あかりの森's blog

7歳、3歳の怪獣達と楽天家シングルかーちゃんの雑記帳。主にのほほん、時々、真面目。

神鳴る、不徳ある民に。

 曇り空は、嫌いではありません。

 霞がたなびく空も、鱗雲が覆う空も、物語のようなものがそこにあるようで、私にはむしろ表情豊かに思えるのです。

 中でも夏の空が存在感の豊かな雲に遮られる様は、とても神秘的で妙味に溢れています。邪魔な物を吹き払うように吹く力強い風に、鳥の囀りも、蝉の歌も、滞った人の流れも、じりじりと滲んでた首筋の汗までもが一気に押しのけられて、何だか清々しい気持ちになるのです。書きなぐったノートのページを、あっけらかんと破り捨ててしまうそういう爽快感というのでしょうか。

 雨の予感が忍び寄ってくるのも良いです。

 水の鏡がそこにあるように、時折、きらびやかな空が覗くのも良い。

 巻き上げられた砂埃にちょっと顔をしかめながら、さっき相手に言い過ぎてしまった事を一人懺悔するのにもお誂え向き。

 雨の予兆のような湿り気の中で、殊更、足早にどこかへ向かう自分がいます。別にどこへでも行く事が出来ますし、かと言って、そこへ急いだところで何が待っている訳でもありません。それでも、歩幅は大きくなり、胸板は風を切って進むのです。そうしなくてはならないような気がするのです、そうしなくてはならない理由などないのに、です。

 心に引っかかる物を、曇り空は連れて来ます。

 咎め(とがめ)立てする何かがあるわけではないのに、それほど疚しく(やましく)ない焦燥感というのでしょうか、そう、例えば義務感のような使命感のようなものが私の気持ちに蓋をしにやってくる、そういった面倒な感覚なのです。塞がれている、というよりも、引っ張られているというのに近いです。かえってウキウキとほだされているみたいに、指先までが温かいのです。

 樹々が茂る神社の参道を通り抜ける時も、同じような感覚に触れる事があります。流れの早い浅瀬に素足を浸した時にも似たような気持ちになります。決して、澱んだ危険がそこにあるわけではなくて、ただ、事象として私を取り囲んでいるに過ぎない、私とは隣人でありながら隔離されたものが泰然として存在しているにだけのモノ。触れてはならない、近寄ってはならない、そういう一種の「禁忌」のようなものは、こちら側が勝手に設けるものです。そこには明確には出来ないそれでいながら一律の法則が秘められているのだと思うのですが、丁寧に桐箱に収められ押し包まれているので、凡人には一見して言い伝えやら戒めやらといった具合に捉えられるのでしょうけれども。

 たとえ、そこまで入り組んだ物でないにしても、閉ざされた物を押し開けようとする折には、呵責をかなぐり捨てる掛け声のような、呼吸が必要になると思います。微々たる勇気が必要になります。そのわずかばかりの心意気を、持とうか、持つまいか、逡巡しなくてはならない気持ちにさせられる閉ざされた空間が、恐らくは、曇り空に共通する何かでないかと、ちょっと、私は気付いたりしたのです。

 夏の雲は、頑強で精力的で、であるのに、研いだ厳かさを兼ね備えています。押し黙ったまま涙をこぼしている、優しい人の大きな背中のようです。

 激しい雨を想像させる薄暗い昼間に、急ぎ足で横断歩道を横切る人波と、天を見上げる私と、ゆっくりと表情を変化させる重々しい雲と、鳴こうか、鳴くまいか、大きな杉の幹で声を震わせる油蝉と。

 羽化したばかりの初々しい夏が、どこかもどかしく抜け殻の衣に煩わされているような、生温い呼吸を迸らせて(ほとばしらせて)、渦を巻きます。熱病に惑わされた巨大な竜の姿にも似て。

