの為に」好きな事を思い切りする事。それが「仕事」です。