あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

沙羅双樹の花の色

 「経過観察です」と医師から言い渡されたポリープが私の胃には5、6個あります。バニラ味のバリウムを、必死の形相で飲み下して巨大な検査機械の寝台の上で、あっちへゴロゴロ、こっちへゴロゴロ。身体を回転、反転、捻って、仰向け、うつ伏せ、からの「逆さ吊り」。様々なアクロバットを繰り広げた後の検査結果でありました。

 ストレス性のポリープだという事で、これらは以前の職場に居る頃に初めて見つかったものです。発症の心当たりは有るのです。あの頃の私は精神的にかなり辛かったので、恐らく、そういう内的重圧が引き金であったろうとは考えています。

 この頃、ふとした時に浮かぶ事なのですが、私はガンで死ぬと思うのです。言い切ってしまうのは尚早ですし、軽はずみなのですけれど、遺伝的な根拠はあるのでその予想は少なからずあてずっぽうではないと思ってはいます。母方の祖母を失った原因は乳癌です。父方の祖父を失くしたのは骨髄性の白血病でした。そして実父もすい臓がんで亡くしています。私が幼過ぎて死因にまで思い至らなかったのですが(未だ、周囲の方々に訊けていませんが)たぶん、母方の祖父も系統の似た病気を得て亡くなったと思います。

 死ぬ事を美化するつもりも、無暗に騒ぎ立てるつもりもないのですが、時々、想像する事があります。私は女性の平均寿命で言うところのおよそ半分までを、もう生きてきてしまいました。この先、不慮の事が無いのなら折り返し地点を回ったのです。40歳になり、急に自分の視界が拓けたように感じていたのは、きっとそれは当たり前の話で、誰でも山に登れば頂上からの見晴らしが良い事に気付くのに似ているのだと思います。眼下に広がる景色の色彩に、ずっと煩わされていた事を懐かしく思い起こしたり、切り立った足元に瞬間的な不安を覚えたり、寄りかかる物の無い孤独な頂点に無限の解放感と虚無感を思い知ったりしながら、人はそれこそ「一人で立っている」事を実感するのでしょう。

 人は、死にます。

 それは動かし難い事です。

 どうせ、死ぬのに、どうして人は生まれて来るんでしょうか。より良く生きる為とか、この世の中に何かを残す為とか、次の世代を繋ぐ為とか、この命の理由づけは今生きる人達の数だけ、それぞれ存在する事でありましょう。現代に暮らす人だけでなくて、それ以前の人達の考えた「存在意義」をも勘定すれば、それこそ生きる価値、生きる意義、そういったものの定義づけは夥しい数量に上ります。それほどまでに生きると言う事は、ともすれば難解で、ともすれば興味深く、ともすれば恐ろしくも、人の生活の中に密着しているのだとも言い得るかも知れません。

 決して、暗い話をしている訳でも、消極的になっている訳でも、この先を悲観している訳でもありません。死ぬ事が、生を全うした人の一つの終止符であるのだとしたら、ありふれた考え方でありますが、その人が望む最期であるのが究極の理想形でありましょう。誰にも嘆かれない死であるのも良いです。誰にも悔やまれない死であるのも良いです。想い続ける相手に、何かを残して去って行ける死であるのも、きっと尊い事です。一つが終わる事に意味を持たせたいと考えるのは、どこか深い部分で、私達がさみしさと結び付いているからなんだろうと思います。無意味な終結であってはならないと、決心しているに違いないのです。無駄な終焉であっては悲しいと、無意識に心を守っているからに相違ないのです。「子供を残して先には死ねない」とか、「やり残した仕事がある」とか、「まだ見た事の無い美しい風景がある」とか、「あの人に会うまでここにいたい」とか。繋ぎ止めていくれているものに煩わしさは感じません。むしろ、私を奮い立たせてくれる有り難い物であると感謝しています。貴方がいるから頑張れる、先に進みたいから乗り切れる、そういう事はやはり往々にしていくらでもあるものですから。

 人は、死にます。

 それは、動かし難い事、かも知れません。

 ふとした、とてつもない焦燥感と寂寥感とを伴って、私を潰しにかかってくる厄介な事実です。私の腹の中で眠っているポリープが果たして私の命をもぎ取る強敵となるかは分かりません。臨終の間際まで末永く仲良く暮らしていける相手であるかも知れません。もしもこれから与えられる苦しみや苦悩を、抵抗できずに運命として納得して行かないとどうにもならない事態に陥ったら、その時はまた今とは違った物の見方が出来るようになっていると思います。小難しい事は解りません。最悪の事態を回避出来る知恵も浮かびません。無くても困る物はまだまだあります。未練は言うに及ばず、欲望が干上がる事もないでしょう。

 人は、死にます。

 決して覆らない真実ではありますが、それでも私は、この毎日が愛おしい。いづれ、諦めなければならない、手放さなければならない毎日であったとしてもそれらを見渡して結論付けて生きていくには、40歳はまだまだ幼稚過ぎるようです。