 ああ、そこだけ、空が抜け落ちたように、真っ白な入道雲が伸び上って輝いています。あの真下はきっと、身を置くのも恐ろしい様な雨と雷に満たされているのでしょう。

 流れて行く厚い雲の峰。やがて、風があれを連れて来るのでしょうか。

 どこかへ導かれてしまいそうで、私の中の野生がざわついています。

 曇り空は、嫌いではありません。

 手放しそうになる現実的な物を、きちんと私というあやふやな箱に閉じ込めにきてくれる、厳めしくも慈悲深い番人であるからでしょう。

萌エイズル、緑ウルハシ。

 苔玉を職場で育てていると、以前、書いた気がします。大人の拳ほどの大きさで、頂上にラカンマキが1本生えています。空調の効いた室内で、窓際の空いたデスクに異動させたり、昼休憩にテラスで水遣りしたり、建物の植栽の近くで陽に当てたりしながら楽しく成長を見守って来ました。ここ最近、子供達と私自身の体調不良とで休暇が連続した折には「枯渇」の危機を経験しました。水遣りが出来ないまま、窓際のデスクで程よい空調にさらされ続けておりましたので、やっと出社が叶った私が様子を見に行った際には、苔玉に含まれていたはずの水分が完全に飛んでしまっており、野ざらしのスポンジのように手触りやら重量もスカスカになっておりました。始業までのわずかな時間にビニール袋で苔玉を覆い、早速それへ水を注ぎ、口を縛ってしばらく戸外へ放置。存分に吸水させて、乾燥激しい過酷な環境で必死に試練に耐えた小さな命を労ってやります。

苔玉記事はここから始まりました。↓)

akarinomori.hatenablog.com

 待ちかねた昼休みに「ビニールプール」から取り出してやると、朝方にはあんなに元気が無かった苔玉が、ラカンマキの葉をツヤツヤに光らせて、健気に完全復活しておりました。そのまま、緑のカーテンとして栽培されているゴーヤのプランター脇に苔玉を安置し、半日陰で日光浴。夕方にまた状態を見に行くと、素晴らしい回復を見せておりました。

 植物は、実に可愛いです。過保護でも上手に生育しませんし、放置プレイでも根腐れや日焼けを起こしたり、ただ物言わぬだけで、きちんと「生きている」という自己主張を我々の方に投げて寄越すのです。手がかかる事も、面倒である事も、勿論、我が子とは比べものにならないレベルではありますが、ひっそりと日々変化していく緑色の枝葉を観察していると折々に見せる表情が何かを語りかけてくれているようでもあります。

 味を占めて、今、我が家の北向きの玄関にはパキラとテーブルヤシが鎮座しております。どちらも苔玉同様、100円ショップで購入して参りました。ビニールの簡易容器に植えられた状態であったものを、ホームセンターで土と鉢を入手してゆったりとした空間に植え替えました。適度な放置と適度な世話で、見惚れるほどに青々とした美しい若木に成長してくれました。また、空き地で拾ってきた楓の苗木と、ホームセンターで安売りされていた月美人(「月下美人」ではない)という多肉植物と、水草であるホテイアオイとが我が家のベランダで肩を並べております。楓はエリンギの空きパックに穴を開けて土を詰めた手製の植木鉢に植えました。双葉で拾ってきたものが、現在は5枚ほどの手のひらみたいな葉を広げています。月美人はこれも鉢を大きなものに変えて出来るだけの日当たりを求めて狭いベランダ内をあっちに動かしこっちに動かし、そうして雨に極力当てないように工夫しながら「放置」しております。ただ、根が弱いので、ちょっとした衝撃で倒れてしまうのが目下の悩み。温暖湿潤の日本の気候では、管理が難しいのはもしかしたらこの類いの手合いであるかもしれません。ホテイアオイは時々公園の池に大量発生して景観問題になるほどの繁殖能力が旺盛な水草です。日光と水があればそれこそ爆発的に増えていく底力を秘めているので、あえて、ヒヤシンスの水栽培のようにインスタントコーヒーの空き瓶に水を張ってその広口瓶の上に突っ込んで置くことにしました。水もあるし、日光もあるし、無いのは膨張できるスペースだけという環境にして計画的に管理です。その飼い主への反抗でもあるのか、紫色の可憐な花を咲かせる気配はいっこうに見せず、ただ、黙然と水の中へたわしの如き黒々とした根を垂らして、変わり映えの無い表情を毎日、瓶の縁に乗せております。

