一対の物の怪
万能ではないけれども、持てる限りの力を尽くして目の前にいる子等に向き合うところから何かがみなぎってくるのだと思うのです。怪力の英雄がいるわけではありません。無敵の魔法使いがいるわけではありません。そもそも「母」はそういった理想とはかけ離れた位置に暮らす生き物であるのです。濡れた段ボールみたいにクシュクシュになって、もうそれこそみっともないほどに愚鈍で醜悪。そういうのの見本みたいなのが、恐らく「母」というものだと思います。
変幻自在に変わっていくように見えて、それは自ずからそうしている訳では無く、守るべきモノがそこにあるから自分を矯(た)めて何とか窮地を乗り切ろうとしているに過ぎません。母親の保護欲は、神聖化されやすいものの代表なのでしょうけれど、本当のところはもっとドロドロとした生々しいものであると私は思っています。あからさまに披露出来るものではないくらい、少し暗い臭いのするさもしいものであると思っています。
血肉を分ける、というのは、少なからず理屈を超えたものであるのかも知れません。綺麗事で片付けられるのであれば、誰の事をも嫌悪せずに過ごせた事でありましょう。ともすれば、守ろうとしている対象である子供本人から、母こそが忌避される存在になる危険性もあるわけです。
「般若」という面があります。あれは男でなく、女なのだそうです。男の鬼はいわゆる「鬼神」という部類で、最初から超人的な霊力を持った存在である事を示す別の面があるのだそうです。一方、般若は決して神々しいものではなく、強い情念に揺り動かされて心が崩れてしまった女の成れの果ての姿であるのです。恋に破れれば相手を呪い、子を失えば世間を恨み、そうして身悶えするうちに髪振り乱し、眼吊り上がり、口の端は裂け、牙が生え、女は鬼になると言います。だとするのなら、母も、どこかしらに見えない「鬼」を飼っていると言えるでしょう。身を翻して、足を打ち鳴らせば、優しい面(おもて)が、パッと虚空を睨む鬼に変わります。人を深く思いながらも、人を深く思うがゆえに。
人々は「母」をシンボル化するのが好きです。清らかである、無欲である、温かである、そうあって欲しいと望むのでしょう。「母」自身もそれに応えたいと切望しているし、そうありたいと願っています。でも現実は違います。神でも仏でもない、ただ、子供を持つだけの一人の女でしかありません。超人的な力が、親になったところで急に湧き出て来る訳ではありません。それでも、限界を振り切って、今以上の何者かを演じなくてはならない場が時には訪れるのです。望むと望まざるとに関わらず、あるべき姿を演じきるのです。
つまらないものでしょうか。悲しいものでしょうか。人を産む、とはきっとそうしたひとくくりに出来ない複雑な情動と結び付いているものだと思います。「陰」と「陽」、「光」と「影」がグルグル、グルグル、回り回って、練り合されて、分離して、形になろうとして、また解ける、「母」という字はそういう曖昧な様子を写し取ったように奇妙です。
私は「母」。命と死を分ける人。