 私がいなくても、こうして目の前で自由に遊び回る息子達は大丈夫です。少しの涙と、一瞬の哀しみが彼等を訪れるとしても、それでも彼等はその苦難を乗り越えていくでしょう。解き放ちたくないのは、たぶん、私の方であるのですね。見守りたいと思っているのは、私の方であるのですね。子供達の周囲には、多少苦痛でも、助けてくれる大勢の人達と支えてくれる大きな愛情とが用意されています。

 生き死には、簡単な摂理であり、難解な出来事でもあります。

 生きて、死ぬまで、私達はコレに支配されているのですから、悩みの種になるのは至極当然の事であるのですよね。だけれども、残される人が幸福であるのなら、残されていく景色がまるで濁りの無いものであるのなら、そう、それだけで得難い幸福ではないかとも思うのですよね。

寝かし付け作戦必要無し。寝ない子は寝ないでよろしい。悪モノなんてどこにもいません。

 誰の育児論でもありません。幼い頃の自分がそうであったかは、憶えていません。いつの間にか我が家がそのようになっていた、というだけの話です。

 我が家では時々手こずりはしますが寝かし付けを苦行だと感じた事はありません。誇張ではなくて、寝かし付けを実際に担当している私が実感している事です。相手にしないといけない息子は5歳児と1歳3か月児。兄の5歳児に関して言えば、新生児の頃を除いて、恐ろしい程の「安眠型」男子でした。水分補給をさせる為に、わざわざ夜中に起さないといけない(と、保健所のお医者様から指導を受けたくらい)レベルの爆睡赤ちゃんでした。寝入りばなは、少しぐずぐずはするものの、深い穴に落ちるようにストンと熟睡してしまう睡眠スタイルです。それは、成長した今でもそうでお風呂上りに歯磨きし、そのまま敷布団の上でゴロゴロしている内に寝てしまいます。そして、その眠りの深い事。眼を瞑って動かなくなったな、と思ったら身体ごと持ち上げようがピクリとも動きません。

 一方、弟の1歳児はどちらかというと眠るのが苦手です。手足、頭、頬っぺたがホカホカと温かくなって、身体からはしきりにネムネムオーラが発散されているにも関わらず、何故か「頑張ってしまう」タイプの人なのです。私にも身に覚えがあるのですが、やりたい事があったり、ふいに眠気を邪魔された時、休眠モードに切り替わっていく身体がボワボワと緩慢になって言う事を聞かない時があります。全身が不自由な状況で、意識だけが覚醒していると、その摩擦というか食い違いで、何だかイライラしてしまうような感覚です。眠い身体と、眠る準備が整わない頭。大人であれば、眼を閉じて安静にしていよう、という判断が出来ますが赤ちゃんには殊の外それが難しいようです。まず「ねんね」イコール「目を閉じる」という作業が結び付かないんですよね。目からの情報は、人間が得る情報量の過半数を占めていると言われます。ですから、目を開いている状態というのは、常に刺激に接している臨戦状態である訳です。自発的に目を閉じられない赤ちゃんにとって、もう、それだけでイライラの蓄積に成り得ますから、我が家では、就寝時は必ず室内は豆球にしておきます。いきなり暗くするとそれも逆効果で、見えないもの=そこに存在しないもの、と考えてしまう赤ちゃん脳では、さっきまで見えていたお母さんの姿が消えちゃった!となり余計パニックになってしまいます。

 で、どうするか、というと。

 まずは、私もパジャマに着替えて(この時点では、洗濯物やら台所の片付けやら、自分自身のお風呂やら、明日の準備はてんこ盛りに残ってます、でも、この際、後で帳尻合わせます)、子供と一緒に寝転びます。我が家は敷布団を2枚並べて、その上で好きな場所で主人、私、長男、次男が雑魚寝します。それから子供達が選んで来た絵本を読み聞かせです。臨場感たっぷりに、時々、オリジナルストーリーを交えて、時にはミュージカル風に節を付けて盛り上がります。ケラケラ笑う子供達相手に、母は、この時点で割とハイテンションです。続きまして、手遊びをします。児童館で教えてもらった手遊びや、長男が保育園で教えてもらって来たお気に入りのヤツなど様々。子供達の身体をベタベタ触りながら、頬っぺた同士をくっつけあったり、コチョコチョしたり(子供ってコチョコチョ好きですよね)、ここまでくると子供も大はしゃぎ。もっかいやって、もっかいやって、とアンコール数回。側で寝ている主人は怒った声で「うるさい!」と背中を向けますが、そんなものはご機嫌な3人にはお構い無しです。で、騒ぐだけ騒いだら、こちらから「はい、寝ます!」と、騒ぐ息子達にお祭りの終了合図を送ります。騒ぎ足りずに多少不満顔をする彼等ですが、相手をしてもらえたことで満足感もある様子。しぶしぶと言った態度ながらも、横になり、素直に眠る準備を始めます。