 そうそう「ベランダ組」に、もう一種類の仲間がおりました。シダ植物である「シノブ」です。夏場によく縁先から吊されている「吊りシノブ」が有名ですが、あの着生植物であるシノブです。さして大きくもならず、土の善し悪しも論外で手間のかかる土壌の入れ替えや増加も必要とせず(何しろ、宿り木のように大木の枝の股などに自生する習性ですので)逞しくありながらどこか飄々として、時折強く吹く南風に青く茂った細かい葉を涼しく揺らしております。日本に育つ植物であるので、寒さ暑さ湿気にも適応し(シダですからそもそもが湿った地面も得意)、乾燥にも負けず(木の上で生活を営んでいるので、とにかく丈夫)植物初心者である私に、多大な自信を育んでくれる頼もしい奴で有るというのはとりあえず間違い有りません。

 家事、育児、仕事に大半を割かれる私に、今更の「植物の手入れ」が加われば、なるほど、寿司詰め状態になったスケジュールが崩壊の危機に陥るであろうと思われます(実際、主人は私の「この小さな土いじり」に悲観的)が、これはこれで、精神衛生を健やかに保つ不思議な、そしてささやかな作用をもたらしてくれているようです。

 陽が陰り、ようよう涼やかな夕風が吹く頃に、慈しみつつ水を鉢に注いでいると、腹の深い部分から、さざ波のように波紋を広げていく温かいものがあります。

 小さな小さな緑達に、一時の慰めを御裾分けしてもらうこの瞬間を、私は心から美しいものであるなあ、と思うのでありました。

怪我の功名、棚ぼた身に付かず。

 もう日付が変わってしまったので、これは「昨日の事」になります。先週と今週とは我が家は「何かが降りて来た」期間であるかのようで、次男、私、長男、再び次男、と見えない矢に胸を射抜かれて文字通り倒れました。まず、先週の頭から次男が発熱鼻水を伴った夏風邪をこじらせ、続いて彼を看病していた私へそれが丸ごと納品され、週末にグズグズとした体調なりにそれぞれが浮上しかかった所で、週明けの長男の発熱。しかも、長男は夏バテ気味であった為、ここ最近食欲が落ちていました。ですからこの彼の発熱に関しては、保護者側の油断というのもあったと思います。偏食気味の所に加えて、最近の気温上昇で食傷気味になっていた長男が、休日明けの朝から不機嫌に朝食へ手を付けないでおりました。具合が悪いのかと思って検温してみましたが、我々大人で言う所の微熱でありました。平熱が元より高めの彼でしたから、私はまた通常の事であるとして、取りあえずは支度を整えて登園させる事にしました。

 園に到着してもやはりモジモジする長男。5歳になり、自意識が際立って来た彼は普段から見知った人に対しても尖がった素振りを見せるようになっておりまして、それさえいつもの行事だと思ってそのまま長男を送り出しました。続いて別の園に送らなければならない次男を背負っておりましたので、出勤時間迫る中、軽くバイバイタッチをして私は一路、少し離れた次男の保育園へ。機嫌良く登園してくれた次男に「お前、やっぱり空気読める奴だよな」と第二子独特の美点を見出し、スムーズにお別れ。そこまでは良かったのですが。

 職場へ向かう電車へ滑り込んだ途端に私の携帯電話に着信が来ました。長男の保育園からの連絡でありました。車内であったのですぐには取れなかった為、職場への最寄りの駅で折り返しの電話を保育園の方へ入れました。

 「あ、ご出勤途中でしたか」

 「ええ、すみません、それで、何か」

 「『長男くん』がお熱です、今、39度あるんですが、お迎えをお願い出来ますか」

 ……マジですか。このタイミングで。ああ、息子よ、冷たい母で本当に申し訳ない、でも、言わせて欲しい。「母の有給が、上半期が終わらぬ内に消化されてしまいそうだよ」

 その場で早速、職場へは休暇の断り連絡を入れて、逆の路線の電車へ改札口も通らずにUターンです。ただ、こういう時の子供と言うのは熱はあるのに妙に元気があるもので、果たして迎えに上がった長男も、さてどこにさほどの高熱が、と思える程のわんぱく振り。職員室の一角に設けられた簡易ベッドで見守り看護をされていたような形跡はあるものの、一睡もした形跡は無く、無邪気に乗り物図鑑などを眺めて寝床に座っておりました。私の顔を見るなり「今日は『早(はや)お迎え』?」などと呑気な口調でまるで他人事。「すみません、ご心配をおかけしまして」と頭を下げる私と、同じくらい眉毛をハノ字にした保健師の先生が「こちらこそお呼び立てしてすみません」と会釈する様子を眺める息子の手を引いて、しばらく後に、退園して参りました。帰宅して念の為、検温してみた所、発熱のピークは過ぎたのか高熱というよりも朝方の微熱に戻っており、お迎え要請は誤報であったのでは、といらぬ勘ぐりを入れたくなる程の息子の元気さ。そのままにしておくのも障りがあろうかと小児科を受診するも、掛かり付けの医師からも「そんな高熱には見えないけどねー」とのお返事。「お薬出しましょうか」と尋ねられたので「じゃあ、万が一の夜中の発熱の為に、熱冷ましをいただけましたら」と上目遣いに言上したところ「ではカロナール3回分出します、熱が上がらなければ使用しなくても大丈夫ですから」との親身なお返事をいただき帰ってきました。

 帰りがけに、近所のテニスクラブを通りかかったので、以前から気になっていた事をついでに息子に訊いてみました。「テニス、やってみたいって言ってたよね、今でも、やってみたいと思うの」と。そうなのです、水泳、剣道、公文、と、どんな習い事の話を振っても全くの喰い付きを見せなかった長男なのですが、隣接するテニスクラブで行われているほのぼのテニスサークルの様子をとても気にしており、割と幼い頃から散歩の折にはフェンス越しに頻繁にそこで行われている練習や試合を眺めておりました。体調も悪く無い事であるし、熱もさほどではない事ですし、何より本人が本当にこれから遊びにでも繰り出して行きそうなくらいに活力が有り余ってそうでしたので、何気なく水を向けて見ました。そうすると息子は迷う事なく「テニスやってみたい」と顔を上げるので、私はその足でテニスクラブの事務所に息子同伴で立ち寄りました。

 で、その夕方に体験レッスンを受ける事に相成りました。しかもマンツーマンで、1時間、みっちり。本来は在校生の同年代の生徒が2人入るはずだったのですが、折悪く、その2人ともに休みになったので、結果的に息子とコーチの個人レッスンになってしまったのでした。500円の参加料金で。

 初めて触れるラケット、初めて触れるボール、個人レッスンは年明けすぐのスキーレッスン依頼ですが、しばらくぶりの他人との、しかも一対一の1時間。どうなる事かと思いましたが、思いの外、集中力も途切れず、癇癪も起きず、心も折れず、まずまずの頑張りを見せてくれた彼でありました。いや、まあ、仮にも熱を出したままであったのですが、それでありながら、上出来な程の頑張りで乗り切りました。

 その頃には長男の発熱を心配した主人も早くに仕事を切り上げて帰宅しておりましたので、先生の指示に従い、右に左に、テニスボールに必死に追い縋ろうとしている息子の姿をコートの外から2人して見守る事になりました。少しこらえ性の無い5歳児です。普段の彼を知っている私としては、思うように球に追いつかない彼が、中盤辺り、足がもつれかかってきた辺りから泣き出すのではないかと思っていました。ワンバウンドしたボールをラケットに当てる課題がなかなか出来ず、ふとした瞬間に集中が切れて、やけくそに腕を振り回してみたり、転がったボールをしつこく追い回して遊びをいれてみたり。傍観していても、強張った彼の笑顔が、かなりの苛立ちを抱えている事を物語っているのが解りました。「ちょっと、キレ気味ですな」と私が言えば「まあ、これに耐えられたらいいんだけどな」と主人。「続けるか、続けないかは、今日の体験レッスン以降の話だ」と腕組みをし、苦笑しながら主人は息子の小さい背中を見ておりました。