 完全消灯するのはこのタイミング。豆球も消して、真っ暗に。

 勿論、子供達はまだザワザワしています。身体をくっつけあって、クスクス笑っている状態。修学旅行の消灯時間直後、そう、あの感じです。それからは今度は歌の時間です。「何、歌う?」とリクエストを聴きながらも、最近の歌は分からないので(何しろ、私も昭和の女)、定番どころをいくつかチョイス。歌い継がれている「童謡」には綺麗な歌詞と、季節感があるので専ら童謡を歌う事が多いです。今の季節なら「卯の花の匂う垣根に、ホトトギス、はやも来、啼きて~」とか「夏も近づく八十八夜、野にも山にも、若葉が茂る~」とか「南の島の大王は、その名も偉大なハメハメハ~」とか。そうして、締めくくりは、我が家では定番の「ねーんねーん、ころーりーよー、おこーろーりーよー~」です。この子守唄は、波長というのか、抑揚と言うのか、本当に効果テキメンで実に良く寝てくれます。母親の声が、高低の少ない子守唄で、ゆっくり、ふんわり聞こえてきたら、やはり子供達は気持ちが鎮まるのでしょうか。ただでさえ、安眠型の長男はウトウトして寝息をかきはじめますし、眠たくて不機嫌な次男も、指をモグモグしながら少しずつ動きが鈍くなってきます。やがて、2人とも静かになり、ゆるやかにゆるやかに眠りの世界へ旅立っていくのです。

 布団の上に移動してからここまでの行程がほぼ30分前後。眠りの浅い次男は稀に夜中起き出す事もありますが、その時は喉が渇いていたり、暑すぎて不愉快であったりが大半なので水分補給後にトントンしてやると大概すぐに入眠します。

 寝かし付けに「苦労」は必要無い、と考えている我が家です。

 子供は(大人も、ですが)寝る事によって日中の疲労を消化するのだと言う事です。だけれども、私達大人だとて単に「眠くない時には眠れない」のは、当たり前だと私は思っています。であるので、我が家では、お昼寝を重視していませんし、寝たい時には寝れば良いと思いますし、(日中は)起きていたければ起きておればいいし、眠たいのに眠れないのであればその時初めて大人が手伝うだけで良いと思っております。なので「子供がなかなか寝てくれなくて」と頭を抱えた事がありません。お腹がすけば食べます。うんちがしたければします。それと同じように、眠たければ、どんな状況だとて子供は眠ります。何故なら、そうしないと「死ぬ」からです。食べる、排泄する、眠る、これは生命活動の一環であるからです。ただ、子供の場合は手助けが必要である場合があるだけで、外部の者が適宜条件を整えてやればそれで満たされて完了します。

 くたくたになるほど活動すれば、休息したくもなるでしょう。お腹がペコペコになるほど動いているのなら(アレルゲン食物以外は)食べるでしょう。それだけの事だと気付いたので、我が家では彼等の「動物としての本能」に任せっきりでおります。

 ちょっとだけ寝かし付けにポイントがあるとするのなら「子供達に、こちら(大人側)の企みを見抜かれない事」でしょうか。早く寝かし付けて、空いた時間に趣味の事をしよう、子供が見ていない隙に大好きなおやつを食べよう、などという不届きな魂胆は、もう、驚く程に子供達は見抜いてしまいます。寝かし付けてくれている大人達の心理状態が、恐らく、胸をトントンと叩いてくれている手であったりだとか、子守歌を歌ってくれている声の調子だとかに現れて来るんでしょうね。この「見抜く力」は、それこそ驚異的以外の何物でもない程です。こっそり何かをしようだなんて、甘い、甘い。

 それはそうです。何しろ、彼等は、生まれる前から私とへその緒で繋がっていたような存在なんですからね。人間の形になるずーっと以前から、私の身体の一部だったんですから、そりゃ、解りますよね。私が何を考えているか、くらいは。

 寝かし付けしたけりゃ、それこそ、こっちも「本気で寝てやるぜ」くらいの勢いでやらないと太刀打ち出来ないです。だから、私は、わざわざ部屋着からパジャマに着替える訳です。だってあっちも本気なら、こっちも「本気」でファイト!なんですからね。

 寝なきゃ、寝ないでいいんです。それの何が不満なんでしょうか。イライラするのはどうしてなんでしょうか。全部、大人側の都合ですよね。あれもしたい、これもしたい、早く寝てくれないかなあ、ムカツクなあ……。とは言うもの、元をただせば、彼等はかつて「自分の身体の一部」だったわけで、そんな自分の一部に腹を立てても仕方ないと思うんですよね(でも、腹が立つ……解ります)。