 1時間が長男にとって長い時間であったのか、短い時間であったのか。ただ、彼はレッスン終了後、「またやりたい」と頬を紅潮させて私の手を握ってきたのでありました。上手に彼を盛り上げて下さった先生のご尽力、さすがです。

 またとない経験が出来た午後。確かに病欠の幼児が行うような模範的な午後の過ごし方ではありませんでしたが、ここはまた、オフレコで暗黙処理でよろしかろうと思います。終わりよければ、の言い回しは不適切ではありますが、よろしく収まったので、恐らくまあ、それで。

 そして、幼子が2人いれば、締めくくりが美しくまとまるはずもなく、同じ日の、長男がテニスに胸をワクワクさせていた頃とちょうど同時刻に、次男の保育園から主人の携帯電話に連絡が入りました。

 「あのう、こちらでお預かりしている『次男くん』なんですが、昼ぐらいから目ヤニが凄くて、目が開けられない程になりまして。どうやら、結膜炎のようなのですが……、お迎え、来られますかね」

 不吉なドミノを笑顔で倒す、可愛い悪魔が降ってくるよう。

 

幸せのぐるり

 手ぬぐいがまた増えました。先日、代官山へ遠出をした際に贔屓にしている手ぬぐい専門店で夏の新柄を購入してまいりました。私の手ぬぐいコレクションはザッと190枚ほど。無印良品のカラーボックスに「赤系・緑系」組、「青系・黄色系・無彩色・その他」組、で分けて収納しています。ハンカチよりも大きく吸水にも優れ、タオルよりもかさばらず、襟元が冷たい時にはスカーフ代わりになり、突然の雨にはそれを被って最寄りの軒先まで走って逃げた事もあります。

 注染(ちゅうせん)という伝統の染色技法で染められた普段使いの手ぬぐいですが、古めかしいばかりではなくて若いクリエーター達のデザイン画を写し取って描かれた柄は、ほのぼのと明るく活発で、実用的な中にもオシャレ心があって魅力的です。先頃、遊びのお供にしていたのは「夏野菜」という柄。今日は「薬味」という柄を選びました。

 髪留めをしてもこめかみから流れて来る中途半端な髪。これを一まとめにするにも手ぬぐいは重宝します。三角巾代わりに後ろで括れば汗止めにもなりますし、料理の匂いが髪に染み込むのも防いでくれます。綿ですから、サラシと同様、縛った箇所が解けにくいのもとても便利。

 家族で温泉に出掛けた時は、大浴場まで着替えを包んで運ぶのも、私は実は手ぬぐいです。軽くて機能的で応用範囲が広くて手触りも良い。洗濯する時は本当はぬるま湯で手洗いが基本であるそうですが、我が家では洗濯ネットに入れて下着類と同時に洗っております。皺を伸ばして陰干しすれば、そのまま畳んで終了です。使い方はタオルに近いので、気難しく構える必要もなく、物を覆う風呂敷のようにも使用出来るので「ビニール袋ではちょっと見た目が」と躊躇する時にも間に合います。ベビーカーの日よけに掛ける事もありますし、赤ちゃんが眠ってしまえば汗除けの為に頭の下に敷いて置く事もしました。天然素材であるのでそうした面でも気兼ねがありません。

 デメリットで言えば、洗濯の度にわずかばかりですが、色落ちしてしまう事でしょうか。濃い色あいに染められた物であるとそれが顕著です。時間と共に柔らかい雰囲気になるので、それを楽しむ事が出来るのであれば、気にはならないとは思いますが。また、手ぬぐいの端は切りっぱなし、つまり、まつり縫いをしていないので、洗濯の都度余り糸が解けて来ます。はみ出した糸をこまめに鋏で切り離してやる必要があるのですね。ただ、それも、二三度繰り返せば自然と解けは収まります。ちょっとした様変わりや手間を楽しめれば、気にはならない程度の不具合かも知れません。

 手ぬぐいを使い始めて5年ほどで愛好者歴は短いのですけれど、たぶんこれからも私のカバンには手ぬぐいは必需品として装備される事と思います。出会いは銀座の老舗文房具専門店でした。催事フロアで扱われていた展示でたまたま見かけたそれにとても心惹かれたのがきっかけです。その時手に取った手ぬぐいは、今でも私のコレクションにちゃんと収納されております。そうでした、ちょうど、こんな蒸し暑い夏の日であったと思います。若鮎が清流を泳ぐ涼し気な柄のものと、青空を背景に福々しく実った蜜柑の柄のもの。輪郭線を描かない鮮やかな配色で、しっくり馴染む手触り。一目惚れでした。

 人にはそれぞれ自分らしいアイテムがあると言うのなら、私はやはり、自分にとってのものはハンチングと手ぬぐいを挙げたいと思います。そして、大好きな記念切手の事もいずれ書いてみたいと考えております。

 心がウキウキするようなアイテムは、たぶん、自分の生活を潤してくれる事や物と結び付いている物なんですよね。まずは、手ぬぐい。さっぱりとしていて飾り気もなく、当たり前に生活に馴染んでいる私のお守りの一つなんですよ。

「ぱれ部」活動日誌(『あかりの森’s bog』課外活動報告記):目黒から代官山へ

 目黒の『雅叙園東京』へ出掛けました。最寄り駅から新宿経由で山手線目黒駅下車です。東京に嫁に来て幾年か経ちましたが、東京は大都会ながらもあちこち至る所に坂道が組み込まれているのを何度経験しても私は新鮮に感じてしまいます。実際に我が家があるのも郊外ではありますが(最寄り駅から見れば)坂の上です。雅叙園が位置しているのも、目黒駅からグンと下った坂の果てです。駅とホテルとの高低差は軽くビルの3階分はあるのではないでしょうか。

 本日の東京は薄曇りの蒸し暑い夏日でありました。電車から下車して前のめりになりそうな下り坂を降りると、広い車止めを抱えた立派なエントランスが見えてまいりました。建物の内部はホテルと言うよりも、美術館を模したアミューズメントパークのように華やかな物でした。爪先を包む毛足の長い絨毯はお決まりとして、高い天井と、中華風の様な日本風の様などこかオリエンタルな印象のあるホテル内は、外界ときっちり切り離された異空間でありました。空気が変わると言うのでしょうか、圧倒される場所へ迷い込むと肌に触れる空気の密度や湿度が、産毛を逆立てさせるように感じるものです。中庭に面した大きな一面ガラスの向こうには、黒々と水に濡らされた石組みと、流れ下る滝、濃く茂った木々、鮮烈な苔の緑。鯉が泳ぐ池に面したラウンジを訪れ、まずはアフタヌーンティーセットをオーダー。式場として名高い場所だけあって、ウェディング用に設けられた半開放型のミーティングルームは幸せそうなカップルでほぼ満席。深緑が輝く中庭には前撮り写真を撮る白無垢の花嫁と紋付姿の新郎の姿。

 私達が子供連れと言う事もあったかも知れませんが、ホテル内は瀟洒な雰囲気の憩いの場という感じで、仮にも寛ぎの場所という印象は受けませんでした。当然と言えば当然です、ホテル全体がいわゆる「挙式の為の施設」として最高を目指しているので、そういう意味においてはかなり心躍る空間であると思われました。ちなみに特筆すべきは、ホテル内のレストルーム、つまりトイレです。一つ一つの個室がまさに「部屋」になってまして、手洗い完備で、豪華なのです。家賃が発生してもおかしくない程度には、広いのです。笑えない冗談に付き合っているような感覚になりました。

 主人は時々、思い立ったように東京の「名所」に家族を連れて行ってくれます。あまり統一性がないので、私も面白く興味深くそれに付いていきます。雅叙園の感想を訊かれたので、私は「ちょっとのんびりする、という感じでもないね」と返すと「そりゃそうだろう、ホテルとしての機能は完備しているけれど、メインは挙式と披露宴だから」との事でした。「(花嫁さんを眺めていたら)もう一回、結婚式、やりたくなっちゃったなあ」などと水を向けてみると「どうぞ、何回でもやって下さいよ」と鼻で笑われてしまったのでした。