 相手もマジなら、私もマジ。不戦勝なんて、本当は子育てには有り得ないんじゃあないかなと思います。

 そして明日も、明後日も、彼等との「心理戦」は続くのです。他所の誰よりも寝かし付けにおいて「子供に寝かし付けられてしまう母親」の私が言うのだから間違いないです。

 ねんねんころりよ、おころりよ。ぼうやはよいこだ、ねんねしな。

 そう「ぼうや」は「よいこ」なんです。

 それを見逃しているのは、もしかしたら、こちらの方かも知れないんですよね。

夏の夜の思い出便り

 闇の中に光る蛍。父に連れられ初めてみたその光は黒い画用紙に開けられた画鋲の穴のように、あるかなきかの微かな青白い点でありました。丁度、苗代に稲が育ち、水を満たした田んぼへ明日にも植え付けが始まろうとする頃。梅雨入り前の晴天が続いた、こんな蒸し暑い日です。夜になってもまだ昼間の火照りが残っているような、ゆっくりと月が雲に隠れるような風が止んだ闇夜。密度のあるつやつやとした暗がりの中で、一つ、二つ、呼吸を繰り返す蒼い光。今の我が家の5歳の長男と同じくらいでありましたか、幼かった私は2歳違いの弟とともに、相手の顔さえ見えない黒々とした世界に漂い、額にうっすら汗をにじませながら、彷徨う蛍火を一心に見つめておりました。

 またツルツルと滑らかな鮎の身体から、夏野菜の香りがすると知ったのも初夏の頃でしたでしょうか。まだ父方の祖父母も存命の頃です。私の実家は、祖父母が亡くなってから立て替えた物で、老いた祖父母はそれまで二人暮らしをしておりました。そこへ、週末になるたび、彼等の息子である父が彼等の孫に当たる私達姉弟を車で遊びに伴ってくれていました。かつては「村」の呼称があった、小さな集落。3分程歩くと、紀の川の河原に出ます。夏になれば鮎漁が解禁になり、夜に投網を持って徒歩で河原に向かいます。通り道には外灯もなく、当時は今ほどの人通りもありませんでした。8時過ぎには人の影さえ横切らない村中を抜けて、防波堤である小高い丘を目指します。膝下をザリザリ夏草が撫でて行くのが解りますが、ジージーと何かの虫が鳴いているのが聞こえるだけで、視界はほとんど闇に沈んでいます。手にした懐中電灯だけを頼りにして丘を超えると、急に足元の感触は不安定な砂利へ変わります。河原に到達した安心感に浸っている中、ザブザブと前方では早くも水音。父が率先して流れを渡っているようだと解ります。ですが、子供の背丈では水深が深すぎて、すぐ水際で躊躇してしまう始末。加えて紀の川は川幅も広く、中流とは言え、所により流れは急です。苔でぬめった水底の石に危うく滑りそうになりながら必死で父の気配を闇の中で追う子供達。

 風を切るような投網の投げ入れ音。水面に水が跳ね、後は滔々と流れる紀の川の逞しい音が続きます。見えない父の姿を探して不自由な視界へ意識を凝らす姉弟は、自然と言葉少なになりながら不安とせめぎ合い、互いに手を握り合い。そのうち、少し離れた所から「かかったぞ」と、父の声。股の辺りまでを水に浸かりながら父の元へ急ぐと、ボウっとした暗がりの中に、網を掲げた父。漁の間、消していた懐中電灯を捧げ持ち網にかかった獲物を差し出して見せてくれます。キラリキラリと光を跳ね返す細い漁師網には口をパクパクさせている薄緑色の魚。「嗅いでみろ、キュウリの匂いがするから」と促されて鼻を近付けると、光の中に煌めいている魚の身体からは確かにもぎ立てのキュウリの香り。鮎の別名が「キュウリウオ」であると言うのは随分後になってから分かった事なのですが、あの夜、知った美しい魚体の映像は、それから長い間、幼い私の胸の中に留まり続ける事になったのでありました。

 結局、あの時、大漁であった鮎を喰ったのか人に差し上げたのかは、残念ながら記憶には残っておりません。ただ、スーパーの鮮魚コーナーでパックに収められた鮎が出回る時期になると、例の夜の薄闇の中で観た丸々太った鮎の姿を思い起こすのです。

 線香花火がチロチロと燃えて、煮え滾る真っ赤な珠になり、奈落の底に引き寄せられるように力尽きて落ちていくのも、父に教えられた事でありました。燃え始めた細い線香花火のツルを辛抱強くしゃがんで持ち続ける事は、幼い子供にとって根気の必要な事でありましょう。祖父母が寝静まった後(とにかく、田舎の人は寝るのが滅茶苦茶早いのです)、まだ西の空に夕日の名残がほのぼのと埋火のように燃え残っている時分。仏壇から拝借したロウソクを地面に立てて、地味な花火大会は始まります。薮蚊にあちこち刺されながら、浮いて来る汗を拭いながら、チリチリと光が跳ねる細い花火のツルを垂らしている子供達。白々とした強い陽射しの中で、昼間は目一杯水遊びに興じ、少しカビの臭いが漂う古臭い離れの風呂に浸かり(昔の田舎の家は母屋でなく、外に風呂がありました)、質素であるけれども旨い飯を頬張り、後は寝るだけとなった子供達。時折吹く夕風はただただ心地よく、聞こえるものと言えば、夜空を渡っていく鷺の声と、組み上げ式井戸の低いモーター音だけ。庭先でチロチロと燃える、小さな花火の光を眺めていると、ついつい睡魔が忍び寄ってきてしまいます。曖昧になって行く視界の中で、燃え続ける線香花火の赤や黄色は二重に成り三重に広がり、幼い姉弟は眠い目をこすりながらただただ花火の糸を明るい闇に垂らしているだけ。

 燃え尽きたそれを汲み置きしたバケツにつけると、悲しい鳴き声のようにギュッと音を立てて、花火は命を終えます。最後の一本をそうして送り届けてしまうと、先程までの眠気が、ちょっとだけ冷たく冴えてしまうように感じたりしました。

 私達に、色々な夏の姿を教えてくれた人は、もういません。

 父のいない夏を迎えるのは、今年で5回目です。

 関西は梅雨入りをしたそうですね。晴れ間が続いていた東京でも、この週半ばからは天気が崩れ気味になるのだとか。

 実家の周辺では、早くも田植えが終わっている頃でしょうか。水を張った田を渡る風は、夕刻になれば一日の疲れを癒してくれるほど涼やかに流れて来ます。

 堰を解放された紀の川も、清らかな水を満々と湛えている事でしょう。水面を叩いて踊り上がる鮎の姿も、さぞ、釣り人の気持ちを高ぶらせているに違いありません。

 夏は、夜、です。

 それを教えてくれた父。

 手入れの届いた庭木のそばに、植木職人だった父が、地下足袋姿のまま腰掛けて休んでいる姿を思い出します。鍔の広い麦わら帽子。腰に吊るした鋏入れ。側に置いた剪定ばさみ。首からかけた白いタオルで滴る汗を拭いつつ、木漏れ日の中で夏の日差しを見上げて考え事をする背中。

 逞しく育ってくれた我が家の息子達に、父から教えてもらった「夏」をこれから一つ一つ受け渡していこうと思います。

一つ一つ、丁寧に。一つ一つ、懐かしく。

 私の思い出を愛おしい物にしてくれた父。寂しい時に、きっと心を支えてくれる愛おしい思い出を、そうして我が家の息子達へ。

 前略、お父さん。私達は、元気です。かしこ。

 

 

(『あかりの森's blog』が生まれて半年。延べ6000人の閲覧者の方々にお越しいただきました。実際のお家に6000人もお招きするなんて到底出来る訳もありません(どこのお城の戴冠式パーチーだよ、です)。自分の為に始めたブログで、色々な方々と繋がり、お話ができ、貴重なご意見も拝聴、拝見できて、自身の雑記帳と呼ぶにはなんと贅沢な経験ができているのだろうと思うこの頃です。皆様のご厚意、心より、有り難く頂戴いたしております。)

 

『あかりの森’s 「イクメン」事情』(※天然もののイクメンの皆様には甚だ不本意な記事であると思いますので、閲覧回避を強く強くお勧めします。)

 「こんなに価値観が違う人が、世の中にはいるのね」と、主人と連れ添ってから何度、遠い空を見上げたか分かりません。男女の違い、職種の違い、食物の好みの違い、嗜好品の好き嫌い、金銭感覚の隔たり、将来に対する展望の相違。合致するモノを探す方がむしろ難しいのではないかと思います。

 生い育ってきた文化圏も異なります。片や私は商人の町大阪で生まれ、和歌山で育ち、カカア天下で金銭に細かい風土が馴染んでいます。片や主人はバリバリの「肥後もっこす」、有言実行、寡黙で亭主関白の御父様が家長としてデンと構える生粋の熊本家庭で成長しました。

 私は下戸、両親も下戸。主人の家庭は全員が上戸(特に御父様)。結婚当初はもうそこからが諍いの種。夕食のおかずを私は「おかず」として作りますが、主人は「酒の肴」として認識しております。家族そろって食事をしたい私と、出来たてのおかずでさっさと晩酌を始めたい主人。外食の折でもそうですが、我が家では「家族全員分が出そろってからのいただきます」はした事がありません。また、家事は全般、妻の負担。仕事を持つ妻に対してもその態度は一貫しています。単純に稼ぎ出す給料の差なのか(確かに主人の収入は私の5倍はありますし)、主人の中で「そういうものだ」という価値観が根付いているのか。妊娠中も出産後も態度は大きく変化無しです。子供の夜泣きにも(長男の時)、よっぽどひどく泣き出さない限り主人は起きては来ませんでした。あまり泣かせると今度は「うるさい」と不機嫌になり私は叱られてしまいます。初めての育児で疲労困憊の中、何度、実家の親に深夜の電話をして泣き言をこぼしたか。夫婦喧嘩をする度に、毎度たたき起こされる両親もたまったものではなかったでしょうけれども。