 因みに、私は和装で挙式と披露宴を通しました。「もう一度のもしも」があるのなら今度は両肩を思いっきり大胆に出したドレスでヴァージンロードを歩きたいです。ヴァージンロード、もとい、セカンドロードですかね。和装はとにかく胸の締め付けが凄くて、せっかくのお料理も何一ついただけなかったのを苦い思い出として心へ仕舞っておる私でありました。

 目黒を後にして我が家が向かったのは、代官山でありました。昼前に到着したのですが、陽射しが時々照り付けて体感温度も急に上がったように感じました。渋谷区代官山は、世のお洒落自慢が必ず一度は訪れる場所と私が勝手に位置付けている街です。街、いや、私達が半日を過ごしたのは旧山手通り沿いに建つ『蔦屋書店』の一角です。本屋で一日入り浸り、というのが私の理想ではあるのですが、小説も雑誌も興味なしの主人と、騒ぎたい、触りたい、遊びたいの子供達とが同伴者であれば、悲しいかな、書籍巡りはお預けです。代わりに、その周囲に点在する玩具店やカフェダイニングで夕方までを過ごすことになりました。それでも時間は割と有意義に過ぎて行き、植栽が良い具合に木陰を落としてくれるので、ムシムシする気候ではあるものの、ぐったりとしてしまう事はありませんでした。

 玩具店を冷やかしに訪れた時には、なんと店先には水遊びが出来るようにサンプル玩具で組み立てた大きな模型が置かれてありまして、子供であれば誰でも自由に水遊びが出来るようになっておりました。そりゃあ、幼い人々にしてみれば、こんな魅力的な展示品はまたとありませんよね。我が家の息子達も夢中になって遊び始めました。流しそうめんに使用する「樋(とい)」のような半円柱形の青いプラスティック製のレールがコンクリートの地面にうねうねと敷かれてありまして、そこへ黄色や緑の知育玩具がゴロゴロ浮べられております。店の軒下に設置されており、特に柵は設けられてはいませんでした。水が満たされ、水路のミニチュアの如くなったそれに喰いつかない子供が果たしているでしょうか。

 長男も次男も時間を忘れて楽しむ様を主人と二人、近くの木陰から眺めていると、子供の為にとか、たまの休みだからとかにかこつけずに、もっと安上がりなものでも息子達は十分に休日を満喫出来るのだと再確認させられるように思えました。確かに、私や主人が子供時代を過ごした頃のように、裏の川へ橋の上から飛び込むやら、急流を渡って向こう岸へ渡るやら、用水路に膝まで浸かりながら小魚を獲るやら、は難しい事でしょう。水に触れるとしても、都会なら近場はプール、遠出にしてもきちんと整備の行き届いたオートキャンプ場や、海水浴場くらいでしょうか。庭をお持ちの家庭ならビニールプールを広げて、と行くのでしょうけれど、賃貸の狭小物件暮らしでは、風呂場でシャワーが精一杯です。こうして目の前で楽しんでいるオモチャの模型でさえ、持ち返っていったいどこに設置しようか頭が痛いような有様ですから、笑ってしまいます。でもそれだとてつまるところ「大人の都合」なのですよね。子供はただ、そこに水があって、オモチャが転がっていて、それだけでひたすらに楽しいのです。ここが代官山であっても、狭い我が家の風呂場でも、何だって良いのです。ちょっと頑張ってしまった大人サイドにはガッカリする事案かも知れませんが、平たくまとめてしまえばそういう事ですね。

 「優雅」も「粋」もありはしない我が家のお洒落スポット巡りは、こうして今日も終わりました。帰りの電車では、幸運にも座る事が出来ましたし、最寄り駅を乗り過ごしそうになるほど全員が熟睡しましたし、都会から引き上げて来た郊外の我が家は、ああ、やはり少し気温も低く感じられましたし、今年初めて蝉の声を聞いたのは、そのお洒落な代官山の一角のカフェダイニングでの食事中でありましたし、今回もまずまずの活動記録が出来上がったのではないかと、私は思っておるわけであります。