 結婚は勢いでするもの。そううそぶいた人の気持ちは痛いほど解ります。家事全般そつなくこなし、子供の世話から奥様の心理的フォローまで、いったいどこのプロフェッショナルな家政婦さんですか、と言いたくなる男性が世の中にはごまんといますよね。私が家族ぐるみで親しくさせていただいているママ友達のご家庭でも見受けられます。多少語弊がありますが「明日奥様が単身海外出張に出かけたとして1年後帰宅してさえ、部屋も冷蔵庫も、何より子供達の健康状態も全く出かける前と変化なし」であろうと(勝手にこちらが)断言出来てしまうご家庭が存在します。何ですか、その「夢の国のおとぎ話は!?」という驚き。

 かく言う我が家、次男を出産する為に1週間、私が不在だっただけで、まずは洗濯物が何故かしわくちゃのまま積まれてあったり、リビングの床にうっすらホコリが積もってあったり、水回りが茶色くなっていたり、当時4歳だった長男が腸炎起こして発熱していたりしましたからね(食生活が大きいです)。いったいどんなドッキリなのだよと思いました。目を瞑って、次、開いた時には異空間に飛ばされていた、というまさしくSFのそれです。

 「やろうと思えば俺も出来る」。ふんぞり返った主人は私にそう豪語するのですけれど、残念ながら、彼の本気モードに結婚してから私はついぞ遭遇した事はありません。何しろ主人が「本気になる」のは、キャリーオーバー7億円のロト数字を的中させるよりも実現しづらい確率ですから。

 大人げない事を書かせていただくと、昨日も昨日とて、私は彼に対して心底、怒りがこみ上げておりました。価値観の違いだから、もう仕方ないのよ、えへへっなんて笑っていられないくらいには、ちょっと私は怒っておりました。ソファの上、一人、昼間、泣きました。悔しくて、腹が立って、子供みたいに声を上げて泣きました。

 発端は、主人が子供2人を連れて朝から外出した事にありました。「9時半くらいには連絡するからね」と言い残しての留守です。

 休日に主人が子供を連れ出してくれる事自体は、実にありがたいです。亭主関白ではありますが、子煩悩でもある主人です。だけれども、私は彼が子供達を遊びに連れ出してくれる動機に納得がいかない事が今まで多々ありました。彼の言い分はこうです。

 「俺が子供を外に連れ出している間に、貴方は心置きなく家の片付けが出来るでしょう」

 一見すれば、とても親切で思いやりのある「男前パパ風」のコメントです。

 「俺が子供を外に連れ出している」事に関しては、先にも述べた通り助かります。日々の雑務をこなすのには、ちっちゃい人の存在は少し煩わしくもありますから。けれど、ひっかかったのは以下です。

 「貴方は心置きなく家の片付けが出来るでしょう」

 違和感はこの後半でした。お気付きでしょうか。リピート・ワンモワ。

 「貴方は、心置きなく、家の片付けが、出来るでしょう」

 お解りでしょうか。

 「家の片付けが出来るでしょう」

 これです。ここ、赤線です。

 子供達が留守の間に、私がしなくてはならない事が、何故、どうして「家の片付け」なのでしょうか。言っておきますが、私の心はミニマムです。他人様が引くくらいには、せこいです。かなり、コンパクトな人間です。

 まさか、主人に対して「私が子供達を連れて留守の間に、残った家事を片付けておいて」とは言いません。彼もそう任されたからと言って素直に納得はしないでしょうし、出来る出来ないは別にしても、断固として手は出さないでしょう。それはこの際、良いのです。ですが、この彼の認識が、私にはとてもとてもその時、辛かったのです。私の手伝いをお願いして家事のスピードアップを図り、家族一緒に出かけられたら最高でした。そう、それこそ100点満点の対応ですね。例え、そう出来ないまでも、せめて私を待っていてほしかったのです。

 私にも月曜日から土曜日までの仕事があります。平穏無事に過ごしているとは言え、育児休業中に休養を取っていた頃と、煩雑さは比べものになりません。それでもこの1週間を頑張れば、子供達とめいっぱい遊べるという「ご褒美のような楽しみ」を胸に抱いて毎日を過ごしているのです。多くの家事が、こなしていくだけで精一杯の平日では必要最低限しか出来ません。この「必要最低限」でさえ、やりきれなくて週末に持ち越す事さえあります。ですから好きこのんで、誰がせっかくの日曜日に溜まった家事に専念したいと言うのでしょうか。出来れば効率的に片付けて、さっさと子供達と普段取れなかったスキンシップを取りたいと思うのが親の心情ではないでしょうか。

 と言うものであるのに。

 一通りの家事が片付いても、主人と子供は外出したきり、昼を過ぎても帰って来てはくれませんでした。電話をしても「今、温泉入ってるんだ」とのんきな答え。「今から貴方もここにくればいいよ」と簡単に言ってくれます。家からバスに乗り、最寄りの駅まで行って特急に乗り換えて1時間もかかる日帰り温泉宿です。私が到着する頃には、もう帰宅する時間になってしまいます。どこへ出かけるとも言い残してくれず、しかもこちらが尋ねてから初めて今いる場所を報告するとは。

 「何のために私、一生懸命時間を作って日曜の朝早くから家事をこなしていたんだろう」

 もうそう頭によぎってしまったら、急に両目が熱くなってきてしまいました。

 電話を切った途端に、力が抜けてしまって、涙が止まらなくなってしまったのでした。

 けれど、よくよく考えてみれば、そういう私の感情も「我欲」なのだと思います。冷静になれば解る事です。私が泣いたのは、単に「私の為」でした。子供達は父親に遠出に連れて行ってもらって、楽しい休日を満喫出来ているのです。それで正解なのではないかと思うのです。私も満足、主人も満足、子供も満足、理想はそうであるのでしょうけれど、主人も彼なりに良かれと思って精一杯してくれた事だと思います。結果、子供達は喜びましたし、充実した時間を過ごせました。腹いせという訳ではありませんが、私も泣きながら大がかりな家族の衣更えを達成する事が出来ました。ビジネス用語だと「Win-Win」というやつでしょうか。

 だけれど、一言言って良いですか。

 全部を総括して良しとするこの一つの出来事に、もの申して良いですか。

 では、関西弁で失礼します。

 「うちだって、子供等と一緒におりたいねん。勘違いせんといて、ちょっとは手伝いーや。大概にしとかんとドタマにグーパンチくらわすからな、このドアホ!」

 

 以上、現場からの中継でした。

断捨離という贅沢

 日常生活を機能的にこじんまりとまとめるのが、気持ちの良い暮らし方であるという風潮です。空間に溜まった余計な物を取捨選択し、出来るだけ捨て去る事。複雑に入り組んでしまった人間関係を、本当に快い間柄の方々だけを残して疎遠にしてしまう事。身の周りを切り詰めて、お気に入りの物だけに囲まれて豊かな暮らしを送る美学。それがおおよその断捨離の定義でしょうか。

 もう、どなたかが提唱されているのかも知れませんが、私が実感する事を2つ上げるとします。「断捨離という行為は、都会だから出来る事」である場合が多い、それから「あり余る程、持っているから出来る事」であるという、この2点。

 多感な時期を田舎で過ごし、また幼少期を明治生まれの祖母と過ごした私には、物がふんだんに蓄えられた生活空間というのが通常でありました。ただただ雑然として足の踏み場が無い、という意味ではなく、多くの物が役割ごとに納戸や押し入れ、屋根裏部屋、物置小屋、離れ、床下などに区分けして規則正しく収納されている、という意味であります。とにかくありとあらゆるものが、例えば、来客用のティーカップのセット、亡くなった曾祖父の背広、10年物の梅酒、毎年いただく年賀状の束、発表会の為に誂えたワンピース、引き出物の高級タオル……。果ては嫁入り用に特別注文した桐の箪笥やら長持やら重々しい綿の掛布団やら大きな鏡台やら。またその引き出しや扉の中には、細々した貴重品からかさばる着物・外套などが丁寧に梱包されて納まっています。ミニマリストの方々が一瞥すれば、その場で卒倒してしまうのではないかという凄まじい数の「日用品」。

 田舎に住んでいた頃は、気にもなりませんでした。空間にギュっと詰まった雑多な物体は、それをも含めてその空間の風景であったのです。パズルのピースが何の不足もなく噛み合っているように、長い年月をかけて蓄積されて来たであろうそれらの物は、それでもだらしなく溢れる事なくそれぞれの場所に当然の顔をして鎮座しているのです。集めるともなく集まって来た物を、母も祖母も、更にはその祖母の母も、そのまた母も几帳面に、大切に、律儀に手入れしては納め持って来たのでありましょう。

 嫁入りに東京へ出て来て、時折、帰省すると、離れて住む身に感じられるのは実家の物の多さ。これ程であっただろうかな、と振り返るのですが、その頃から物が増えた形跡はありません。出来るだけ持たない生活を、と心がけている都会の生活でもやはり様々な物が、重ねた年月の分だけ少しずつ少しずつ増えていきます。子供が生まれてからは細かな物が加速度的に増加していく始末。それでも、その中にあって、ちょっとでも身軽な暮らしを努めているので、見る目も感じ方もきっと実家にいた頃よりもシビアになって来ているのは事実です。かつては注意して観る事もしなかった実家の雑多な空間。決して散らかっている訳でもないのに、視線があちこちしてしまう物の多さ。

 今、実家暮らしは母だけですので、老女一人には明らかに物質過多の様子です。身体が達者な内に身の周りの整理だけでも、と促すのですが母は乗り気ではないようです。処分すると言う事に恐怖に似た抵抗感があるそうで、使う予定の無いビニールやら、輪ゴムやら、裁縫の残り糸やらまでも大切に保管しております。かく言う本人は「身軽な生活がしたい」と常々こぼしており、実際の所、掃除をするのが年々億劫になっていく年齢をも考えるとどうにもこれこそあらゆる角度から切り詰めて行った方が良いようにも思えます。しかしながら、いざ、何かの拍子に「よし、捨てよう」と一つの物を手に取った瞬間「でも、これも何かに使えるかしら」と気持ちが揺らいでしまうのです。若い方々には「だからいつまで経っても片付けられないのよ」と笑われてしまうのでしょうけれど、仕方ないと言えば仕方ない所もあります。母が最後に口にする台詞は決まってこうです。

 「私達は物の無い時代に育ったからね」

 戦中生まれの母は、敗戦直後の日本で少年時代を過ごしました。破れた下着を何度も繕い、麦の一杯混じった御飯を食べ、舗装の行き届かない凸凹の砂利道で遊び、弟や妹をおんぶ紐でおんぶしながら登校し、ランドセルも買えない貧乏所帯で手作りの布製鞄で卒業までを貫いた、そんな子供時代です。兄や姉の使った物を、大切に大切に幾人もいる弟、妹で使い回す、そんな時代。ボロボロなのは当たり前、みすぼらしいのは当たり前。与えられた物は、手入れして、修理して、工夫して、限界まで使い込む。そのようなつましい生活が身に染みている上で、現代のように物が至る所にある世界に放り込まれたら母でなくても「捨てられない」人になってしまいます。

 「もう、着ないから」という理由だけでは、捨てられません。

 「もう、食べきれないから」という理由だけでは、見切りを付けられません。

 「もう、使わないから」という理由だけでは、売り払えません。

 現代人には本当に「お笑い種」だと思います。そう私達は何不自由なく「いつでも手に入る世界にいる」ので、彼等の執着がきっと理解出来ないのだと思うのです。

 また、都会に居る人には、車を持たない選択が出来ます。最寄りの駅まで徒歩で40分、最寄りのバス停まで徒歩10分(しかも30分に一本、営業時間7時から21時)の環境で、スーパーも病院(総合病院でなく、小さな医院クラスの病院)も保育園も小学校も市役所も生活に密着している全てが徒歩では30分以下の所が無いとしたら、それでも断固として車を利用しない生活が出来るでしょうか。急に必要になった工具でも、すぐ買いに行ける場所に販売店が無いのだとしたらどうするでしょうか。いつ使用するか解らない物は、都会ではその時、買えばいいでしょうし、レンタルだって出来るでしょうし、ちょっとした作業なら問題解決はその日の内に可能でしょう。でも、田舎は違います。欲しい時に、持っていない、それだけで何日も不便な思いをしながら過ごさなくてはなりません。

 そう言った危機感が、少なからず捨てる事に対する慎重さを育んでいくのだと思います。誰を責める訳にもいきません。住む世界が文字通り違う、ただそれだけの事なのです。

 見方を変えれば「断捨離」が出来る、というのは実に「贅沢」な事であるかも知れませんよね。それを「断つ自由」、それを「捨てる自由」、それから「離れる自由」が「選択」出来るのですからね。

 時々、行き過ぎたミニマムな景色の写真などを目にする事があります。まさにそこには「収納の為の収納」「捨て去る事だけに熱中した殺風景な部屋」などが映っていたりします。整理整頓が行き届いている、というよりも、何だか、痛々しいような、ひと昔前の療養所の一室の如き印象を私は受けてしまいます。人が生活すれば、自ずと生活感は生まれてきます。程よい生活感は、その部屋をほのぼのとしたものに見せてくれます。暮らす人達の、穏やかな人柄や楽しい談笑までが届いて来そうです。ですから、過剰なまでにピカピカの部屋に出会うと、人の息遣いまでを拭い去る事でその部屋の作り主は果たして何がしたいのだろうか、と私は逆に息苦しくなってしまうのです。

 贅肉を落とす為に始めたダイエットが、日に日に過激になっていき、もう痩せる事しか考えられなくなってしまった人の浮き出たあばら骨を見るに似ています。

 可愛らしいってどういう事。

 素敵ってどういう事。

 ほがらかってどういう事。

 「足りる」ってどういう事。

 そんな当たり前の事から「暮らし」は生まれるのかも知れません。